アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

犬の瞳            萩尾農

2009-09-28 | その他
忘れれられない「眼」といえば、犬の眼である。
「眼」というより「瞳」といった方が、かすかな悪意、疑念の一滴(ひとしずく)さえない犬の眼にはぴったりの表現だと思う。

昔、犬を飼っていた。
ソフトバンクのお父さん犬とよく似ている白い大きな犬。拾った時点で大人だった。彼女(女性)は当時、我が家(といっても父が建てた家である。私もまだ学生)が建つ前の更地に住んでいた。ボロボロの首輪には太い布の綱がついていたが、噛み切ってあった。痩せていた。引っ越していく時に置いていかれ、その綱を切ってきたのだろうと思われた。当家の土地とはいえ、痩せこけた先住者が可哀想でご飯をあげていた。なかなか懐かなかったが、懐いてからは、頼んだわけでもないのに番犬となり、家は建てても最初は塀を囲っていなかった我が家の敷地に他人が入ってくると吼えたり、唸ったりした。(我が家の敷地がどこからか、なぜ、わかっていたのか、不思議だ)
結局、保健所に届けて、わが家族になった。見たままで名前は「シロ」になった。
新しい首輪を買ってあげたら、なんだか、嬉しそうだった。
見た目はかっこいい男性に見えるが、一応(?)女性だから、翌年には子犬が生まれた。その頃は我が家にも頑丈な塀と門扉がついていたので、親犬も子犬も庭に放し飼いだった。私が学校に行く際は親犬は当然、出られないが、子犬たちは門扉の間からコロコロと(まさにコロコロと・・である)、私の後を追ってきて、なかなか学校に行かれなかった。
シロは非常に賢く、友人が遊びに来て駅まで送っていく時、犬の散歩を兼ねて連れて行ったことがある。帰路、人通りのない道で酔っ払いにからまれそうになった。その時、シロが、これもまた頼んだわけではないのに、そういう訓練もしてないのに、私の前に歩み出て、歯をむき出し、もの凄い形相で唸ったのだ。威嚇だ。いや、きっと、あの時、私が「行け!」といって鎖を話したら、飛び掛っただろう。もちろん、大きな犬にあのように唸られては、酔っ払いも逃げるしかない。
以来、私はシロを連れて歩く時は怖いもの知らずになった(笑)。
シロは私が背中にかじりついても微動だにしないで立っていた。
いつも、疑心など皆無の信頼しきった黒い瞳で私の目をみていた。
そのシロの体が病魔に冒されている事に私たちは誰も気が付かなかった。猫がいることが多かった我が家に犬がいるのは初めてだったので、犬の病気について知らないことが多すぎた。
最後にシロが生んだのはたった2匹だった。(いつも7~8匹の多産)
往診に来てもらった獣医師が「今夜を乗り切れば、その子達が乳離れするころまでは生きるかもしれない、気丈な犬だから」と言った。
医師が帰って、少しして、シロはグッと立ち上がった。周りを囲んでいる私たち家族の一人一人をしっかりと見つめて、その眼に涙があふれていた。次に子犬に眼をやり、ドウッと倒れた。臨終だった。「子供を頼む」と私たち一人一人に言い残したに違いない。その時の様子はもう長い歳月が経っているのに忘れられずに、今でも、その話が出ると胸が熱くなる。(こうして書いていても涙が出てきてしまうのだ)。
その瞳を忘れない。

その後、また、犬を飼った。
今度は小型犬、ポメラニアン。ムックという名前。
かなり有名な○○ケンネルで飼ったのに、なんと、予防注射をしていなかった。
ジステンバーになった。何とか、治ったが、それが原因で足が悪くなった。それを治すために入院し、手術した。毎日、見舞いにいった。ある日、ムックは病院の入り口で「帰ろう!帰ろう!」と吼えた(多分、そう言っていた)。けれど、退院許可を出してもらえなかったので、そのまま、置いてきた。それが、最後になった。翌日、急死の連絡をもらった。原因がわからないと病院側もいう。のちの医療のために解剖させてほしいと言われた。この後の動物のために・・と自分を納得させてOKした。腸が半分くらい真っ黒になっていたという。ストレスで腸が動かなくなっていたのだと説明を受けたが、現在でも納得はできていない。腸がそこまでになる前に何らかの兆候(食事をしないとか)があったはずだ。
それで、私はそれこそ、三日三晩泣いて、「帰ろう」と吼えていた、ムックの瞳を胸に刻みつけた。

なぜ、今、犬の瞳についてこんなに長々と書き連ねたか、昨日、あるコミックに号泣した。タイトルにひどく惹かれるものがあり、即、購入した。『星守る犬』である。すでに20万部を売っているそうだから、知っている人もきっといると思う。
そうなんだよね、犬は「いつも待っている」んだよね・・・と頷きながら、涙ポロポロ。
犬はいつも「人間に何かしてあげたい、何かしてあげたい」と思っているそうだ。猫はどうだろうという話になって、「猫は人間に何かしてもらいたい、何かしてもらいたいと思っているよ」と、現在、猫数匹の我が家で私は答えていた。
犬は呼べば、どんな時でも喜んで駆けてくるが、猫はそうとは限らない。自分が動きたくない時、特に日向で気持ちよく居眠り状態の時などは、「用もないのに呼ぶな」と迷惑そうな眼差しを寄こす。
犬の献身、猫の気まぐれ・・・。私は犬のあの信頼に満ちた瞳が時々、眩しくて「そんな眼をされても、私は裏切るかもしれないよ」と、自信がなくなる。その点、猫の場合は「裏切はお互い様」みたいで、気が楽(笑!)。

その眼の奥に強い思い(光)を宿した瞳に時々出会う。
「犬の瞳と似ている、何かをしっかりと信じている」
そんな風に思う。
先日、舟木一夫コンサートを観た。
その時、「この瞳」に出遭った。信じるものをその胸底にしっかりと持っている。何を持っているのか、わかった気がした。

いつかはそういう瞳を持つ可能性がある人は、その片鱗がその眼に現れている人は・・・見回してみたら、ア、もしかしたら・・と、最近、めきめき芝居も上手になってきた小栗旬クンがいた。少し前と比べて、顔つきというものが違う。眼の光が強くなった。彼は今後ものびていくだろうなぁ。
彼に限らず、人が何かを見つけて全力疾走する時、瞳は「犬の瞳」だ。見つけたものを信じ切って、駆ける、駆ける!

さて、私も「犬の瞳」を得るべく駆けだすものをみつけなければ・・と、本当はそれが、何か、さすがにここまで人生を歩いてきていれば、わかっているけど・・。