彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

彦島 江の浦の桟橋を写してきました。

2008年01月22日 21時51分54秒 | 彦島各地訪問
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バス通りから桟橋に通じる道です。








桟橋があった場所です。








海に向かって右側奥に、巌流島に渡る渡船場があります。
定期船ではなく、予約制のようです。(定期船は唐戸から出ています)






更に奥に、かっての「浮き桟橋」が放置されていました。




かっての「桟橋」は海に向かって左側にあったような記憶が。どうでしたかね。


by チーム 弥生

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5 コメント

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久しぶりのコメント (山中の古老)
2010-03-11 15:45:47
 江の浦には10軒も酒屋が在った。堀越から現在の杉田のセブン・イレブン「ここは元酒屋だったのは周知のところだよね」迄の間に・・・それは、遊郭が有ったためだと推測される。その遊郭のための病院も有ったんだ!その病院で定期健診を受けなければ、店に出て客を引けなかったんだよ・・・

何処の酒屋も仕事帰りの職工達が、よく角打ちをしていたなぁ~! 唐豆の揚げたものやゲソが、おつまみの主な物だったね。汗と油と焼酎のにおい・・・臭いものばかり・・・僕も友達と何度も角打ちをやったことがあるが、あまり得意ではない!? やはり「JAZZにバーボン」おつまみはチーズ、なぁ~んちゃって・・・本当かなぁ・・・? 

西方酒店、この前から海までの通りが、いわゆる「桟橋通り」で、(*現在のバス停はその名前を貰って付けたんだ)当時は道の真ん中に汚い溝があったんだ・・・いまは蓋をされて下水溝となっている。この溝は、酔っ払って自転車に乗ってはまる人、立小便をする人・・・等で大騒ぎよ~! おっと話がそれたね!?

この酒屋さん、酒の販売は片手間で、本業はラムネとかサイダーの清涼飲料水の製造なんだ。この店の向かい側の角には、小さな電器店があって、出始めたテレビを街頭に出して通行するみんなに見せていたんだ・・・その隣には自転車屋があった。貸し自転車などもやっていたんだ。その当時(昭和30年頃)一時間10円位。

そう言えば長崎町、山水が湧き出ていた辺りにもそんな清涼飲料水屋があったね~。
*彦島有料道路建設時のトンネル工事で、その山水はすっかり出なくなってしまったよ。
ここは昔から要衝の地で、本村辺りから百段の峠(ひゃくだのたお)来た道と、江の浦方面から来て荒田に向かう道が交差をしていたんだ。

荒田方面行きのバス通りは、道の真ん中に川が流れていて「蜆」などが採れたんだよ~。川の両側は土手になっていて、その山側に田圃があったんだ。鉄道の官舎が出来るのはそのず~っと後のことなんだ。この川は植田材木店の側より海に流れ込んでいる。ここには竹屋が昭和の40年代まであって、青竹が沢山並べられていた。 夏、その竹の上に寝っ転がると、とても涼しかったなぁ~?

話は戻って、三枚目の写真の左側に練炭の製造工場があった。ここの練炭屋は時々ボヤを出した。何百という出来たばかりの練炭が棚の上で真っ赤になっていたのを僕は見たことが有る・・・が、それを見なくても、想像しただけで恐ろしくなるね!? でもさ、ここのばあちゃんとは、よくお話をしたもんだ・・・・その奥隣の空き地は火事で焼失し其のまま。犠牲者が一人いたと記憶している。向かい側の店「写真では上から三枚目、ガレージのシャッターが開いている海側の隣の店」まで類焼して、大騒ぎになった。そのときの写真、あるよ~)この道を生みに突き当たり、右に曲がったところに「巌柳荘」という名の割烹旅館があったが火災で消滅した。火事が多いところやねぇ~!?

この船溜まりから泳いで、当時、私たちは(大浜「おおはま」又は「内務省」と呼んでいた。「*ここは古くから浅瀬で、潮が引くと大きく露出する砂浜であり、内務省の管轄地になる前は大浜と呼ばれていたようだ」明治初年頃の海図を見れば彦島周りの海の深さがフィートで、こと細かく書かれていてよく分かるよ~!)

大浜・・・そこへ僕達みんなは、よく泳いで渡ったなぁ~ 上手く泳げない子は小さな板切れを、今で言うビート板代わりにしてバタ足で渡るんだ。頭にはマッチとか新聞紙とかを載せて・・・これは渡った後に其処でアサリ貝などを堀り、それを焼いて食べるためのものであったんだ。その辺に流れ着いた棒切れで少し掘ると、いくらでも採れたもんだ。
平らな石を何個か集め、鉄板代わりにしてアサリを乗せて焼いた・・・うまかったなぁ~! 

