緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

うつり行く季節

2010年07月28日 17時32分12秒 | 季節
7月28日(水)  

 夜半に地面をたたく雨音がかなり激しく聞こえてきます。夢うつつながら窓は半開きだ閉めなきゃあと思いつつ眠りの中で目が覚めずじまいです。朝起きますと庭に青く小ぶりの柿の実が一つ落ちています。春先に新芽をつけた柿の花がかなりな数落ちておりました。今年は実のものは不作か、梅の収穫も例年の一割しか無かったと。それでも落ちた柿の実に目を向けますと秋の風景がよぎります。感じます事は夜半の大雨に柿の実一つ落下、そこにはひとときも止まる事のない自然の静かな移ろいがあります。


朝の高千穂峰(撮影:2010.1.23)

季節の移り変わりが小さな昆虫の世界にも現れるのか、朝の散歩で見た光景は蝉の横たわった姿です。一匹はまだ力があるのか、人の気配を感じて動いて逃げようとします。もう一匹はそのまま横たわったままです。鳴き声の大きさに比べて地上で生きる日の短さ、思いを込めて鳴け蝉の命か、夏の風物詩と言えばそれまですが、気づかない内に夏も通り過ぎる感があり、細い散歩道が続く運動公園の大木周辺には、注意して観察しますと季節と昆虫や野鳥の世界が生涯を終える様があります。

そんな朝の光景を通り過ぎて、広くもない街で車を走らせて仕事を追いかけますと、ときおり目にします光景は体に障害を抱えた人様の姿です。午後から通りすがりに目にした光景は年の頃なら同じ頃か、足を引きずるようにして歩道を歩かれておられます。リハビリを兼ねて単独歩行訓練か、それとも日々の生活の姿か、障害は有っても生活は続きます。日によってはそれなりの方をさまざまな所で目にします。

思います事は、生涯を仕事一筋に働いてこられて、人生終盤でわが身に障害を抱え込むとは、運不運も有りましょうが、めげずにがんばって下さい。ところで日頃の疑問が行き詰まった時に、ひらめきとは瞬間に頭の中を通り過ぎる稲妻みたいなもので、稲妻が走るにどれほどの人様と出会えば良いのか、ふと気づきますと幾多の人々の姿、数を数え切れません。

人様の表情から教えて頂きます事は「人の世に五〇年や六〇年はあっと言う間の出来事、なんぞ変わるものを見い出したであろうか。」 そんな思いが通り過ぎます。思いが通り過ぎますと、何かしら一つの区切りを頂いた気分になります。気楽な言葉で申しますと、この世に変わるものが有るのかな。話しは飛びますが、数日前に考えました無神教の宗教を思い浮かべます。神の有る宗教と神を認めない宗教、ダライラマ法王の法話の中に有った項目です。

今日は夕方も雨模様で国道を走る車の音が賑やかです。風もあり柿の葉が揺れています。この頃になりますと、街路樹の桜並木も落葉の季節か、青い葉が黄色くなって緑道公園の散歩道を落葉で彩ります。石畳と通行人が無ければいつの間にか山道になりそうな植物の世界があります。半年以上も前から次の開花へ向けて桜の世界を見ます。

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