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響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

アメリカのピアノ、フェンダー・ローズを考える。

2008-08-15 | ピアノ
というわけで、やっと、アメリカのピアノ、フェンダー・ローズを考えるのである。

どうしてかというと、YouTubeでトイピアノのクリップを見ているうちに、キーボードマガジン社が提供するNAMM 2008のクリップが、いつのまにか関連候補に多数ヒットするようになってきて、そんな中のひとつに、スティービー・ワンダーの演奏を収めたものがリストされていた、というあたりから話は始まる。

スティービーは一見トイピアノ?と見紛う小さな鍵盤を弾いているのだが、再生してみれば、これは明らかにRhodesなのであった。
NAMM 2008 Stevie Wonder at the Rhodes booth 4

そこで、待てよ、とクラシックイタチは思ったわけだ。トイピアノはそもそも、イメージ的に「ローズ・ピアノ」に連なっていたのではないか? 「tinkly」と言うらしいトイピアノの音源の音色、それがハコ鳴りで若干こもるというか、木っぽい鳴りをすることで温かい音になる。芯のある発音機構と豊かな出力のコンビネーションといったものが、ローズとトイピアノとに共通しているのではないか?

とか言うより前に、ではフェンダー・ローズの音源はどうなっているのか?

なんでもかんでも出典wikiにて恐縮ながら、音源はずばり、鉄琴である。元は軍用で、飛行機の部品で組み立てることができ、任地で組み立てて弾こうというためのものだったらしい。したがって本来的には全部金属製。それがのちにアンプリファイの機能がついて、あの独得の音色を生みだし、さまざまな音楽表現を広げていったというわけなのだ。

ちなみにそんなローズを買収したのがベースで有名なフェンダー社で、アドビ・マクロメディア・ドリームウィーバーじゃないけれど、そういう次第でフェンダー・ローズとなったのだそうだ。

しかしなんと豊かな、トイピアノめいた──つまりピアノそのものではない、むしろ"代用品"の──歴史だろう。ヨーロッパ大陸という伝統から遠く離れて、新大陸は、ハードウェア的にも新たな歴史を必要としたのかもしれない。

[トイピアノ最新事情 大特集]
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「アメリカのピアノ、フェンダー・ローズを考える」前に、まずクラシック音楽を整理する。

2008-08-14 | ピアノ
「クラシック」などというとほとんど太古の昔からめんめんと反物を転がすように、長く続く伝統のようにイメージしてしまうが、実際にはさほど昔ではないばかりか、歴史上の比較的短いある期間に主流だったものであったりする。

このあたりの事情を史上最も(!)コンパクトに言い得ていらっしゃるのが、N響の茂木大輔さんの『こうしろ!未来のクラシック』でして、曰く──

オーケストラにしても、ピアノ・リサイタルやヴァイオリン、室内楽にしても、いわゆるクラシック音楽のレパートリーはいずれも十八から二〇世紀の音楽であり、数もほぼ固定している。

18世紀というのは、1701年から1800年までのことであり、J.S.バッハが1685年生まれの1750年没だから、つまりバロック音楽が本格的に始まった頃を、クラシック音楽の始まりだと茂木氏は指定しているということになる。そして、より重要なのは──

クラシックにとって(中略)あの二〇世紀はこうした、エネルギッシュな最大流行の時代だったのである。

すなわち、史上最も広い観客層と演奏層でもってたくさん「クラシック音楽」を楽しんだ時代は、よくよく考えてみれば、実は20世紀なのである。ついでに、それにはもちろん「放送」というマスメディアと関係があり、だからこそ○○放響という名のオケが世界中にあるわけだし、ご多聞に漏れずなN響であるわけなのだ。

一方、ヨーロッパ発のクラシック音楽というジャンルの中で、1620年にメイフラワー号に乗った102人が上陸し、1776年に独立するアメリカが、どのようなパートを担当したのかについては、必ずしも広く知られているとは言い難い。今と比べるとぜんぜんグローバルじゃない世界で、ピアノは、バイオリンは新大陸で、一体どーゆーことになっていったのだろうか?? wikiによればカーネギーホールができたのは1891年ということだが、それまでの約100年、アメリカのおける音楽、特にクラシック音楽はどうなっていたのだろう??

