ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

文化の懸け橋になれるか、ソルボンヌ・アブダビ校。

2011-02-17 20:51:44 | 文化
昨年末のクリスマス休暇をエジプトで過ごし、直後に退陣することになったムバラク大統領の厚遇に浴したのが問題視され批判されたフィヨン首相(François Fillon)。北アフリカでの強権政治打倒の民衆運動がアラビア半島や湾岸地域にも波及するのを見通していたかのように、12日からサウジアラビア、アブダビへと公式訪問に出かけました。

13日に訪問したアブダビで出席したのが、ソルボンヌ・アブダビ校(la Sorbonne-Abou Dhabi)の新校舎落成式。ソルボンヌ自体は、1253年に創設された大学で、その歴史的建造物であるパリ中心部の校舎は、1635年にリシュリュー枢機卿(Cardinal Richelieu)の依頼で建設されたもの。今日では、パリ第4大学とも呼ばれ、要人の輩出ではエナ(ENA:l’Ecole nationale d’administration:国立行政学院)をはじめとするグラン・ゼコールにその座を譲っていますが、伝統と格式が今に息づいています。

そのソルボンヌがアラブ首長国連邦を形成する首長国・アブダビに分校を建設することを決めたのは2006年で、その調印式には、当時ソルボンヌ文明講座のディレクターを務めていた教授も出席していました。3度ほど直接話をする機会があった教授でしたので、テレビのニュース番組でその顔にすぐ気付いたことを、それこそ昨日のように覚えています。

さて、フィヨン首相ですが、その新校舎落成式でスピーチをしたそうです。どのような内容だったのでしょうか。13日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

13日、フィヨン首相はソルボンヌ・アブダビ校の、豪華な新校舎の落成式に出席したが、その建設費はすべてアブダビ側によって負担された(2,000~3,000万ドルと言われていましたから、今のレートで換算すると約16億6,000万~24億9,000万円の負担になります)。

アラブ諸国での暴動に刺激されて他の国々でもイスラム主義が台頭するのではないかと西欧諸国の当局が心配している折、フィヨン首相はスピーチを断行した。その中で首相は、文明の衝突という命題は、フランスの知的伝統に属さないものであり、危険な考えであり何ら価値を持たないものだ。世界の秩序にいかなるビジョンも提示せず、結果として破壊とニヒリズムしか持ちえない。もたらすものは、恐怖と無知のみだ。こう述べ、最後にソルボンヌ・アブダビ校のスローガンを繰り返した。それは、文明に懸ける橋(Un pont entre les civilisations)。

アブダビ校の校舎建設は、サルコジ大統領が礎石を置いた2008年に始められ、計画では2,000人の学生が学ぶことになっていた。しかし、現在600人の学生しかおらず、そのうち100人ほどは現地に暮らすフランス人の子弟たちだ。

このアブダビ校については、昨年8月、皮肉的な論調でお馴染みの週刊紙『カナル・アンシェネ』(le Canard enchaîné)が噛み付いていた。ソルボンヌ・アブダビ校は、まさに桃源郷の大学だ。教授たちは大金持ちであり、学生たちは試験にシステマティックに合格していくことになる。

『カナール・アンシェネ』のこうした批判に、フィヨン首相は、次のように反論した。金儲けに走り、知の評判を危うくするような人が大学にいると批判する人々がフランスにいたとは、驚きだ。重要なことは別にある。アブダビというパートナーと共に、文明の対話に貢献できる教育機関を創ったことをフランスは誇りに思うべきだ。

しかし、フィヨン首相のサウジアラビア、アブダビ訪問には、別の目的もある。フランス企業のビジネス上の契約を支援するというものだ。

・・・ということなのですが、一説には「中東のパリ」をめざすとも言われるアブダビ。ソルボンヌの新校舎が完成した。後は学生を増やすだけ。ルーブル美術館のアブダビ別館も、2013年には完成する。「ルーブル」の名に恥じないだけの入場者数をいかにして達成するか。ソルボンヌにしろ、ルーブルにしろ、器はできる。後は、中身をどう充実させるか、ですね。果たしてうまくいくものでしょうか。国民がどこまで付いてくるかでしょうか。ソルボンヌの学生数からは、王族がいくら笛吹けど、国民踊らず、となりそうな気もします。金はいくらでもある。文化だって、買ってくればいい。そんな気持ちがあるのではないかと、推測してしまいます。

そうした、「大金持ち」のアブダビから金を巻き上げるがうまいのが、これまたフランス。ソルボンヌの建設維持費はすべてアブダビ持ち。お陰で、湾岸諸国にいるフランス人子弟を受け入れる教育機関が完備した。ルーブルは、開館後15年間作品を貸し出すことにより10億ユーロ(約1,120億円)を手にすると言われています。サルコジ大統領によって削減された文化予算をルーブルとしては補えることができる。実にうまいものです。

金ならあり余るほどある国、知略に長けた国・・・企業はもちろんですが、「国」としても国際大競争の時代。見渡せば、強敵だらけです。がんばれ、日本!

BDの国におけるマンガの評価・・・アングレーム国際漫画祭

2011-01-31 22:01:04 | 文化
マンガが“manga”で通用し、マンガ喫茶もあるフランス。しかし、もちろんBD(bande dessinée)というフランス語もきちんとあり、マンガに関しても長い歴史を持っています。日本でもお馴染みの「タンタンの冒険旅行シリーズ」(Les Aventures de Tintin)も、作者はベルギー人のエルジェ(Hergé)ですがフランス語で書かれており、フランス語圏のBDとみなされています。

そして、何事につけ、権威づけのうまいフランスは、マンガでも国際的な賞を創設しています。1974年から始まった「アングレーム国際漫画祭」(Festival international de la bande dessinée d’Angoulême)がそれで、マンガ界におけるカンヌとも言われています。

フランス西部、ポワトゥー=シャラント(Poitou-Charentes)地域圏にあるアングレーム市が開催しているマンガ祭です。因みに、この地域圏のトップは、2007年大統領選挙の社会党候補だったロワイヤル女史(Ségolène Royal)が務めています。

毎年1月に開催されるアングレーム国際漫画祭。前年に出版された作品が対象ですが、例外があります。最も権威ある賞であるグランプリがそれ。長年マンガの発展に寄与したマンガ家を毎年1名選出し、選ばれた作家はマンガ・アカデミー会員となり、翌年の審査委員長を務めることになります。この新たなアカデミー会員、つまりグランプリの受賞者は、会員の投票によって決められています。

アカデミー会員などと言うとたいそう重々しくなりますが、映画が第七芸術と言われるように、マンガは第九芸術と言われているフランスですから、奇異に思われることもなく、その価値はしっかり認められているようです。

マンガのアカデミー会員になる、つまりマンガの殿堂入りした漫画家たちですが、あくまでフランス国内で出版された漫画の作者が対象ですから、ほとんどがフランス人。外国人受賞者はごく一部です(ベルギー人4名、アメリカ人2名、イタリア人1名、スイス人1名、ユーゴスラビア人1名、アルゼンチン人1名)。不公平な気もしますが、このあたりが、権威づけとその中心に鎮座ましますことの上手なフランス人ならでは。私たちは指をくわえて羨ましがるしかありません。

