彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

山鹿市 大宮神社

2011年08月29日 07時00分44秒 | 神社・仏閣

山鹿市の大宮神社です。


由緒があり、歴史があるお宮さんのたたずまいです。


境内にはちっちゃな鳥居がありました。くぐると疫病よけになるそうで、
即、N君にモデルをやってもらいました。N君今年は風邪も引かないで
しょうと思ったのですが、帰ってすぐに鼻風邪を引いていましたな。

疫病神そのものであるワタクシが鳥居をくぐると、果たしてどうなるのか?
医学的、哲学的に深甚なる興味をもって、僕も鳥居をくぐりましたが、
高次元の難問であるのか、影響・変化はまだ現れておりません。


ここは灯籠まつりの元締めみたいなお宮さんだそうです。
乗りがいい僕達ですが、この種の首をつっこむ看板には、いつも興味を
持ちません。何故なんでしょうね。


これは灯籠踊りを奉納している写真を撮ったものです。
ふーん、ぐらいの感想だったのですが、


後で、灯籠の資料館を訪ねると、クライマックスはこの大宮神社の隣にある
小学校のグランドでこんなん、やるんですって。こりゃ、大迫力だし、
綺麗だよね。


境内の奥には猿田彦の石碑がずらりとありました。いろんな所から収集して
きたんでしょうか。




なんや、よう分からん世界ですが、なんだか風情があって、落ち着く空間
でした。これは裏側から撮った写真です。石が苔むすといいですよね。


大宮神社の隣の小学校のグランドです。そうか、ここで壮麗な灯籠踊りが
行われるのかと眺めていますと、遠くに何やら不思議なものが・・


ズームインしました。もっとズームインします。


なに!? ラ・スール学園!? 冗談やろ? しかし冗談にしては、金を
かけ過ぎているよね。

ということで家に帰ってから、「ラ・スール学園」を調べてみました。
「ラ・スール学園」だけで検索すると、グーグルも間違えて、
「ラ・サール学園」とお間違えではと、勝手なお世話で「ラ・サール学園」
の項目ばかりが出てきました。ほんと余計なお世話です。

で、やむなく、「ラ・スール学園 山鹿市」で検索すると出てきました。
どうやら服飾関係の学校のようですね。

by K

下関市壇之浦町 立石稲荷神社

2011年08月12日 09時55分42秒 | 神社・仏閣
9号線を唐戸方面から行くと、関門橋の少し手前に


この立石稲荷神社(立石稲荷大明神)があります。


みんな、知ってはいるけど、行ったことはないという人がほとんどだと
思います。唐戸を過ぎて道が空いて、さあ飛ばせるという所なので、
車ビュンビュンなのです。だから車停めるのがちょっとこわい所なんです。

よく見ると鳥居に向かって右側に一台分の駐車スペースがありますので、
車でも行けますよ。アタシャもちろん自転車で行きましたが。


国道をはさんだ目の前の海には、御神体である「烏帽子岩」があります。


この写真撮るのはちょっと恐かったです。道路の真ん中でしか写せないので
車が通らない隙に撮らねばならなかったからです。


さあ、登ってみましょう。


この神社は自然の傾斜を利用して三階建てのような構造になっていまして、
これは「二階」部分から祠がある「三階」を写したものです。


稲荷に狐はつきものですが、考えてみると無学で不信心なワタクシは
どうして狐なのかなんてことは全く知りませんな。


また稲荷神社がどうして商売やっている人々から支持されるのかも
知りません。知りませんが、神様どうかこの不信心な男にもお恵みをと
手を合わせてきました。




「二階」部分はテラスみたいな感じで開放感がありまして、


関門橋、和布刈、門司港方面の眺望が抜群でした。ちょっと目の前の
電線がじゃまですけどね。
真夏のかんかん照りの日でしたが、木漏れ日の下は結構涼しく、ここは
隠れ絶景スポットに間違いありません。


これは門司港周辺です。

赤間神宮から歩いても10分もかからないところにありますので、一度は
訪ねても損はない所だと思いますよ。

by K

下関市太平町「了円寺」

2011年07月12日 04時39分49秒 | 神社・仏閣
功山寺で僅かの奇兵隊と共に挙兵した高杉晋作は、新地町の
「萩藩新地会所」を襲いました。
司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んだのは三十年前ぐらい
だったと思います。

