緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

横浜ベイブリッジで想うこと

2011年08月18日 18時36分43秒 | 旅行
8月18日(木)  

http://www.shutoko.jp/service/spot/baybridge/index.html
首都高速道路による横浜ベイブリッジの概要説明


 最初は至って単純な発想から始まるのですが、「鹿児島市と桜島を結ぶ架橋計画は無いのですか?」と、不動産業者関係会合で鹿児島県関係者とお話しする機会があり、会釈半分まじえた切り出しで質問してみました。当然の事ながら明快な返事は有りませんでしたが、それでも架橋する条件である錦江湾の海底状況を説明して貰いました。


にっぽん丸、まもなく横浜ベイブリッジの直下を通過

内容からしますと、鹿児島港桟橋界隈から桜島を結ぶ吊り橋架橋は海底状況からして、さほど難工事では無いとの印象を受けました。海に架かる吊り橋はどこか絵になる部分があります。或いは風景をきりりと引き締めてくれます。海峡をまたぐ吊り橋は観光客や初めての訪問者に何かしら強いインパクトを与えるものがあります。


にっぽん丸も大型客船、横浜ベイブリッジもふさわしい橋の高さ

今回のにっぽん丸乗船で横浜ベイブリッジの直下を通過するのは初めての体験です。かって同じ港内を外航貨物船で入出港を繰り返した経験を持ちます。当時の着岸岸壁は山下埠頭が主で、横浜港は外地より外航貨物船が帰航する場合のファーストポートもしくは外地へ出港する際のラストポートで、一九七〇年前後の在来型貨物船の話です。


下から眺めますと足裏がこそばゆい感じがします

今では甲板にデリックを搭載した大型貨物船も見る機会が無くなりました。大半の貨物船がコンテナ専用船や自動車専用船等の専用船に移行した背景には、大量輸送に対応して港湾設備の改善が上げられます。最初のコンテナ専用船(総トン数九二七〇トン・主機関三基二三,六〇〇馬力)に乗船勤務したのが東豪州航路で一九七〇年四月です。


にっぽん丸のマストも楽々と通過

外航船の専用船化は根底に世界の物流が大量輸送の時代へと変化して行った背景が有ります。専用船化の前はどうであったか?当時の風景がぼんやりと浮かんできます。海域は大阪湾か、引き船にロープで引かれて貨物を運ぶ艀の縦列です。東京湾も大阪湾も瀬戸内海も国内輸送に艀全盛時代がありました。学生時代に眺めた光景です。


これで横浜港に入港した気分になります

人間は目にしたものは、特に若い時代で有れば有るほど、記憶として頭脳に整理整頓されて残ります。その後、同じ場所に戻り周囲の光景を眺めますと時系列で場面々々が蘇ります。当時の関心事の最たるものは船舶機関士として主機関を始め諸機器類の管理業務でした。架橋に関係する土木工学へ関心を寄せるゆとりも有りませんでしたが、目には当時の光景が残りました。


印象に残るものには美的な感覚を刺激する何かがあります

こうして横浜ベイブリッジの直下を客船で通過しますと、この体験をまだ若い世代へ体験して貰いたいと思います。小学生や中学生でも充分です。目で間近に眺めた光景とは生涯残るものであり、やがて迎える新時代の扉を開くヒントが必ず有るものです。しかし、気づいてみますと日本国内それなりの場所には吊り橋が有ります。この土木技術は活躍の場を求めて世界へと広がると見ます。すでに広がってますか!


架橋されて二二年が経過、これから百年は保ってほしいもの

横浜ベイブリッジの前が瀬戸内海三大架橋、明石海峡大橋・瀬戸大橋・来島海峡大橋と、それに先輩格の関門橋もありました。結果として海峡を結ぶ吊り橋とは地域振興を大きく前進させるものと認識します。多少の時間のずれは有ってもです。と言いますのも、不遜な事ながらも桜島大橋の架橋は大隅半島の過疎地域には不要かと考えましたが、日本が一極集中のもろさを感じ始めた新世紀始めに、地方の時代が遅かれ早かれやって来る事を思いますと、地方の大型吊り橋は大事業でも無いと感じます。地方の時代と言う表現も不適切な気がしますが、いずれ別な表現を探しましょう。

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