「マンガ」がそのままフランス語の言葉として通用し、マンガをきっかけに日本語を学ぶフランス人学生が多いとはいえ、アカデミー会員になった日本のマンガ家はまだ一人もいません。しかし、部門賞受賞者はいます。

<過去の日本人受賞リスト~ウィキペディアより>
谷口ジロー『遥かな町へ』(2002年、最優秀脚本賞、優秀書店賞)
浦沢直樹『20世紀少年』(2004年、最優秀長編賞)
谷口ジロー『神々の山嶺』(2005年、最優秀美術賞)
辰巳ヨシヒロ(2005年、特別賞)
水木しげる『のんのんばあとオレ』(2007年、最優秀作品賞)

水木しげる氏の作品は、1991年にマンガ作品として日本で出版されていますが、フランスでは2006年に出版されたのでしょうね、2007年の受賞になっています。

上記のように、日本人漫画家の受賞者はわずか4名です。しかも谷口ジロー氏と浦沢直樹氏はフランス人漫画家メビウス(Moebius:本名はJean Giraud:ジャン・ジロー)の影響を強く受けており(谷口氏のペンネームはジャン・ジローに因むのでしょうか)、フランス人の好みが反映されているのかもしれませんね。もちろん、上記4名の方々の作品が十分に素晴らしいことは、敢えて言うまでもありません。

さて、今年のアングレーム国際漫画祭の受賞作品を、30日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

1月30日、第38回のアングレーム国際漫画祭のグランプリ(Grand Prix de la Ville d'Angoulême)が、『マウス』(“Maus”)の作者であるアメリカ人作家、アート・スピーゲルマン(Art Spiegelman)に授与された。数年前からスピーゲルマンの名はグランプリ候補に取り沙汰されていたが、ついに受賞。『マウス』一作だけの作家だとか、優れた作品だが、もう古いとか言われていたが、こうした批判にもかかわらず、マンガ・アカデミー会員たちはスピーゲルマンを仲間に迎え入れることにした。なお、今年の審査委員長は、フランス人漫画家・バル(本名はHervé Barula)が務めていた。

自分の出版社“Raw”から、1981年~1991年にかけて出版された『マウス』は大きな衝撃を与え、マンガ作品としては初めての、そして今日でも唯一のピューリッツァー賞受賞作品(1992年)となった。ユダヤ系ポーランド人として、アウシュビッツを生き延びた実父の経験を題材とした作品。ユダヤ人はネズミ、ナチは猫、ドイツ人は犬と擬人化されている。ショアーに関する寓話であるこの作品は、今日では30カ国語に訳され、学者の研究対象にもなっている。

風刺雑誌“Mad”の愛読者だったスピーゲルマンは、『マウス』の成功の後、1993年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』に入社。2001年、9・11直後の号の表紙に、一見まっ黒に見えるが、よく見るとワールド・トレードセンターが描かれているというイラストを描き、評判を取る。しかし、その1年後、『ザ・ニューヨーカー』の編集がブッシュ政権へおもねっているという理由で退社してしまう。なお、夫人のフランソワーズ・ムーリー(Françoise Mouly:フランス人)は、『ザ・ニューヨーカー』のアート・ディレクターである(夫人がフランス人ということが今回の選考に影響したのではないかと思えないこともありません、なにしろ自国愛の強烈なフランス人ですから)。

その後、個人的にもトラウマともなった9・11とその影響を描いた『消えたタワーの影のなかで』(A l’ombre des tours mortes)を発表。今回の受賞に際しては、フランス・マンガの支援を、前にグランプリを受賞したアメリカ人作家、ロバート・クラム(Robert Crumb)に負けないようしっかり行っていきたいと述べている。

最優秀作品賞(Fauve d'or du meilleur album)は、パリに住むイタリア人漫画家、フィオ-ル(Emanuele Fior)の“Cinq mille kilomètres par seconde”(秒速5,000km)に贈られた。遠距離恋愛の物語で、新しい科学技術が重要な役割を演じている。非の打ちどころのない洗練さが特徴となっている。

審査員特別賞(Prix spécial du jury)は、フランス生まれのアメリカ人漫画家、マッツッケッリ(David Mazzucchelli)の“Asterios Polyp”に、最優秀シリーズ賞(Prix de la série)は、フランス人作家のヴァレー(Sylvain Valée:画)とニュリー(Fabien Nury:作)による4巻シリーズ“Il était une fois en France”にそれぞれ贈られた。ニュリーは現代最高の漫画作家と言われている。

最後になるが、「manga」の国、日本から唯一、最終候補58点の中に入っていた浦沢直樹の“Pluto”(『プルートウ』)は世代間賞(Prix Intergénérations)を受賞した。

・・・ということなのですが、『プルートウ』は、あの手塚治虫の『鉄腕アトム』、その「地上最大のロボット」をリメイクした作品。傑作は時代を超える、の一例ですね。

それにしても、アメリカで、ヨーロッパで、アジアで、多くのマンガが描かれ、多くの読者を獲得している。さすが、「第九芸術」です。その中で“manga”で通用するのですから、日本のマンガは大したもの。日本の文化戦略にとって大きな財産ですね。頑張れ、マンガ。そして、漫画家たちの創作意欲を減退させないような国の支援も、ぜひ。

電子書籍の普及は、印刷本にとっても追い風だ!

2011-01-23 20:00:25 | 文化
電子書籍専用端末の登場などにより、電子書籍の普及が進んでいますが、では、その普及に反比例して、印刷された書籍は衰退の一途をたどるのでしょうか。いや、そんなことはない、少なくともそれなりの期間、電子書籍が読まれれば読まれるほど、印刷された書籍も多く読まれるようになる・・・化石の世界に片足を踏み込んだような印刷書籍愛好家に、こう嬉しい言説を述べてくれているのが、ハーヴァード大学図書館長のロバート・ダーントン(Robert Darnton)氏。

16日の『ル・モンド』(電子版)の記事に若干の情報を付け加えてみると・・・

ダーントン氏は、本の歴史という分野におけるパイオニア。1939年生まれですから、71歳。ハーヴァードに学んだ後、オックスフォードに留学し、歴史学で博士号を取得。専門は革命と啓蒙主義を中心としたフランス18世紀。帰国後、プリンストンで長らく教鞭をとり、2007年から母校の図書館(1638年に400冊の書籍で産声を上げ、今日では1,700万冊の書籍と4億点の手稿、その他資料を保管する世界随一の図書館)の館長になっています。

18世紀フランスの実態を描いた著作も多く、日本でも『猫の大虐殺』、『禁じられたベストセラー~革命前のフランス人は何を読んでいたのか』、『革命前夜の地下出版』、『パリのメスマー~大革命と動物磁気睡眠術』などの作品が出版されています。

こうした経歴だけを見てしまうと、本の虫で、電子書籍を目の敵にしている人物のように思えてしまいますが、いたって開明な知識人で、1999年には早くも電子書籍の普及、特にアカデミズムの世界での普及拡大をめざす“Gutenberg-e program”(グーテンベルグ e プログラム)をメロン財団(Andrew W. Mellon Foundation)の支援の下で始めています。