下関市出身のワタクシメが、住み慣れた京都で読む小説としては、
「世に棲む日々」ほどふさわしい小説はありません。
両方の土地勘があるんだから、こりゃ、読みやすいものだわいと
気分良く読んだ記憶があるのです。

晋作が新地町の「新地会所」を襲った・・・ふむふむ、新地町は
あの辺だったよなと簡単にイメージできました。襲撃後、「了圓寺」
にたてこもったとありましたので、ちょっと離れた地区に「了圓寺」
があんのだろうと思いながら読んでいました。

ところが、齢六十にして初めて知ったのは


この了圓寺さんが、襲撃された「萩藩新地会所」から、近いこと、近いこと!
地図で今計測しますと、635メートルです。徒歩で10分かからない距離
なんですよね。


戦争だったらこんな近くに陣を張りません。高杉晋作は「会所襲撃」は
政治ショーだと見切っているのが、この「距離」でよく分かります。
革命家とは革命期の政治家という意味なんですね。


境内に入っても高杉晋作のことに触れているものは一切見当たりません。


見当たりませんが、そんなことどうでもよくなります。このお寺さん、
感じのいいお寺さんなのです。


寺院建築には全く不案内なのですが、このお寺さん、何故だか分かりませんが、
品格があり、落ち着くお寺さんなのです。


檀家さんが多くて余裕があるお寺さんなんでしょうか、心落ち着く、
感じのいいお寺さんでした。


篤志家であられた何代か前のご住職の顕彰碑がありました。




裏面には寄付をした人々の名前が彫られていました。造られたのが
比較的最近なので、名前の方は消しています。
彦島特有の苗字が多いでしょう。植田、百合野、登根さんなんか
百パーセント彦島の名前です。和田も彦島の和田さんかもしれません。

徳川家光の時代、彦島の人は彦島が海賊系統の輩に支配されていて、
本土の方にまだ避難していたんです。その時に「寺請け制度」が、
できてしまってね、元々彦島の人間は彦島本村の西楽寺を菩提寺として
届け出たんですけど、今住んでいる近くのお寺しか菩提寺として
認められないと蹴られてね、泣く泣く近くの浄土真宗系のお寺を
菩提寺として届け出たわけなんです。

だから、彦島の古くからの家のお寺さんは、たいてい本土の方にあります。
唐戸の教法寺さんなんか、彦島に門徒さんが多いもんだから、彦島江浦町に
出張所のようなものがあります。三菱病院跡地の後にあるあの建物ですよ。
ちなみにワタクシメのオフクロの実家も教法寺さんのお坊さんが来ていましたね。

by K

川棚湯町 松尾神社

2011年04月18日 11時17分00秒 | 神社・仏閣
川棚温泉交流センターの近くに神社がありました。


石段を登ると、そこには鳥居がありまして、


木漏れ日の中を歩いて行きますと、


拝殿が見えてきます。


なんだか、その佇まい(たたずまい)がいいのです。
別に何かが有名なお宮さんということではないのですが、落ち着く
空間です。森の精霊たちも居心地が良いと感じているのでしょうか。




壁には百人一首でおなじみの人達の絵がかけられていました。


祭っている青龍の絵もかけられていました。


松尾神社だそうで、本家本元も松尾神社です。
京都の賑やかな四条通りを西へ西へと行くと桂川にぶつかり、
その松尾橋を渡ったところで、四条通りは終わるのですが、
その四条通りが終わった所に本家の松尾大社はあります。


古い社ですが補修もしっかりされています。

by K

五穀神社

2011年03月23日 10時05分16秒 | 神社・仏閣
唐戸の近くの田中町に五穀(ごこく)神社があります。
桃崎病院の裏隣になります。
桃崎病院は、昔は「盲腸なら桃崎病院」って、合言葉みたいになって
いましたよね。

五穀神社は


小ぶりながら


拝殿、本殿と分かれていて本格的です。
後は田中町の町民館です。今はどうか知りませんが、この田中町は町内会費を
集めない町だと聞いたことがあります。町として不動産を持っていて、
その上がりで町内会の予算をまかなえるからだそうです。


広くない境内なんですが、きっちりと稲荷神社もあります。


昔はここは田園地帯だったのですね。
亀山八幡宮のパンフレットに、この五穀神社は「境外社」だとありましたので、
五穀神社の親分は亀山八幡宮なんですね。祭や行事の時は亀山さんの
宮司さんが出向いてくるのでしょう。


