古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

垂仁天皇(その2 狭穂彦王の反乱)

2017年06月20日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁4年、后の狭穂姫の兄である狭穂彦王が謀反を企てた。書紀には記されていないが古事記によると狭穂彦・狭穂姫の兄妹は第9代開化天皇の子であり崇神天皇の異母兄弟である日子坐王(彦坐王)の子となっている。要するに開化天皇の孫ということだ。

 第9代開化天皇は神武王朝最後の天皇である。第10代崇神天皇はその子として記紀の系図上は皇統を継いでいるようになっているが、これまで何度も述べてきた通り、神武王朝と崇神王朝は別王朝として同じ時期に並立していたと考える私は、この開化と崇神の系図上のつながりは創作であると考える。そう考えたときにこの狭穂彦の謀反の意味がよく理解されるはずだ。前述の通り狭穂彦は開化天皇の孫であり、すなわち神武王朝側の人物である。以下に書紀をもとにした系図で確認してみる(赤線は古事記による)。
 


 狭穂彦は妹の狭穂姫が垂仁天皇の后になっていることを利用して敵対する崇神王朝に対して天皇殺害という大胆な挑戦を試みたのだ。明らかに神武王朝と崇神王朝の対立の構図を反映した話である。狭穂彦は狭穂姫に対して「夫と兄のどちらが大事か」と尋ねた上で「自分が皇位につけば共に天下を治めることができる」と言って天皇を殺害するようにそそのかして匕首(あいくち)を渡した。しかし、狭穂姫は事を成し遂げることができず、夫に対して企ての心を明かしてしまった。天皇は八綱田(やつなた)に狭穂彦の討伐を命じたが、狭穂彦は稲を積んだ城塞を築いて抵抗を続けた。狭穂姫は兄と運命を共にすることを決め、誉津別命を抱いて稲城に入った。天皇は后と子を助けようとする一方で軍勢を増やし、稲城に火をつけて執拗に攻撃を続ける。狭穂姫は子の誉津別命を差し出した後に自ら命を絶った。その直前に天皇に対して、自分の代わりに丹波道主命の娘である5人の女を後宮に入れるように要請し、天皇は受け入れた。そのうちの一人が第12代景行天皇を生んだ日葉酢媛(ひばすひめ)である。
 狭穂彦・狭穂姫による反乱は神武王朝が崇神王朝に対して起こした反撃の一戦であったが神武側が敗れる結果となった。

 さて、狭穂彦・狭穂姫という名前を聞いて思い出すのが、宮崎県の西都原古墳群にある「男狭穂塚」「女狭穂塚」である。日向の地は中国江南からやってきた天孫族である熊襲・隼人が開発した国であり、西都原古墳群は彼ら一族の墓域である。神武はその日向から大和に東征してきて王朝を開いたのだ。その末裔である狭穂彦・狭穂姫は敵対する崇神王朝に反攻を試みて失敗し、最期の運命を共にした。その二人が寄り添うように並んでいる「男狭穂塚」「女狭穂塚」に葬られている。そんな物語は成り立たないものだろうか。

 
 男狭穂塚は全長176メートルで日本最大の帆立貝型古墳である。瓊々杵尊の陵墓(可愛山陵)と考えられ、築造方法などから5世紀前半中頃の築造と推定されている。女狭穂塚は全長176メートルで九州最大の前方後円墳。男狭穂塚同様に5世紀前半中頃の築造とされ、木花開耶姫の陵墓と考えられている。2つの古墳の築造がともに5世紀前半中頃で同時期とされていることが興味深い。5世紀と言えば古墳時代中期であり、中国史書をもとに倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代と言われている。倭の五王を誰に比定するかについては諸説あるが、いずれにしても応神天皇以降である。そうであるなら瓊々杵尊や木花開耶姫の墓であるはずがない。とはいえ、狭穂彦・狭穂姫の墓とするのも無理があるだろうか。天皇の命によってこの反乱を鎮圧したのは八綱田であるが、天皇はその功を褒めて「倭日向武火向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)の名を授けたという。ここに「日向」の文字が入っているのは偶然であろうか。

  
上が男狭穂塚、下が女狭穂塚(宮崎県立西都原考古博物館の公式サイトより)


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 垂仁天皇(その1 誉津別命) | トップ | 垂仁天皇(その3 當麻蹶速) »

コメントを投稿

古代日本国成立の物語(第二部)」カテゴリの最新記事