そしてインターネットの普及は、さらに大きな希望をダーントン氏にもたらしました。専門分野である18世紀の知識人たちが夢見ていた「文芸共和国」(République des Lettres)の実現。「文芸共和国」とは、古くからヨーロッパの知識人たちが夢想してきた、彼らの共通言語であるラテン語によって書かれた書簡を中心に、国境や宗教の違いを超えて知的に交流し合う場のことです。そうした「場」をネット上に構築できるのではないか・・・フランス革命ならぬ、「デジタル革命」です。誰でもが無料で活用できる図書館をネット上に構築できれば、知識をより広く普及することにもつながる。ダーントン氏は夢中になりました。

しかし、ダーントン氏は書籍のデジタル革命に大きな影を投げかける問題点も、きちんと指摘しています。それは、株主に大きな利益を還元するよう宿命づけられた私企業であるグーグル(Google)が、世界中の書籍のデジタル化を主導し、電子書籍へのアクセスを独占することへの危惧です。

そこで、ダーントン氏は、私企業ではなく国によるネット上の施設、「アメリカ国立電子書籍図書館」の設立をめざすプロジェクトを立ち上げました。このプロジェクトは、昨年10月、国会図書館、国立アーカイブ図書館、大学関係者、司法当局、IT技術者、財団法人らが集まった会議で認められたそうで、実施にあたっては、いくつかの財団が財政面での支援をメセナとして行うことも決まったそうです。国立電子書籍図書館がネット上に開館するにはまだ20年近くかかるだろうが、それでもやってみるだけの価値はある、何しろこの歴史的転換点を茫然と見逃すべきではないのだから、と氏は述べています。

ダーントン氏はまた、ネット時代における図書館の役割について、次のように指摘しています。情報や知識を保存すること(ただし、ブログやメール、研究成果のPDF版資料などをどうするかという問題は残っています)、学生をデジタル空間の知識の花園に誘うこと、世界中にあるできるだけ多くの情報へのアクセスを無料で提供すること。今日の図書館は、文明の記憶を確かな形で残し、すべての人々に知識への扉をあけるという、かつてないほど重要な役割を担っている。

デジタル革命の時代に、世界随一の図書館館長を務めるダーントン氏。デジタル化への取り組みを急いでいますが、しかし、印刷本への愛着はやはり強いようです。氏曰く、書籍におけるデジタル革命はすでに間違いなく始まっている。2010年、アメリカにおける書籍売り上げの10%を電子書籍が占めており、この勢いで15%や20%までは進捗するだろう。しかし、電子書籍の登場は、必ずしも印刷書籍を市場から追い出すわけではなく、逆に売れ上げを増加させている。電子書籍が読まれれば読まれるほど、印刷書籍が多く売れていることを出版業界も確認している。読書欲はいや増すばかりだ。今年、世界中で発売される新刊本が100万冊を超えないと誰が言えよう。印刷書籍は死んだという声を聞くたびに次のように答えることにしている。印刷書籍の死、それは何と美しい死なのだろう・・・

ということで、印刷書籍もまだまだ生き残れるようです。しかし、それも、ここしばらくは、ということですので、やがては電子書籍の世界になり、印刷書籍はそれこそ「図書館」の書庫の中に生き残ることになるのでしょう。ただ、そうなるのには、もう少し時間がかかるようですから、私たちは印刷書籍と電子書籍の2足の草鞋を履いて行くことになるのでしょうね。

フランス人から見た日本人の生き方は・・・健全なる精神は健全なる身体に宿る。

2011-01-17 21:40:20 | 文化
日本人の間にフランス通が多いように、フランス人の中にも日本通の方々がいます。何しろ、19世紀にはジャポニスムが起き、浮世絵はゴッホなどの絵画に大きな影響をもたらしたほどですから、日本好きな人(les japonophiles)がそれなりにいて当然ですね。

たとえば、“Le Bénarès-Kyôto”(『ベナレス・京都』、インドと日本に関する思索)で2007年のルノドー賞(エッセー部門)を受賞したオリヴィエ・ジェルマントマ(Olivier Germain-Thomas)氏。日本の作家・学者との交流も広く、炯眼に満ちた文章を書かれています。日本でも、『日本待望論~愛するゆえに憂えるフランス人からの手紙』などが出版されています。

一方、庶民との出会いを通して日本社会を理解しようとしているのが、『日本、僕が愛するその理由は』でお馴染みのジャン=フランソワ・サブレ(Jean-François Sabouret)氏。北海道で仏語教師をした後、東京・神楽坂に居を定め、路地裏生活を楽しみつつ、日本の庶民との草の根交流を通して、フランスと異なる日本社会の特徴を追求。フランスに戻った後も、日本を外から、あるいは再び内から観察をしている社会学者。国立科学研究センター(CNRS:le Centre national de la recherche scientifique)の上席研究員を務めています。

そのサブレ氏へのインタビューが12日の『ル・モンド』(電子版)に出ていました。フランス人読者へ、日本の何を、どう紹介しているのでしょうか。

(日本人の生き方の特徴とは?)

日本とは、今この瞬間であり、雰囲気であり、場の空気である。日本通を気取るつもりはないし、日本人のように暮らしているわけでもないが、36年前に初めてその地に降り立って以来、常に私の中にあるこの国を内から外から眺めてきた。日本について考えるとき、一般化は避けるべきだ。ネガティヴにせよポジティヴにせよ、型にはまったイメージで捉えがちだが、これだと断定できるイメージがあるわけではない。誤ったイメージはやがて幻滅へと導くことになる。

ある国について、まずは何がしかの幻想を抱くことは、それはそれで大切だ。日本についてであれば、歌舞伎であったり、芸者、相撲であったりするが、私が興味を持ったのは、日本の庶民の中に一フランス人として普通にあることだ。日本式の生き方とは、今この瞬間を生きることだ。

(茶道とか温泉といった社会的特徴は今でも息づいているのか?)

