我々の生命(いのち)といいますか、生命
と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
行ってしまうか、いろんな所へ行ってしまうと
また面倒なんですけれども。
我々自身ですね。
このいろんな性格を持ってる我々自身
というものを、そのままに、神様というのは
抱き取って、そして、ゆるして下さってる。
特に我々のまわりですとね、日本など、そんな
事をすると罰が当たるよとか、それも微風を
残すために穏やかに、そんな事をしちゃいけないよ
と言うのならいいけれども、そうじゃなくて、
この頃ずうっと世の中を見ておりますと、それは
先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが悪いから
だとかそういう何か、責めるといいますかね、
苛めると申しますか、そういう形で強制しようと
する。
正していこうとする。
自分の説いてる道が一番正しいんだと言って、
これを信じなければ駄目だという形で、
我々の生命というか心を向けさせようとする。
だけれども、何か強制されてですね、強いられて
心をそこへ向けたとしても、果たして人間の気持ち
というものが素直に、その人たちの言う、何だか
分かりませんけれど、その絶対者に向いていくか
というと、そういうふうには人間の心というのは
造られていないんですね。
(つづく)
と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
行ってしまうか、いろんな所へ行ってしまうと
また面倒なんですけれども。
我々自身ですね。
このいろんな性格を持ってる我々自身
というものを、そのままに、神様というのは
抱き取って、そして、ゆるして下さってる。
特に我々のまわりですとね、日本など、そんな
事をすると罰が当たるよとか、それも微風を
残すために穏やかに、そんな事をしちゃいけないよ
と言うのならいいけれども、そうじゃなくて、
この頃ずうっと世の中を見ておりますと、それは
先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが悪いから
だとかそういう何か、責めるといいますかね、
苛めると申しますか、そういう形で強制しようと
する。
正していこうとする。
自分の説いてる道が一番正しいんだと言って、
これを信じなければ駄目だという形で、
我々の生命というか心を向けさせようとする。
だけれども、何か強制されてですね、強いられて
心をそこへ向けたとしても、果たして人間の気持ち
というものが素直に、その人たちの言う、何だか
分かりませんけれど、その絶対者に向いていくか
というと、そういうふうには人間の心というのは
造られていないんですね。
(つづく)