林芙美子はこの田中町で生まれたんですね。
「放浪記」は二度ほど試みて、二度とも10ページぐらいで放棄しています。

読まなくちゃ、いずれ。

by K

亀山八幡宮 (下)

2011年03月20日 12時00分00秒 | 神社・仏閣
唐戸は江戸時代から戦前まで交通の要衝として栄えた町でした。
当時の繁栄ぶりは「全国区」だったんじゃないのかなと思うほどです。

そんな唐戸の神さんとして、ずっと鎮座してんのだから亀山八幡宮は
面白いに決まっています。境内はそんなに広くはないですが、いろんな
もんが詰まっているのです。


まずは林芙美子です。みすゞさんに人気を奪われて、ちょいと落ち目です。
「森光子さん、もうマスコミの前に出ない方が・・・」状態が、ここしばらく
続いています。森光子さんの「退場」と共に、林芙美子はしばらくは表舞台
から消えるとは思いますが、なに、林芙美子は時代を越える個性を持った人
なので、三度脚光を浴びる日が来ると思っています。




当り前のことですが、江戸時代には、「文化財」という意識がなかったってことが゜
あらためて分かりますよね。こっちが撃てば、撃ち返されて亀山八幡宮は炎上・
破壊される可能性大なんだからね。
それと久坂玄瑞! この人、いろんなところに、よーく出てくるんだけど、
生き延びていたら、どんな「老政治家」になっていたんでしょうね。




最後の「芳梅会」が気になりますね。今もあるのでしょうか。


例の「世界一大きいふぐの像」です。このデンでいけば、世界一や日本一、
山口県一、下関一を発見するのは簡単なので、いろんな視点から「一番」の
発見に努めていきたいと思っております。

by K

本行寺

2011年03月19日 12時00分00秒 | 神社・仏閣
唐戸に教法寺というお寺さんがあります。幕末に「教法寺事件」というのが
ありまして、維新物が好きな下関人にはそれなりに有名なお寺なんですが、
今回はその教法寺さんのお隣の


本行寺さんをご案内します。門から入り左手を見ますと、


「戦死之塚」が目に入ったのです。「戦死」って、えらいストレートな
表現やな、普通は「慰霊」とか「忠霊」とかいう言葉を使うのにと思いつつ
近づいていきますと、


「八幡隊?」なんだ、なんだ?


「奇兵隊?」「豊前赤坂?」!!なんと明治維新の四境戦争の時のものでした。
僕は太平洋戦争か、古くても日清、日露戦争の時のものだろうと思っていたので
驚きました。




「大里」は門司の、「赤坂」「富野台」は小倉の今でもある地名です。
そういえば赤坂は激戦で、長州軍はなかなか前進できなかったと書いて
いましたよね。


ここに眠られている人達は、日本における近代戦のごく初期に倒れた
人達です。その時代には「戦死」という漢語も、新鮮でインパクトの
ある言葉だったのかもしれません。今とは違う語感だったのでしょうね。

下関で奇兵隊をもっともリアルに感じた旧蹟でした。

by K

亀山八幡宮 (上)

2011年03月11日 12時00分00秒 | 神社・仏閣
唐戸の亀山八幡宮は鳥居やその周辺などの報告だけで、肝心の境内の様子を
伝えてなかったですね。


右のビルの屋上を見てください。


ビルの屋上も境内の一部になっているのです。


ビルの屋上は広いバルコニーの状態になっています。その「バルコニー」の
先端から鳥居を写すとこんな感じです。やはりこの鳥居は大きいですね。


階段の上からです。


本殿です。このハト達は相当に人馴れしていて、エサくれー、エサくれーと
寄ってきます。


金網越しの写真しか撮ってませんでしたが、唐戸市場とカモンワーフを眼下に
見ながらの、関門海峡の眺望もすこぶる付きでいいですよ。


帰りは裏側の稲荷の鳥居がある階段から下りました。
この階段も風情があって良かったですね。

by K

大連神社

2011年02月15日 11時53分04秒 | 神社・仏閣
地図を見ると赤間神宮の右奥に大連神社と記された神社があるのです。
Y君に教えられるまで、僕は大連神社のことは知りませんでした。

大連? 中国の? 中国のだったら戦前まであったであろう神社って
ことになる。それがどうして下関に?