茶道は16世紀の千利休まで遡る歴史を持つが、今日でも暮らしに根付いている。くすんだ色合いの土壁に囲まれ、小さな庭に面した、嵐が吹けば倒れそうな小さな家屋がその舞台だ。客人は、そこで世の栄華、やがては訪れる死について想いを巡らす。素晴らしい茶器は欠けたりひび割れたものだ。それは我々の存在が決して完全なものではないことを表象している。茶道とは何ぞや。利休答えて曰くは、湯を沸かし、茶を入れ、それを飲むことだ。まさしく、禅のアプローチだ。

今日、茶道には裏千家、表千家、武者小路千家という三大流派があり、良家の子女たちがそこで茶道を習っている。花嫁修業のひとつであり、ピアノを習い、生け花を習い、茶道を習う。日本は、アジア箸文化圏、儒教の影響を受け継ぐ地域に属している。茶道を習うことは、その生まれ育った家の格、身分、家族が望む階層に適合することだ。日本社会で大切なことは、自らが社会のどこに位置する人間なのかを理解することだ。エリート層、ヒエラルキーの上の層、高級官僚などにとって望ましい仕組みになっている。

茶道においても、武道と同じように、伝統を守ることが大切だ。師に従って習うものであり、全ての「道」はそこから始まる。そして生涯をかけてその「道」を究めるのだ。日本社会においては、謙遜と謙譲が尊重される。何かを知っているとしても、見せびらかしてはいけない。俳句に言う、物言えば唇寒し秋の風。また、急がぬことも大切だ。刀は鞘に収めておくべし、とも言う。

日本文化の核の部分にある神道は、血の不浄に対する恐れに立脚していた。日本人がよく風呂に入るのは、身体を洗うとともに、身を清める意味がある。今日では、そうした意識はなくなっているが。別の格言曰くは、健全なる精神は健全なる身体に宿る。パリに臭気が満ちていた時代、江戸には運河が張り巡らされ、清潔を保つため、ゴミや糞尿が人の住む地域の外に運び出されていた。そして当時から貧しい人々でさえ、風呂に入っていた。その頃のヨーロッパ人といえば、本当に汚かった。日本人は、強い香りを嫌い、中庸、度を越さないことを好む。

女性たちは香水をつけたりしなかった。香水をつけるということは、他人の関心を引く行為であり、日本のエチケットにそぐわないものだ。しかし、今日の若い世代は変わってきている。また温泉に浸かることは、緊張を解きほぐす寛ぎのひと時だ。身体を洗い、歯を磨き、ひげを剃ってから、鉱泉や温度の異なるいくつかの湯に浸かるのだ。

(食は日本社会でどのような位置づけにあるのか?)

今日、日本の女性はフランス人女性より料理に割く時間は少ないと思う。それは食材の風味をできる限り生かすという料理の基本的考えに起因している。従って、中国料理やフランス料理ほど、準備に時間をかけずに済む。

しかも、外食が容易にでき、その費用も自炊するより安いほどだ。日本料理で称賛すべきは、日常の食事においてさえ、美しさを求めることだ。料理人は素早く巧妙に腕を振るい、すべてに美をもたらす。エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt:19世紀の作家・美術評論家、ジャポニスムの興隆に貢献、彼の遺産を基に制定されたのが、権威ある文学賞「ゴンクール賞」)がその著“Outamaro, le peintre des maisons vertes”(歌麿、緑の館の画家)で書いているように、日本は日常生活に供されるものまでが偉大なる美を纏っている唯一の国なのだ。次のような有名な表現がある、目で味わう。つまり、たとえ簡単で豪華でない食事であっても、器や盛り付けなど見栄えが大切なのだ。食するとは、その場の雰囲気を味わうことであり、物の姿を見、音に耳をそばだて、その雰囲気に溶け込むことなのだ。

日本人は、アジアの料理と同じように西洋料理も好む食通だ。その彼らが宗教と言ってもいいほどに尊重しこだわるのは、新鮮さだ。魚はいっさい臭ってはいけない。魚は保存が利かないため、かつて刺身や寿司を食べたのは沿岸地方だけであった。山沿いの地方では、川魚を獲って食していた。

日本人は度を越さないことを重んじる。日本料理においても、特別に手の込んだ懐石料理以外は、素早く供される。そのためには、料理人に長い修業期間が必要となる。また、日本人は食材を保存する知恵を見事に身につけている。燻製にして、塩漬けにして、発酵させて、あるいは酢漬けにして。

(日本人の好みの特徴は?)

日本人は新し物好きだ。元来、関西料理は甘い味付けで、関東の料理は塩辛い。しかし、今日では全国同じような味付けに変わってきている。例えば、納豆だが、30年ほど前には関東以北でしか食べられていなかったが、今では福岡でも普通に食べられている。

札幌で沖縄料理を食べられるようになっているが、もちろん札幌名物のジンギスカンや魚の鍋料理も味合うことができる。日本人は、つねに新しい何かを待ち構えていて、見つけるやすぐさま取り入れてしまうという稀有な才能を持っている。

食肉の習慣は1872年に正式に認められたもので、この年、明治天皇が牛肉の一種を食べたのが始まりだ。それ以前は動物も含めた生きとし生けるものへの思いやりという仏教の教えを優先させていた。しかし1872年以降、料理人たちはしゃぶしゃぶ、すき焼き、鉄板焼きといった肉料理を作り出してきた。

(日本料理の世界的な広がりをどう思うか?)

たいして本格的でない寿司でもいい金儲けができると理解した中国人のお蔭であり、またフランスをはじめ多くの国々で日本料理を食する人たちのお蔭でもある。

(西洋人が抱いている日本人と食への誤ったイメージは?)

日本人は寿司をそれほど頻繁に食べているわけではない。それよりも麺類をよく食べている。何時であろうと、夏なら冷やした麺を、冬には熱い麺を、場所を問わず、駅のホームであろうと、小さな粗末な作りの店であろうと、480円、約4ユーロで堪能することができる。日本人はまた根菜類を非常によく食している。

(日本・食の旅を上手に行うためのアドバイスは?)

ありきたりの場所から一歩踏み出すことだ。例えば日本アルプスへ出かけ、おいしい米と焼いた川魚、そして山のクジラと言われるイノシシの肉を食べてみる。あるいは観光ルートを外れて、新潟、佐渡、北海道などへ足を延ばす。また、地酒を楽しんでみるのもいい。それぞれの地方に、おいしい地酒がある。私にとって最もおいしい地酒は、友人がやっている米沢の九郎左衛門だ・・・

ということで、フランス人同士のインタビュー、後半は「食」についてのものでした。さすが、グルメの国! しかし、日本への造詣の深さは大したもの。食肉が公に認められた年は、知りませんでした。実際には、豊臣秀吉が牛肉を食べたとか、江戸時代には牛肉味噌漬があったとか、乾肉が食べられていたとかいう資料はあるようですが、食肉が一般的になったのは確かに明治以降なのでしょうね。

話題は「食」以外にも、茶道、神道などへ広がり、所々に俳句や格言が顔を出し、もちろん19世紀のフランス人の言葉も引用されている。言葉は時空を超え、縦横無尽。それでいて、温泉や花嫁修業など日本人の暮らしに即した観察眼が生きており(一部?な個所もありますが)、決して衒学主義に陥っていない。短いインタビューとはいえ、日本や日本人に対してステレオタイプな印象しか持っていないフランス人にとっては、新鮮なメッセージだったのではないでしょうか。

逆に、知られざるフランスやフランス人の姿を日本人へ・・・そんなことができれば良いのにと思いつつ、その遥かなる道のりに思わず立ちすくむ毎日です。

PPDAのPはPlagiatのPか・・・ある伝記をめぐる盗作疑惑。

2011-01-09 21:28:46 | 文化
テレビ局TF1の夜8時のニュースで長年キャスターを務めていたパトリック・ポワーヴル(Patrick Poivre d’Arvor:長いので頭文字をつなげて(acronyme)、PPDAと呼ばれています)。何しろ1987年から2008年まで、20年以上にわたって夜8時の顔としてキャスターを務めてきましたので、フランスでは知らぬ人はいないほど。歴代の大統領をはじめ各ジャンルの有名人へのインタビューもこなしてきました。

