ズッキーニの味噌煮込みBlog版

コンピュータのこと、食べ物のこと、なんでもないこと、とんでもないこと。

バンドマンだったあのころ

2009年10月26日 04時41分08秒 | Weblog
中学生のころ、我が家にはオルガンがあった。

ピアノではないところがいまいちだが、子煩悩で教育熱心だったサラリーマンの父親が、妹のために無理して購入したものだと思う。残念なことに妹はその方面にはまったく興味も才能もなく、音楽好きだったアタシが作曲のまねごとをするのに時折使われていた。ここがアタシと音楽との関わり合いの始まりだ。

高校ではエレキバンド(もぅ、死語なんてもんじゃない)が大流行で、ビートルズやらモンキーズやらのコピーをずいぶんやった。そういうものが公式には認められていない時代だったので、表向きは「軽音楽同好会」という名称でこっそりとやっていた。部活動として認められていなかったわけだが、部室代わりの美術部の倉庫で毎日、アンプのボリュームをめいっぱい下げて練習していた。

ちなみにアタシが参加できたのは音楽の才能を認められたからではない。電子科だったので、アンプが壊れたときの修理要員として期待されていたわけだ。しかし中学生のころにオルガンに触れていたしアコースティックながらギターもやっていたので、どちらも我流ながらメンバーの少ない同好会ではそれなりに出番もあった。

    *

地元の電力会社に就職し、何度目かの転勤で岩見沢に赴任したときに労働組合の青年婦人部がバンドをやっていて、またオルガンやらギターやらで重宝された。

もっともバンドとしての出来は論外で、組合主催のダンスパーティの際にはレコードの時には踊っている人がいるのに我々が出ていくと飲み食いが盛んになるといった具合だった。見かねた組合の人が「バンドも一生懸命やっているので、ぜひ踊ってやってください」とアナウンスするほどだった。

しかしそれを、誰かに誘われて来ていたのか、地元でキャバレーなどを仕事場にしていたバンドマスターが見ていた。後日彼がメンバーに誘いに来たときは、当時こちらは二十代で彼はたぶん五十代。しかもプロのバンドに入ってベースをやってくれないかという話なので大いに驚いた。

ベースはやったことがないがギターなら多少覚えがある。むこうも「酔っぱらい相手だから、とにかく元気にブン、ブン、ブンとやってくれればそれでいい」と言うし、結婚したばかりの嫁さんがおもしろがって勧めるものだから、会社にはナイショで付き合うことにした。

    *

連れて行かれたのが、たしか奈井江町の「炎」というキャバレーだ。音合わせもあらばこそ、いきなりラテンナンバー。そのあとすぐに「函館の女」に突入する。楽譜はある程度読めたし知らない曲はなかったので、なんとかついていけた。

ひと晩に三ステージあって、終わると店の奥で経営者がその日の売り上げが入った金庫の中から直接現金でバンマスにギャラを渡す。全部千円札だった。それを今度はその場でバンマスが我々メンバーに支払ってくれる。二十代のころだからいまからざっと30年前。そのころにたしかひと晩で七千円か八千円もらっていた記憶がある。週に一度だけだったと思うが、ずいぶんいい小遣いになったものだ。

メンバーの中では唯一の二十代だし、素人だから楽譜をにらみながらまじめにやっていたのが気に入られたのか、店のお姉さんたちにはずいぶん、その、いい扱いを受けた。一度だけステージの合間にひとりのお姉さんが来て、いや、まぁその。

それからバンマスの車で岩見沢まで戻る。途中の国道沿いに屋台のラーメン屋があって、そこで夜食をごちそうになる。バンマスがラッパでアタシがベース、もうひとりのメンバーがタイコをやっていた。ラッパとタイコの雑談はその筋のものじゃないとよくわからないこともあったが、まったく知らない世界をのぞき込むような経験は、けっこう楽しかった。

    *

たしか三ヶ月くらいやったと思うが、キャバレーとは契約満了ということでいったん解放された。それが夏頃のことで、秋口にバンマスがまた現れて今度は洞爺湖温泉に行こうと言う。週末だけでいいから一緒に来てくれ、もちろん車で送り迎えするし、ギャラははずむと熱心に誘われた。

結局お断りしたのだが、あそこでついて行ったら、たぶん次は会社を辞めることになっていたと思う。あのとき垣間見たプロの世界は怪しげで十分に魅力的であった。もちろん、自分の実力と性格を考えると、あのままついて行ったらいまごろどういう生活になっていたかは明らかだ。ついて行かなかったことを後悔してはいない。

ただ、決して過去を振り返らないアタシが唯一時々懐かしく思い出すのは、あのときのことだ。あのときもしついて行っていたら、と。