(*海水着・・・当時その様な呼び名は、まだ無く、「有ったのかもしれない」が、僕達は知らなかった。お金持ちの家の子供は海水パンツ、通称「カイパン」それ以外の普通の子供は「キンツリ」今となると、言うのはちょっと抵抗があるが、現在で言う「紐パン」。この間の冬季オリンピックの日本のユニフォームでそんな言葉が聞かれていたね。*澤忠宏著、関門海峡渡船史にその当時の写真があります。彦島図書館で閲覧が出来ます)

当時、その大浜は、まだ埋め立て中で、現在の砂置場辺りは小さな湾の状態であった。そこから東側は第二突堤の沖を浚渫中で、湾曲した砂浜をさらに東へ進むと、羽根石まで歩いて行けたね。そこには大きな岩が何個も置かれていたよ!現在、赤間神宮の水天門の前に据付けられて「太閤岩」と呼ばれているやつだ。

太田造船所の辺りが一番浅くて、大潮の干潮時には、ここから歩いて大浜の埋め立て地へ渡った、・・・と、私よりも、もっと古老の女性が教えてくれたよ!?この人は昔、検疫所で働いていたとも言っていた。捕虜として連れて来られた人達を、大きな消毒槽に入れて、消毒をしたそうな・・・消毒液が沁みてヒーヒー言っているのを、棒刷りで叩いたり突いたりしていた強引に消毒を「いじめ」をしたそうなんだ。ひどい話よねぇ~!?
あまりの辛さに自分から棺桶に入ろうとする者もいた・・・とも。ここから沢山の人が、絞りの火葬場までリヤカーに乗せられて行って焼かれたんだ・・・悲しいね!

「いきおい風邪」というものが流行ったと言っていたが、この風邪がなんだったのかは、まだ解明していない。
海峡汽船(僕達はみんな「海峡」と呼んでいた)が、大和町から、ここ江の浦桟橋に寄って、弟子待、田の首、小倉と巡航していたよ。この海峡汽船に乗り込み、三菱造船所を回る辺りになると、その船から飛び込んで、また桟橋まで泳いで帰ってくるという猛者もいた・・・恐ろしい話である。スクリューの出す渦を見ると、足がすくんで飛び込めず、弟子待まで乗って行き、裸で歩いて帰ってくる子供もいたんだが、そんな事をしてもあまり怒られもせず、大人も子供も精一杯生きていたように思うなぁ~!?

艀(はしけ)が何艘も係留されていた時代もあったが、今は漁船のみ。子供たちの格好の釣り場で秋ともなると、こぞって釣りに興じていたんだ。アジゴ、クロ、バリ、セイゴ、等、形は小さいがよく釣れた・・・餌は潮が引いている時に、側の海岸で掘るんだ。(ケビと呼んでいた「ゴカイ」や「ホンムシ」)がその主なものであったよ。

あぁ~あ、きりが無い・・・今日のところはここまでにしておこう。bye bye~!

                                   山中の古老






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ほい、しまった~! (山中の古老)
2010-03-11 16:08:17
文中「巌柳荘」とあるのは「巌流荘」の間違いです。訂正をしてお読み下さい。
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ありがとうございます! (by K)
2010-03-14 20:51:28
山中の古老」様、コメントの投稿、ありがとうございます。
本村町育ちの僕は、桟橋から船に乗ったのは5歳ぐらいと
7歳ぐらいの時の二回のみで、記憶が定かではありません。

しかしあの界隈で育った同期生には懐かしい話が満載だと
思われますので、掲示板の方に「山中の古老」様よりコメントが
あった旨、報告させていただきます。

ありがとうございました。これからもコメントをどんどんいただければ
幸いです。
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Unknown (N)
2012-02-22 16:12:35
こんにちは。あまりにも懐かしいので書かせていただきます。
この近くに住んでいました山中の古老さんの書いておられる遊郭の末裔です。
火事でなくなったのは、まーちゃんという町内会のドッチボールのエースだったおねえさんでした。まだ中学生だったんぢゃないかな?まーちゃんのお母様も一緒になくなりました。
厳流荘はお年寄りの憩いの社交場でしたね。
こちらの火事も鮮明に覚えています。ここにも幼なじみのお嬢さんがいましたが、火災以降みかけなくなりました。
私にとって桟橋通りは、切ない思い出でいっぱいです。
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すみません (by K)
2012-02-28 17:50:29
Nさん、すみません! コメントに気づきませんでした。コメントありがとうございます。
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