ジャーナリストとして活躍する傍ら、執筆活動も行っており、弟のオリヴィエ(Olivier Poivre d’Arvor)との共作も含めて60冊もの著作があります。特に伝記作品が高い評価を受けている作家です。

そのPPDAの新作が、今、盗作(plagiat)騒ぎに巻き込まれています。その新刊はヘミングウェイの伝記もので、“Hemingway, la vie jusqu’à l’excès”(ヘミングウェイ、その貪欲なる人生)というタイトルで、今月19日に書店に並ぶことになっています。

その出版を前に出版元から作品を入手した週刊誌“l’Express”(『エクスプレス』)が、414ページの中の100ページほどがヘミングウェイに関する別の作品からの剽窃だと指摘。その批判に対するPPDAの対応を中心に、6日の『ル・モンド』(電子版)が騒ぎの概略を伝えています・・・

間もなく出版される新作が、1985年に出版された(別の資料ですと、1987年5月刊)アメリカ人作家、ピーター・グリフィン(Peter Griffin)の作品“Along with youth : Hemingway, the early years”(青春とともに。ヘミングウェイ、その若き日々)からの盗作ではないかという批判を受けて、6日、PPDAが通信社AFPに次のような感想を寄せている。

2日前からの騒ぎに接し、ただただ驚き、言葉を失っている。まだ出版もされていない作品について剽窃の疑いをかけられているのだが、その批判の対象となったのは、最終稿ではない。12月に一部のマスコミが入手した原稿は推敲途中の版で、将来の映画化を念頭にいろいろな書き込みをしたものだ。昨年の夏に初稿が出来上がって以降、11回も編集者との間でやり取りをしてきた。当初の原稿では700ページにも及ぶ大作になってしまうため、一部をカットするよう編集者が言ってきたが、自分なりに短くした。

特にヘミングウェイの若かった時期についての記述を短くしたが、この部分を書き上げる際に、指摘されているピーター・グリフィンの作品を参考にはした。それはグリフィンの作品が、ヘミングウェイの若き日々に関しては最も優れた伝記になっているからであるが、作家が誰かの伝記を書く際には、さまざまな資料を蒐集し、読み込むことはごく普通に行われていることではないか。しかも、盗作を指摘されている版にしても、巻末の註の部分で18か所もグリフィンの作品からの引用であることを明記している。盗作する気なら、誰がその盗作元を註で明示するだろうか。1年半をかけて書き上げたこの作品の批評は、出版された最終稿を読んでからしてもらいたいものだ。

こうしたPPDAによる説明・自己弁護は『エクスプレス』の記事が出た翌日、出版元“Arthaud”(アルト社)から初めて出されたものであり、PPDAは直接のインタビューには応じていない・・・

ということなのですが、確かに盗作している作家がその盗作元を脚注で示すとは思いにくい。しかし、400ページのうち100ページにわたって他の作品に酷似した表現があるというのも、確かに変です。盗作なのか、単に似た表現が多くなってしまったのか。いずれにせよ、PPDAはジャーナリストでもあるわけですから、真実を公表すべきでしょう。それも、単に回答するのではなく、今回の盗作騒ぎをドキュメンタリー作品に仕上げ、その中で真実を語れば、それは天晴れというものだと思いますが。

盗作、剽窃・・・日本でもかつていく度か問題になったことがありますが、この問題には、確かにグレー・ゾーンがありますね。パロディなのか、引用なのか、盗作なのか。また、修行の一方法として誰かの作風を模写する場合もありますが、あまりにも一人の作品に傾倒しすぎると、いざ自分で書く場合にどこか記憶の奥に潜んでいる模写したオリジナルが顔を出してしまうこともあるのでしょう。グレー・ゾーンだからこそ、剽窃のそしりを受けないためにも、より一層慎重にならざるを得ないのでしょうね。

タンタン、裁判所へ行く。

2010-12-18 20:16:41 | 文化
ベルギーのマンガ家、エルジェ(Hergé、本名のGeorge Remiの頭文字を前後逆にしてRG、そのフランス語発音からHergéとしたペンネーム)。この「ヨーロッパ・コミックの父」が後世に残した傑作と言えば、ご存知「タンタンの冒険旅行シリーズ」。そのシリーズの内、1930年から翌年にかけて描かれた“Titin au Congo”(『タンタンのコンゴ探検』)が、人種差別的表現があるとして、エルジェの本国・ベルギーで訴えられています。

具体的にはどのような場面かというと、例えば、タンタンが当時のベルギー領コンゴで現地の人たちに向かって、「さあ、仕事へ行け、早く」と言い、さらにミルーが「この怠け者めが、早く仕事に取り掛かれ」と追い打ちをかける場面。現地の人たちを見下している・・・

最初に訴えが出されたのは2007年。それから3年。その経過を13日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

訴えたのは、当時学生だった、コンゴ出身のビヤンブニュ・ムブツ・モンドド(Bienvenu Mbutu Mondodo)氏。今では会計士として働いている、42歳。ベルギー暮らしも20年以上になる(ということは、訴え出た当時でも、学生とはいえ、20年近くベルビーに住んでいたわけですね)。モンドド氏を訴訟に駆り立てたのは、同じ内容の訴訟に対するイギリスでの決定。出版差し止めには当たらないものの、人種差別を想起させるイメージや言葉があり、描かれた当時の状況などを説明する文章を付け加えるべきであるという決定が出された。しかも、この決定を受けて、イギリスとアメリカで店舗展開をしている書店チェーンが、『タンタンのコンゴ探検』を子供向け書籍コーナーから18歳以上の大人向け書籍コーナーへと移した。

イギリスでのこうした状況に励まされ、モンドド氏はまず、タンタン・シリーズの著作権を管理しているムーランサール(Moulinsart)という会社に電話をかけた。その顛末やいかに。モンドド氏曰く・・・ムーランサール社は、わが社には関係ないことだと述べ、がちゃんと電話を切ってしまった。一庶民の指摘になど何ら関心を払わない会社なのだと分かったので、裁判に訴えることにしたのだ。ベルギーの1981年に成立した法律によれば、『タンタンのコンゴ探検』には明らかに人種差別的個所がある。公判には、多くの証人を呼んだ。その中には歴史家や宗教関係者も含まれる。なぜなら、ベルギー領コンゴへの入植者を増やし、宣教師を派遣したいという教会側の思惑がエルジェに働いて、この作品が世に出たのだから。

ところで、ムーランサール社は著作権を管理してはいるが、版元は別。カスターマン(Casterman)という会社が版元であり、ムーランサール社だけを相手取って出版差し止めを要求しても、実現しそうにない。そこで、モンドド氏は、今年の5月、カスターマン社も告訴。2社は、作品が描かれた1930年前後の状況が作品に反映されているものであり、作者に人種差別的意図はなかった、などと主張。

