ホケノ山古墳をあとにして次は箸墓古墳に向かった。途中、というかホケノ山古墳のすぐ近くに国津神社というのがあり、なんだか由緒ありそうな名前だったので立ち寄ったが残念ながらさびれた神社で、後日に詳しく調べることもなく今日に至っている。この神社を早々に辞してさらに地面の傾斜に従って自転車を走らせるとすぐに箸墓古墳の後円部右側部分に出る。ここに小さなお店があって「北橋清月堂」という和菓子屋さんだった。ここで少しだけ休憩を取った。
箸墓古墳は東西軸の東側を30度ほど北に傾けた線を軸にして西側に前方部、東側に後円部がある前方後円墳である。古墳の北側は前方部から後円部の半分くらいまで、築造時の周溝が池として残っているが、それ以外の周溝は全て埋められて民家や田畑になっている。古墳の南縁に沿って、もともとは周溝部分であったはずのところが道路になっており、和菓子屋さんで休憩した後はその道を後円部から前方部の南側の先端部まで走り、そこを右に曲がって前方部の正面に到着。陵墓参考地である箸墓古墳は「大市墓」として宮内庁の管理下にあり、もちろん中にはいることができない。柵の中を覗いてみても単なる林でしかなく、面白くも何ともない。卑弥呼の墓か、台与の墓か、残念ながらそんなロマンを感じることもなかった。
それでも、ホケノ山古墳と箸墓古墳を続けて訪ねてみて、いずれかが卑弥呼の墓で、もう一方が台与の墓だとすると、ホケノ山が卑弥呼の墓だろうと感じた。墳墓の形が前方後円墳の古い形である帆立貝型であるということもそうであるが、両者の距離はそれほど離れていないのだけど、ホケノ山のほうが東側の山に近い標高の高いところにあって上から見下ろす感じがあり、その被葬者にはより大きな権威あるいは神性があるという印象だった。
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