うーん、さっぱりわからん。

とある日、地元のプールサイドで(コドモのお伴)万華鏡を片手にしたクラシックイタチは、このさっぱり知らないけれどもやけに広大な未知のエリアを、発見したのである。

なぜか。きっかけは、トイピアノにあった。

こうしろ!未来のクラシック―茂木大輔の予言・提言・夢と現実
茂木 大輔
ヤマハミュージックメディア
1,700
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「トイピアノ」と「ホンキートンクピアノ」は似ているか?

2008-08-09 | ピアノ
「だけどなんでトイピアノなの?」
とまたしても夫の「音楽的」質問が飛んできた。
「バイオリンの伴奏なら、アコーディオンのほうが音量も音域も合うと思うな」

うーんこのような質問で、彼を納得させる答えを見出すのは、クラシックイタチには至難の業に違いない。

そこで、よーく考えてみた。クラシックイタチの言い分は、こうだ。

アコーディオンは「気」の楽器、笛の精こと金子鉄心さん流に言えば「ふいご」の楽器である。あれがなり出した途端に、そもそも、私たちはある音楽ジャンルを想起する。タンゴとか、ラテンとか、ジプシーとか、アイリッシュとか。私がやりたいのは、こういうことではないのである。それに……この手の音楽は、ことほど左様な金子さんのように、天性に演奏家でないと務まらないではありませんか。そういうのとは遠く離れて、ちょっとでも難しいことをしようとすると、音が濁って美しくないような、そういうのが似合うのがトイピアノなんである。

では、ホンキートンクピアノとどう違うのか。といえば、クラシックイタチが思うには、ジャズとかニューオリンズとかがかすかにでも香らないのが、トイピアノなんである。むしろウィーンとか、シベリアとかがかすかに脳裏をかすめるのだ。日本の例ならば、湯山 昭『お菓子の世界 改訂版 (楽譜)』なんかがいいですねえ、なのである。

いや、でもさ、純粋にクラシックってわけじゃないんだよね?

まだ問われてはいないけれども、この質問にも答えられなければならぬ。確かに、純然とクラシックならば、ピアノがよいに決まっている。よいグランド。これに限る。だからまったくクラシックということではないに違いない。「開かれたクラシック」よりもさらに、何か別の要素──たとえばコドモの世界とか、サティ的「家具」とか、BGM的なアンビエントな何かとか──を積極的に加えたものでなければならない。

だから、それは、どういうものよ?

ということを考えていて、はた、とクラシックイタチは気づいたのである。

そうかYoutubeに聞こう!

お菓子の世界 改訂版
湯山 昭
全音楽譜出版社

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「卓上ピアノ」と「ミニピアノ」は違うらしい。

2008-08-08 | ピアノ
というわけで、80年代に全国的に──というか最終的には名古屋で──生産終了したトイピアノは「卓上ピアノ」、現在カワイ楽器などが製造しているトイピアノは「ミニピアノ」といちおうくっきりとした違いがあることがわかってきた。

またヤマハの古い卓上ピアノ、そして現在のカワイのミニピアノは、いずれもしっかりした鍵盤のかたちをしているのも大きな特長だ。というのは、一般にそれこそ昭和の風物詩として卓上ピアノを思いだすと、その鍵盤は──だいたい黒鍵がなかったりする──そのすべてが決して本物のピアノの鍵盤を模しているわけではない。

ところで私のこの矛盾はどこから来たかわからないのだが、なぜ私が「卓上ピアノ」あるいは「ミニピアノ」にそれほどこだわったのかというと、屋外でアンプラグドで弾けて、吹奏感ではなく、打鍵で音が出る仕組みのものが弾きたかったからにほかならない。(矛盾というのは、それならばなぜ私は最初、卓上ピアノのしくみが「リード」だと勘違いしたのか、だ)