公判が続いている中、モンドド氏は今月3日から5日まで、パリ5区の区役所で開催された「第1回アフリカ人漫画家サロン」に招待され、パリにやって来た。このイベントには、ガボン、カメルーン、ベナン、チャド、コンゴ民主共和国などから30人ほどのマンガ家が参加した。いくつかの講演会や討論会が行われたが、その中のひとつが「マンガにおける植民地化と非植民地化」をテーマを掲げていた。モンドド氏はこの分科会で、『タンタンのコンゴ探検』を訴えた理由を繰り返すとともに、有名になりたいだけじゃないかとか、どうせ弁護士を雇う金なんかないのに、という噂を否定した。

イベントに参加した黒人協会代表者評議会(le Conseil représentatif des associations noires)の会長は、モンドド氏を支持しつつも、より協調的に次のように述べている・・・モンドド氏は出版差し止め以外受け入れないと言っているのではなく、作品が描かれた当時の状況を説明する文章を加えるという解決策でも受け入れる用意がある。検閲には「ノン」、教育には「ウイ」だ。

一方、アフリカからやって来た漫画家たちは、モンドド氏の訴訟にほとんど関心を示さず、「コンゴで出版差し止めにすればいいさ、でも自分の国では困る。自分もエルジェと同じように黒人を描いているからね」、あるいは、「もっと重要なことがある。今のアフリカをありのままに描くことができるかどうかだ。表現の自由との戦いの方が自分にとってはより重要なのだ」・・・

同じアフリカ人とは言え、ヨーロッパに住み、さまざまな差別にあって来た人と、アフリカに住み続け、そこでのさまざまな問題に直面している人たち。お互いの関心事が異なるのも、仕方のないことなのかもしれません。しかし、協力し合う、支援し合うことはできるのではないでしょうか。それとも、人間は、結局自己中心的になってしまうのでしょうか。立場の違い、環境の違いを認め合った上で、手を携え合う・・・言うは易し、行うは難し、ですね。

ピカソの新たな謎、明るみに出た271作品。

2010-12-01 21:01:04 | 文化
多作で有名なピカソ。油絵・素描が13,500点、版画が10,000点、挿絵は34,000点に達し、さらに彫刻や陶器が300点。この多作ぶりは、最も多作な美術家としてギネスブックにも掲載されています。この多作ぶりに、さらに271点が加わることになりました。日本のメディアも伝えていますが、その存在すら知られていなかった作品271点がフランス人の元電気工によって明るみに出されました。地元、フランスの『ル・モンド』(電子版)は、29日、次のように伝えています。

1900年から1932年にかけて制作された271点が発見されたが、ピカソの相続人たちはその発見者を隠匿の罪で告訴した。それらの作品は6,000万ユーロ(約66億円)の価値があると見積もられている。存在すら知られていなかった作品を明るみに出したのは、コート・ダジュールに住む70歳代のカップルで、その真贋の判断を遺産管理団体、特にピカソの息子、クロード・ピカソ氏に依頼したのが発端。

新発見の作品の中でも、キュビスムのコラージュ9点は4,000万ユーロ(約44億円)の価値があると言われている(ということは、66億円の3分の2が9点のコラージュ。確かに、『ル・モンド』のサイトに紹介されていた『ギター』というコラージュは写真で見ても素晴らしい!)。他には、「青の時代」の水彩画1点、最初の妻・オルガ(Olga)を描いたグワッシュ、リトグラフ、ポートレートなどが含まれている。

271点の作品を保有していたルゲネック(Pierre Le Guennec)氏(71歳)は、パブロ・ピカソの最晩年、死(1973年)の直前の3年間、電気工としてこの巨匠の何軒かの住まいに警報装置を取り付けた。その中の1軒、カンヌのヴィラ・カリフォルニア(la villa Californie)には多くの作品が入った段ボール箱があったという。

ルゲネック氏は今年の1月以来、何度かクロード・ピカソ氏に手紙を出していたが、ついに9月、パリで会うことができた。本物であることを確認したかったということだが、相続人や専門家たちは、9月23日、ルゲネック氏を告訴することに決めた。その訴えを受けて、10月5日、芸術作品盗難防止局(l’Office central de lute contre le trafic des biens culturels)は南仏・ムアン=サルトゥ(Mouans-Sartoux)にあるルゲネック氏の自宅で作品を押収した。

ルゲネック氏は当局の取り調べを受けているが、それらの作品はピカソ本人やその夫人から譲り受けたものだと無実を主張。一方のクロード・ピカソ氏は、「271点もの多くの作品を父が誰かに与えたなどということは考えられない。今まで一度もなかったことであり、とても通用するものではない。作品は父の人生そのものなのだから」と述べ、真実が明るみに出ることを期待し、「犯罪行為から何人も利益を得ることはできないし、人類の遺産とも言うべき作品が、散り散りになってしまうようなことがあってはならない」と語っている・・・

ということで、真実の解明は司法の手に委ねられています。ただ、ピカソは作品を他人にあげたりすることはめったになく、プレゼントする場合でもサインをしたとか言われていますから、やはり無断で持ち出したような気もします。しかし、ルゲネック氏側は、違法行為を自覚していれば、ピカソの息子に会って、真贋の判定を頼んだりするはずはない、と言っているようで、これも確かに一理ありそうです。

こうした騒ぎ、地下のピカソはどう思っているのでしょうか。何しろ、多作。本名が多くの聖人などの名からなっている(パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード、ルイス・イ・ピカソ)ことがその芸術家人生に影響したのか、ギネス認定の多作ですから、初期の作品271点を晩年まで覚えていたのかどうか。段ボールに入れっぱなしで、天井裏か倉庫にでも仕舞ったままになっていたのかもしれませんし、最初の奥さんのポートレートまであっては、その後の女性たちに見せたくもなかったことでしょう。司法の判断は、どうなる事でしょう。

死後37年。まだまだ、死せるピカソ生けるメディアを走らす、ですね。

研究者の給与は安すぎる・・・フランスの場合。

2010-10-27 20:14:12 | 文化
今年も日本からお二人のノーベル賞受賞者が出ました。同じ国民として、とてもうれしいニュースですね。お二人を加えると日本からの受賞者は、18名(内、お一人はアメリカ国籍)。文学賞二人、平和賞一人を除く15名の方々がいわゆる理科系の賞での受賞。科学・技術立国、日本。やはり、目指すべき姿は、これしかないと思います。

そして26日、今年の受賞者お二人に文化勲章が贈られることになり、また同時に文化功労者にも。お喜びもひとしおではないかと思います。しかし、今回のノーベル賞受賞がなかったら、文化勲章もなかったのかもしれない・・・さまざまな分野で立派な功績を残されながら、一般に知られていないために、名誉に浴していない方々も多いのではないでしょうか。いや、研究は名誉のためではない。人類に貢献できれば、それでいいのだ。という声もあるかもしれませんが、研究者の方々には、もっと良い環境で仕事に打ち込んでいただきたいと思います。

2007年までで53人のノーベル賞受賞者(マリ・キューリー、高行健など外国生まれを含む)を輩出しているフランスの場合はどうなのでしょうか。文化大国・フランス、さぞやしっかりした研究環境が整っているのかと思いきや、フランス国民の評価は必ずしもそうではないようです。20日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