僕にとっての大連は二十代になったばかりの頃に読んだ清岡卓行の
「アカシアの大連」と「二十歳のエチュード」の原口統三の大連です。

書きながら、おう読んでから四十年も経っているのかと驚きます。
読み返してみたいと思いましたが、もう僕の周りには感想を言い合える
友がいません。寂しいことです。

まあ、とにかく大連神社に行ってみようということになったのです。

大連神社は地図上では国道9号線から直接行く道がありましたが、
行ってみると、赤間神宮の境内の一画にありますので、赤間神宮から
直接に行けました。


大連神社は普通僕達がよく見る神社らしい建物と、古くて素朴なと
いうか古式豊かな(?)建物の二系統で構成されていました。


こちらの方が「古式豊か」な方で、


これがその由来です。


こちらが、「よく見る神社らしい」建物で、


これがその由来です。

そうです。あの中国の大連にあった神社でした。
このような神社が、ここ下関にあったことを全く知らなかったことに
ふるえる思いでした。

歴史的・政治的な意味合いでの大連のことは関知しません。
かって何十万の日本人が大連に関わり、この大連神社を思い出や
記憶の基点にしている人も大勢おられると思います。

全国いたる所からこの大連神社に寄付をしていることが、石に刻まれた
記録から分かります。
戦中・戦前の大連に育ち、当時の大連を懐かしむ人は、七十五歳以上に
なられています。
後、十年も経つと戦中までの大連を語る人はほとんどいなくなります。
大事に守っていただきたい神社ですね。


社務所の方に申し込むと、この資料室の中に入れるそうです。

by K

赤間神宮 後編

2011年02月10日 11時59分00秒 | 神社・仏閣

いつもはまっすぐに拝殿に行き、お賽銭をあげて、拝んで終りなんですが、


今日はじっくりと、見物です。左は「平家茶屋」で、賑わう縁日には
「茶屋」として開かれるようです。


右手は「社務所」や「参集殿」です。


そして拝殿への階段を上がるわけですが、


拝殿もよく見ると「外拝殿」と「内拝殿」と「ご本殿」に別れているのですね。
不信心なもんで観察が足りませんでした。


手前が外拝殿で、奥が内拝殿なんですが、




横から見た方がよく分かりますね。こうなっているのですね。知りませんでした。
外拝殿と内拝殿の間には水が張られていることも知りませんでした。


外から内への渡り廊下は宮島の厳島神社の渡り廊下を模して造られて
いるのかなとも思いましたが、これはワタシの勝手な妄想でしょう。

by K

赤間神宮 前編

2011年02月08日 05時47分19秒 | 神社・仏閣
国道9号線の車の中から仰ぎ見る赤間神宮は、


ま、こんな感じで見えるわけですす。通りすぎる時、そういえば
あの水天門はマルハの中部一族の寄進で出来たんだよなと、思い
馳せることもあるだろうけど、まあ、普通は、ああ、いつもの
赤間神宮だとちらっと確認するだけなんですよね。


で、俺達、赤間神宮を知っているようで、知らないんじゃないか、一回
行ってみるべとなったわけでございます。
写真は向かいの駐車場からの写真です。


派手だけど、威風堂々って感じですよね。


この石垣は何だか意味ありげです。


読みづらいのですが、昔の大坂城用の城郭の石が関門海峡に沈んでいて、
それを譲り受けてこの石垣を造ったということですね。
知りませんでした。いつからこの石垣できていたんでしょうね。


この水天門は僕らの小学校時代から出来ていましたよね。


こっちの楼閣の方は、以前からあったのでしょうか?


平成になってから出来たようです。


よく見ると大きな太鼓ですね。これが出来てからたぶん二回は訪れていると
思いますが、見えてはいたんでしょうが、見てはいなかったのですね、
こんなに大きな太鼓なのにね。


赤間神宮の戦後の再建には二つの企業(大洋漁業と関門港湾)の多大な貢献を
抜きに語れない。戦後は大洋漁業さん、昭和後期と平成は関門港湾さんの篤志
が赤間神宮の地位を揺るぎないものにした。
まっこと乱暴なまとめ方だけど、こんな感じなのかしら。


灯籠の側面に彫られていました。
大洋漁業は社名を変え、本社も下関にはありません。

by K

亀山八幡宮

2011年01月12日 15時44分39秒 | 神社・仏閣

こうやってあらためて見ると亀山八幡宮の鳥居は大きいですね。
下関で一番大きな鳥居かもしれませんね。
そして相変わらず鳥居の上部まん中の「亀山宮」の「山」のところに
軟式野球のボールが引っかかったままてす。


