彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

厳島神社訪問 (下関)

2008年07月24日 01時23分27秒 | 下関各地訪問

五月の末、上新地町の厳島神社を訪ねました。
近くの伊崎町にも厳島神社があり、こっちも由緒ある神社のようですが、
伊崎町の方はM先生のブログに詳しく載っていますので、そちらを
ご参照ください。

向かって左側のバス停のすぐ隣に、高さ1メートル強の石碑が立って
います。拡大してみます。



「萩藩新地会所跡」とあります。維新前後の歴史が好きな人には分かるでしょう。
そうです。高杉晋作が騎兵隊の一部を引き連れて挙兵し、最初に襲った場所なんです。

「ええっー!こんな所!」と驚きました。
襲撃した後に立てこもった了円寺は、直線で北西にわずか600mの場所なんです。
驚いた理由
Ⅰ 当たり前のことですが、当時は「徒歩の世界」だったっていう単純な驚き。
Ⅱ 徒歩の世界といっても、いくらなんでも立てこもる了円寺は近すぎる。
軍事的に了円寺が要塞的に優れた場所にあれば別だが。
って驚きでしたね。
で、僕が勝手に導いた結論は
高杉晋作は見切っていた。下関という特殊な場所は、毛利萩藩と毛利長府支藩の
支配関係が複雑に入り交じっていた。また武家社会第一義の世界といえども、
神社・仏閣に手を出すためには、それなりの手続きがいり、時間を要する。
その、タイムラグの間に一気に行動し、その結果や情勢の変化を見せつければ、
保守的とされている人々や、「守旧派」に属している人たちも変わっていく・・・
そういう「見切りの天才」だったんだろうっていうことです。だから、会所襲撃は
軍事ではなく政治ショーとして、やったんだろうなと思いました。



厳島神社の階段を上がってみました。普通、こういう所は大鐘をつり下げているのに、
太鼓をつり下げています。




いわれはこうです。

でもね、こういうの見て、愉快に感じたら駄目な人間だと思うのです。
四境戦争の内、小倉口は小倉城炎上で実質的に終わりだったみたいに、長州人は思って
いますが、援軍の熊本藩の去った後、孤立無縁の小倉藩は、城の炎上後も半年近く、
ゲリラ戦を継続していたのですよ。戦況は拮抗していました。「負けた」のは当時の
政治状況のせいで、軍事的には負けていなかったと思います。

日和山の高杉晋作像、今は陶像ですが、昔は金属製でした。
戦前、軍部のプロパガンダにすぐさま乗って、全国に先駆けて「イチビッて」、
高杉晋作の銅像を「金属供出」したのは下関人なんですよ。

歴史は「勝者」か「敗者」によって、評価はがらりと変わります。
狭い海峡の向こうの北九州の人たちにとって、この神社は面白くないだろうと思う
想像力が必要だと思いました。



道路をはさんで、鳥居があります。昔は道路の部分も境内だったのでしょうね。

写真右の焼肉屋「晋作」。厳島神社を訪ねる前は、「なんで、晋作?」と思っていた
のですが、
神社を訪ねた後は納得、納得でした。

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