文部省の依頼を受けてCSAという調査機関が1,051人を対象に行った調査によると、95%と圧倒的多数の人が科学は社会の役に立つと答えています。また79%の対象者が、科学は信頼できるものだと認めています。

しかし、65%の人が職業としての研究者は今日のフランスでは優遇されていないと述べています。この数字、15―24歳では49%に下がりますが、たぶん研究者を含めさまざまな職業での給与など待遇面での詳細をまだ知らないからではないでしょうか。教えを乞うている先生方の待遇はそれなりに見えてしまうのでしょうね。

また、58%の回答者が、研究者の給与はその仕事や能力に見合うだけのレベルに達していないと認めています。そして、68%の人が、研究者の給与はその功績に基づいて一層上げるべきだと答えています。

一方、科学への興味ですが、60%の対象者が、科学にはほとんど興味を持っていないと答えています。そして64%の人がメディアは科学の発展をあまり紹介していないと言っています。これは、鶏が先か、卵が先か、ですね。メディアが科学を紹介しないから科学に興味が持てないのか、視聴者が科学番組を見ないから、メディアは科学を紹介する番組を作らないのか。この状況は、日本でも同じなのではないでしょうか。しかし、日本には、理科嫌いを科学好きにするユニークな授業を行っている先生がいらっしゃいます。同じように、多くの視聴者が科学に興味を持つような番組が作れれば、少しでも多くの国民が科学に興味・関心を持つようになると思います。それとも、それでも芸人のお笑い番組のほうにチャンネルを合わせてしまうのでしょうか。

ところで、日本にしろ、フランスにしろ、以前から頭脳流出が問題になってきました。頭脳の流出先は、言うまでもなく、アメリカ。より良い研究環境を求めて、アメリカへ。施設や人的支援、研究に割ける時間など純粋により良い環境を求めてということなのだとは思いますが、環境の一部に給与が含まれていても、決して非難されるべきではないと思います。

さらに最近では、最先端の頭脳がこれからの国力を左右するとばかりに、世界から優れた研究者を高給や優れた環境で引き抜いている国々も出てきています。例えば、シンガポール。厚待遇で迎えていますが、もちろん待遇に見合う研究成果が出なければ、即契約解除。21世紀の外国人傭兵のようでもあります。しかし、自国がしっかりした研究体制を整えていれば、なにも外国に行く必要はないので、海外に流出する研究者を責めることはできません。

研究者たちのモチベーションをあげるためにも、研究環境の一層の整備が求められているのは、日本もフランスも同じようです。もちろん、日本とフランス以外にも同じような悩みを抱えている国々も多いことでしょうか。どこが先に現状を変え、自国の頭脳を維持、進化させることができるのか。各国の将来の立ち位置が、ここで決まってしまうかもしれません。頑張れ、日本!

二つの「モネ」展、醜い争い。

2010-10-18 20:02:00 | 文化
この秋、パリはモネで溢れている・・・二つの「モネ」展が時を同じくして開催されています。

一つは、9月22日から来年の1月24日まで、グラン・パレで行われている「モネ」展。オープン初日には6,300人の入場者があり、会期中には今までの記録だった2008年の「ピカソと巨匠たち」展(“Picaso et les maîtres”)を超える80万人の入場が見込まれると言われるほどの大人気。めったに貸し出されないニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵の『サン・タドレスのテラス』やモスクワ・プーシキン美術館所蔵の『草上の昼食』など、70を超える世界中の美術館やコレクター所蔵の作品が、一堂に集められています。

もう一つの「モネ」展が行われているのは、16区にあるマルモッタン美術館。クロード・モネの息子、ミシェル・モネが多くの作品を寄贈した美術館です。10月7日から来年2月20日まで、印象派の語源となった『印象、日の出』(Impression, soleil levant)や『睡蓮』など館所蔵の多くの作品と、手帳や写真などモネの遺品も含めて、幅広くモネを紹介する一大美術展になっています。

二つの美術展を回れば、モネのかなりの作品に出会えるわけで、愛好家にとっては願ったりかなったり。よくぞ協力して開催してくれたと感謝したくなりますが、実は開催をめぐって、タイアップどころか醜い争いが行われていた。その争いのお蔭で、二つの「モネ」展が開催されたのです。10日の『ル・モンド』(電子版)がその内幕を紹介しています。

事の発端は、2008年3月。ルーブルやオルセーなど国立美術館の運営管理や展覧会の企画を行うフランス国立美術館連合(RMN:la Réunion des musées nationaux)のグルノン会長(Thomas Grenon)とオルセー美術館のコジュヴァル館長(Guy Cogeval)が、グラン・パレで「モネ」展を開催することを決定。美術展の成功は、いかに優れた作品を集めるかにかかっている。そこで、各地の美術館や個人のコレクターに貸し出しを依頼。特に「モネ」展と言えば、印象派の由来となった『印象、日の出』は欠かせない。

そこで、コジュヴァル氏はその年の秋、『印象、日の出』をはじめ多くのモネ作品を所蔵しているマルモッタン美術館のタデイ館長(Jacques Taddei)を昼食に誘って、貸し出しを依頼しようとした。しかし、タデイ館長が語るには、その会食はとても気まずいものだった・・・テーブルに着くより前に、コジュヴァル氏は「モネ」展をやろうと思うと切り出した。それに対しタデイ氏は、自分も同じ企画を温めていると答える。するとコジュヴァル氏は、それは諦めた方がいい、まるで巨人のゴリアテに歯向かうダビデのようなものだ。そこでタデイ氏は、小さいダビデが勝つこともある、このまま帰ってもいい、と応酬。結局、物別れに。

こうして、交渉はまとまりませんでしたが、しかしどうしてもマルモッタン美術館所蔵のモネの作品を借りたいグルノン氏とコジュヴァル氏は17点の作品に絞って、貸し出しを願い出ました。しかし、そのリストにあったのは、1870年代のモネを代表する作品ばかり・・・『印象、日の出』、『サン・ラザール駅』(La Gare Saint-Lazare)、『雪の中の蒸気機関車』(Le Train dans la neige)・・・これらを貸し出してしまったら、マルモッタン美術館に印象派の充実した時代の作品が無くなってしまう。そこで、タデイ氏は申し出を断りました。

それでも諦めきれない二人は、今年の1月、5点にまで絞って、改めて貸し出しを依頼しました。しかも今回は、グラン・パレ、『睡蓮』の大作を展示しているオランジュリー美術館、マルモッタン美術館の3館共通のチケットを提案。各チケット代金のうち7ユーロをマルモッタン美術館が手にすることができるという、おいしい条件まで付けてきました。

しかし、マルモッタン美術館はこの申し出も拒否。その理由は・・・『印象、日の出』はあくまでマルモッタン美術館のシンボル的作品で、同じパリの他の美術館で展示すれば、何かと誤解のもとになる。

こうした、言ってみれば楽屋裏の出来事は、本来なら一般には知られないものですが、コジュヴァル氏はあまりに悔しかったのか、マスコミを通してマルモッタン美術館を非難してしまった・・・マルモッタン美術館の「モネ」展は、作品を貸し出さなかったことを正当化するために、急きょ決定した美術展で、まったくひどい対応だ。マルモッタン美術館は、田舎美術館だ。