ま、それは置いておいて、私は「Antiques道具屋」さんでの発見を通じて、これまでヤフオクで「卓上ピアノ」ばかりをチェックしていて、「ミニピアノ」を見逃していたことに気づいたのだった……。


左写真は人気のカワイ・グランドピアノ(木目) 1102-7
カワイのミニピアノ一覧へ


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これは年代モノ! 日本楽器製「卓上ピアノ」を発見

2008-08-07 | ピアノ
昨日の続きで……。
そうだよ、そりゃおかしいよ、って気づかせてくれたのが、実は栃木県の古道具屋さん「Antiques道具屋」さんのこの画像。


これではまったく、鉄琴ではありませんか。

それもそのはず。ここでひもとくのはヤマハこと旧日本楽器製造の社史である。

「大正4年に木琴、卓上ピアノ、卓上オルガンなど玩具用楽器の製造を開始」

これを読んだ時、なぜヤマハは現在取り組んでいないこの「卓上」シリーズと、「木琴」とが一緒になっているのか、とうっすら疑問に思ったのに、そのままにしたのが、そもそもの間違いだった。

時期的には、本物のピアノのアクション(鍵盤から力が伝わって、打弦して音を出すまでの木製なんだけれどもとてもメカニックな機構ですね)の国産に成功した日本楽器製造が、ほどなくとりかかった商品群と言うことができ、そこで木琴を作ったり、これにごくカンタンなアクションがついた卓上ピアノなんかが出てきたのかもしれない、とこれは憶測。(けど、卓上オルガンっていうのは、またどういうものなんだろう。こちらは依然不明)

ついでにこの卓上ピアノというのは、れっきとして商品名なんですね。これも知らなかった。もうまったく知らないことだらけの卓上ピアノワールドであります。



しかしですね、「Antiques道具屋」さんもすごい。これだけの年代ものはヤフオクでも見たことがありません。しかもかなり美品。でない音は「ソ」ひとつだけだそうです。もしあなたが鉄の鋳造ができるんなら、これは買いかも。しかし私は鉄琴の板を作ることはできないので、購入は断念しましたけど。しかし、どちらかというとこれ、博物館ものなのではないでしょうか。また音源部のふたにある二穴と、そこに張られた茶色っぽい布フィルター──このデザイン、昔、学校においてあったヤマハオルガンの背中を彷彿とさせます。



Antiques道具屋さんは、ネットでも購入可能
Antiques道具屋さんのウェブサイト
※また、画像はすべてAntiques道具屋さんのものです。ご厚意により掲載いたしました。

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トイピアノ最新事情 大特集!

2008-08-06 | ピアノ
響けブログの投稿が400回の時にトイピアノのことを書いたのですが、その後、最近になって立て続けに2台、これぞ、と思われるトイピアノに出逢ったので、その話を何回かに分けて書こうと思う。

ところでその前に、以前この「響けブログ」に書いたことで、勘違いしていたことがあったので、その訂正をしたい。

何かというと、以前「卓上ピアノ」に関する記述で、現存品で相当するものをカワイが売っているけれども、それはアコースティックではない、と私は思っていたことである。しかしカワイのトイピアノはどうやら多少の変遷を経て、現在は「ミニピアノ」と呼んでいるシリーズがあって、この音源、実は金属のパイプだったのだ。ホームページにもちゃんと書いてあった!

その中味は、ミニピアノのラインナップにクリスタルタイプの、つまり筐体がスケルトンになっているものがあるので、それを見るとわかりやすい。細長いパイプがグランドピアノ型をした本体内に収納されているようだ。

しかし最近人気なのは、特に木目調というやつのようで、ちょっと北欧の積み木っぽい雰囲気のトイピアノ(じゃなくてミニピアノか)に仕上がっている。だから確かにこれはトイピアノって雰囲気じゃなくて、オママゴトの調理器具などと同じで、ウッディなミニピアノというわけなのだ。なるほどね。

