緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

五千年前の石剣を見学して

2012年09月08日 16時14分04秒 | 歴史
9月8日(土)   


Map:上野原縄文の森

 大崎町の東九州自動車道工事予定地から発掘された石剣、いよいよ三ヶ月が経過して準備も完了。本日から霧島市上野原縄文の森展示館で一般公開が始まりました。とりあえずは現物を眺める事が肝心とばかり、マイカーを飛ばして国道十号線をまっすぐ西へ走行します。距離で拙宅より約三四キロ西に位置します。前回、訪問した折より上野原縄文の森は一段と緑にくるまれた感がします。


上野原縄文の森展示館

 入館して石剣へ直行、、常設展示室前のガラスケースに単品で展示してある石剣、第一の印象は五千年という時の流れが無かったような、形の良さ、現代でも充分に通じる石剣のスタイル、道具の持つ程よい形あるいは手触り、この現物から受ける感触は年月を越えるものが有ると認識しました。撮影禁止の札が近くにあり、なるほど五千年間も土中に埋もれていた石剣、石とは言え、空気に触れれば脆くなる部分が出ると、よく観察しますとうなずける石剣の表面です。


石剣の四面(鹿児島県文化財課提供)

 五千年前の造形物を間近に眺める機会など、日常生活でそう滅多に有るものでは無く、左右それに下からと眺め入ります。石剣のサイズは長さが三五センチ、幅が二.九センチ、暑さが一.五センチ、重さが三百グラムで短剣のサイズと言えば間違いなし、目をこらしますと石剣の握り部分も上下どちらか判明します。旧海軍の士官用短剣を思い出すサイズです。道具に対する人類が求めるサイズとは、国により若干の異なりは有るかもしれませんが、同じ国・地域では時代を隔てても、似たような感覚を持っているのかもしれません。現物を眺めますと、それが一つの認識として心に定着します。


上野原台地から眺める錦江湾と桜島

 さて、縄文人の道具を眺めて、考えます事は、五千年前と言えば水耕稲作起源は中国大陸長江周辺に存在したと定説があります。全く、資料も何も無い数千年前の古い時代の事を考えても始まりませんが、いずれ、南九州の縄文人も水耕稲作に出逢う事になります。出逢いの兆しはどこかにあるのか、縄文人がたどり着く先をいろいろ考えます。この上野原縄文の森展示館には、縄文時代の遺跡や遺物が数多く展示してあり、水耕稲作の兆しはまだ見えていません。現代から眺める、縄文人がやがて南方渡来か半島渡来の水耕稲作民との出逢い、縄文の道具はその後にどの様な波をあびたのか、宮崎鹿児島両県各地の遺跡見物しても纏めるには時間を要する話です。

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