これに対し、タデイ氏は、マルモッタン美術館の「モネ」展はグラン・パレよりも先に企画していたものだと反駁し、次のように付け加えました。私は田舎の美術館、それもモネの作品で溢れた美術館にいることができて幸せだ。

しかし、RMNやオルセー美術館相手にやりあったことで、マルモッタン美術館の立場が悪くなることは、タデイ氏も認めざるを得ません。モネの作品をお目当てに年間30万の入場者数がある私立のマルモッタン美術館は、その入場料と館内での書籍販売で運営されている。国の補助金は受け取っておらず、クーラー施設を取り付けるにも、メセナを募らざるを得ない状況だ。正規の館員は8名だけで、館長と言っても名誉職で、手当てはわずか月800ユーロ(約9万円)。予算の不足分は、作品の貸し出しで補っている。来年夏にはスイスの美術館でモネの多くの作品が展示されることになっているが、その貸出料は100万ユーロ(約1億3,000万円)と言われている。

しかも、マルモッタン美術館のシンボル、『印象、日の出』にしてもこの春、マドリッドの美術館に貸し出されていた! それゆえ、コジュヴァル氏の怒りは収まりそうにありません。一方、マルモッタン美術館はオルセー美術館から2008年に6点の作品を借り受けていた。これでは、今後マルモッタン美術館は、オルセーをはじめ国立の美術館から貸し出しを受けることができなくなってしまうのではないでしょうか・・・

どうも、今回の件、コジュヴァル氏とタデイ氏の馬が合わなかったことが原因のような気がします。「オルセー」を笠に着たコジュヴァル氏の威圧的な態度。一方、良く言えば反骨精神、悪く言えば意固地なタデイ氏。見事な衝突ですが、同時に、見事にフランス人気質を表しているように思えてなりません。

今回の表沙汰になったいざこざの結果、二つの「モネ」展は大盛況。特にマルモッタン美術館はモネの有名作品を多く展示しているだけに、大成功。もし、両氏の争いが、話題づくりのために事前に仕組まれたものだったとしたら・・・それこそ商業主義に毒されている! フランスよ、お前もか! しかし、文化大国・フランスのこと、たぶん、そこまでの醜さはないのでしょうね。ショー・ビジネスの世界や、何事も商売、商売の国では分かりませんが。いずれにせよ、来年初めまで、パリがモネ愛好者たちを惹きつけています。

フランス語話者は、増えているのか、減っているのか。

2010-10-17 18:01:45 | 文化
フランコフォニー国際組織(OIF:l’Organisation internationale de la francophonie)という団体があります。「フランス語が何らかの形で用いられている国・地域の総称」(ウィキペディア)である「フランコフォニー」の国際的組織で、56カ国・地域のメンバーと14カ国・地域のオブザーバーで構成されています。設立は、1970年。

このOIFは、2年に1度、参加国のサミット(フランス語圏首脳会議)を行っています。今回は、10月22日から24日まで、スイスのモントルー(Montreux)で開催されます。その会議を前に、OIFは現在、世界にどのくらいのフラン語使用者がいるのかを調査し、公表しました。13日の『ル・モンド』(電子版)が伝えています。

2007年には2億人だったフランス語話者が、2010年には2億2,000万人に増えた! わずか3年で10%も増加したことになります。ビジネス上の共通語がますます英語になっている時代にあって、これはすごい! ・・・しかし、調査方法に変更があったようで、数字を鵜呑みにはできないようです、残念ですが。

2007年までは、さまざまな機関が公表しているデータを基に概算を発表していたそうですが、今回は、国・地域ごとの詳細なデータを調べ、なおかつ不足部分は独自に調査して、より詳細なデータとして発表しました。ということは、増加率はともかく、総数は今回の数字のほうが信頼できそうですね。

しかも、今回はOIFに加盟していない国・地域も調査対象に加えたそうです。独立戦争の影響を引きずって未だに加盟していないアルジェリア(1,120万人)、一部にフランス語話者のいるアメリカ(210万人)、イスラエル(30万人)、そしてイタリアのヴァレ・ダオスタ地方(Valle d’Aosta:サヴォワ地方から国境を越えてすぐ東:9万人)といった小さな数字まで集めたそうで、こうすれば3年前より増えるのは当然ですね。

ただし、今回の調査では、特にアフリカで単にフランス語を話せるだけで、読み書きのできない人は除外したそうです。従って、フランス語話者の総数として、2億2,000万人という数字は過小評価になる、とOIF側は言っているそうです。

ここで、『ル・モンド』は疑問を呈しています。フランス語は、話す人の数では9位、学んでいる人の数では2位(OIFによれば1億1,600万人)の言語。しかし、国際的に英語がすごい勢いで普及しているにもかかわらず、フランス語使用者は今後増えるのだろうか?

OIFの担当者は、次のように述べています。150年前にフランス語は唯一の世界共通語としての地位を失っている。しかし、フランスはそのことを認めるのが遅すぎた。今日、フランス語はもはやエリートのための言語ではなく、生活に必要な言葉として話されている。

フランス語話者を増やすには、生活上の必要性からフランス語を話す庶民を大切にすべきだ、ということなのでしょうね。実際、アフリカでは人口が増えるに従い、旧植民地を中心にフランス語話者が増えている。一方、北アメリカでは伸び悩み、ヨーロッパでは減少している。例えば、イギリスでは、高校の卒業試験の必須科目からフランス語は除外されてしまったそうです。

国際機関でのフランス語の地位はどうなっているのでしょうか。答えは、明らかな衰退。EUで使用される書類のうち、オリジナルがフランス語で書かれたものは全体の15%に過ぎない。ジュネーブにある国連の欧州本部では、書類の90%が英語で書かれている・・・

現在フランス語話者のほぼ半数がアフリカに暮らしていますが、アフリカの人口が今のペースで増え続ければ、2050年には、その割合は85%ほどに達するだろうと予想されています。しかし、これも、学校教育でフランス語がきちんと教えられること、フランス語が公用語として維持されること、という条件が付くそうです。例えば、ルワンダ語・フランス語・英語を公用語にしているルワンダは、英語優先に舵を切ってしまったとか・・・

こうした現状に基づき、22日からのフランス語圏首脳会議に、OIF事務局はフランス語教師の育成とアフリカ諸国での文盲対策を特に強く提案するそうです。フランス語の未来は、アフリカにかかっている!

では日本では・・・大学でのフランス語学習者が減少しているといろいろなところで聞きます。また書店に並んでいるNHKの語学学習テキストでも、フランス語の山は低くなっています。時代は、英語・中国語・韓国語なのでしょうね。しかし、時代に流されず、自分の好きなことをやるのも個人の自由。他人に迷惑をかけなければ、人生、好きに生きたいものです。時代に迎合しないへそ曲がりが多くいた方が、社会も健全なのではないでしょうか。少なくとも面白いのではないか、と思うのですが、日本の現実という厚い壁を前にすると、悲観的にならざるをえません、残念ながら。