目にする度に思うのですが、よくもよくもあんな高い所に引っかかったもんだ
ということと、引っかかって二十年ぐらいは経っているだろうに、よくも
落ちないもんだと呆れます。


本殿の左の方に大きなフグの像があるのですが、


「世界一」の大きさなんですって! こういうの笑えて楽しいので好きです。
競争相手が少ないんだから、「世界一」は比較的簡単だよね。


似たような感じで面白かった「一番」を思いだしました。
四年前、山口市の瑠璃光寺で見ました。こちらは「県下一大きい」
シャモジでした。一体、山口県のお寺や神社で、大きいシャモジを飾る所は
何軒あるのでしょうね。

by K

彦島八幡宮に初詣

2011年01月02日 06時13分03秒 | 神社・仏閣
彦島を遠く離れている同期生のために、懐かしの彦島八幡宮の「初詣」を
ご報告します。


元旦にも来たのですが、初詣の人が多すぎて写真が撮りにくいので、
今日撮影しました。


遺跡の上に立っている神社なんです。


あらためて眺めてみると、結構風格がある神社なんですよね。


神様にお願いごとをして


色々な縁起物を買ったり


おみくじを引いたりします。ちなみに僕のは「小吉」でした。


「とんでも本」や「とんでも人」の対象になると嫌ですから、あまり紹介したくは
ないのだけど、ここには古代文字が刻まれているらしい岩が置かれているんですよ。

by K

大歳神社 (下)

2010年12月16日 17時30分00秒 | 神社・仏閣

由緒・由来にご興味がおありの方はこれをご一読ください。


階段を上がると本殿が見えてきました。


本殿です。


由来の言い伝えを石板に彫っています。


本殿の右側に摂末社の五社稲荷神社があります。


僕達は最近気づいたんですが、こういう所の鳥居は塩ビ製のパイプが
よく使われているってこと、知ってました?
継ぎ手のところなんか見ていただくと、ほらね、塩ビ製でしょう!


「お手植え」とか「お手播」ってのには、松はやめて、クスノキ等々の枯れにくい木の
方がいいかもしれません。枯らしたら、昔だったらややこしいことになってたかも。


本殿の左側には摂末社の蛭子・八坂神社があります。


詳しくはこれをご一読ください。


境内にはなんだか判然としないこのようなものが、展示されていました。


「この画碑の損傷が著しい由は、昭和十五年の大歳神社の遷座に伴い、
 移築する筈の画碑を二十余年、野ざらしで放置したことに起因する」の
行で、僕達は思わず声を上げて笑ってしまいました。

内緒の話なんですけど、下関の人はどちらかというと「新しもん好き」でして、
古いものを残すのが、実に下手というか苦手なんですよね。
実例を上げて説明させてもらうと、なるほどって分かってもらえると思うのですが、
面白く思わない方が多いので遠慮させてもらいますけどね。

その辺のことを、すごく正直に書いてある文章だったので、思わず笑ってしまいました。

頑張れ、下関!です。

by K
photo by Y
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大歳神社 (上)

2010年12月15日 15時32分34秒 | 神社・仏閣
下関駅近くの大歳(おおとし)神社へは、下関のほとんどの人は
一度は訪ねたことがあると思いますが、意外に訪ねたことのない
人も多いのです。

実は僕もそうです。一緒に訪ねたY君もそうでした。
これは大歳神社が「ちょっこし」高い所にあることが原因なのでは
ないかと思っています。

「お参りしてみようか」と思っても、「今日はちょっと暑いので次の機会に」
とか、「今日はちょっと急ぐので、またの機会に」ということで、ずっとずっとの
「後回し」になるのだと思います。

で、ふっと思い立ち、「上がってみようか」とことになりました。


この高さなんだよね。どうって高さじゃないんだけど、「またにすっか」と
思わす高さでもあるんだよね。


でも、くぐった鳥居は由緒あるものなんです。


あの白石正一郎さんが寄進なさった鳥居です。


階段の上から撮った風景もちょっと見慣れぬ感じで面白いですね。
道路奥正面の建物は「下関国際ターミナル」です。なに、関釜連絡船の発着所です。
奥の山々は関門海峡越の門司か小倉の山です。

by K
photo by Y
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