どうしてそういう間違いが起こったのかというと、実は私はなんとなく卓上ピアノの発音の機構を、ピアニカやアコーディオンのようなものとイメージしていたのである。「卓上ピアノ」というのはイメージ的にオルガンに近くて、すると音量調節の1本ペダルが思いだされ、だから空気で音を出していてもおかしくないという連想だったと思う。内部にはリードのようなものがついていて、打鍵によって空気をおくれば音が出る……。

しかし出るわけないんでした。だいたい、キンって音じゃないですか、トイピアノって。

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これがカワイのクリスタルミニピアノ。
「ド」が赤、ドのシャープがオレンジというように塗り分けられた金属のパイプが音源だ。グランド型のトイピアノはこのように鉄の金属片を並べておいて、鍵盤を押し下げると、下から(おそらくハンマーのようなものが)金属片を叩くようになっている。

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電子ピアノはピアノと違って。

2008-07-31 | ピアノ
とある朝、ヤマハP200は、とあるひとつの音が出なくなった。ある音というのはひとつ低い「ラ」である。カンのいい方は、気づいていらっしゃるように、これはかなりやらしい音、つまりよく使いそうな鍵である。

しかも、発表会曲のボッケリーニのメヌエットはバイオリン初級王道のシャープ3つ、ということはイ長調、すなわち「ラ」(A)が主音なのである。

しょうがないのでオクターブ振替たり、適当に弾いたりしていたが、キーを押したのに音が出ないと、どうも指を痛めるようである。だんだん指も痛くなってきたので、トランスポーズ機能を使って鍵盤の高さをずらしてみたが、今度はどうも音色が違ってしまって、細かいこととはいえ、高いような低いようなへんな音になる。

というわけでさっそく修理に来てもらうことになった。


本体をがばっと開けると、電源部と、キーボード回りのふたつの部分がある。キーボードの回りにが基盤が並んでいて、この回路に水が入ったらしいのが故障の原因だそうだ。プリントの回路とはいえスペースにはかなり余裕があるので、錆びているところがこことわかる大きさである。

中にあったたくさんのゴミも取り除いて、すっかりきれいになったP200。きれいになって弾いてみると、なんとなくだいぶキーのタッチが軽くなったように思われ、弱音もだいぶ弾きやすく、段階的ながくんと音量が下がるようなこともなくなったように感じられた。プログラム的にそうなるとはとうてい思えないんだけど、なにかのちょっとした具合がそのように印象させるのだと思う。人間の道具としては(あるいは脳としては)、「電子」ピアノはキャリアが短いのである。

しかし、そんなこともつかのま、クラシックイタチ、こんどは右手薬指の爪の真横を怪我してしまった。これが意外と痛くて結構パソコンのキーボードを打つのもいや、という感じ。まいったな、なのである。

「だいじょうぶ?」
と言ってくれるヒビキのバイオリンは、さっき練習したところ、もはや行き方も間違えなくなっていた。(なぬー、いつの間に!)これまでは一度だって、全部行き方が合っていたことなんかなかったヒビキだが、奴は着実に本番へと向かっているらしい。

なになに、これってもしかしてシナリオ通り?

[しんぱいな発表会]
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ないものねだりの音楽に。

2008-07-30 | ピアノ
そこ(前回)まできてから、クラシックイタチは最前からの「ミラーリング」問題について、もう一度考えてみたいと思った。

現実の音楽を聴かないで、譜面の向こうを見ようというのは、いったいどういう態度なんだろう?

クラシック音楽というのは、その本質に近づこうというときに、ある種の神聖さをまとっている。ある種の神聖さというのは、音楽そのものがバロックのように宗教音楽なので、本来が神聖なものである場合もあるし、偉大なる作曲家へ近づこうというアプローチが持っているはずだという印象でそうなっていることもある。たぶん後者が多いだろうな。

いずれにしても、これは明らかに「過去」を向いた、作曲家の意図という名の私の意図を実現しようという「自己完結した」世界だと思われる。この世界とはいったい何だろう?

もし演奏レベルの問題を問わなければ、これは独りクラシックイタチの問題ではない、きっと。むしろ演奏のレベルとしてはかなり高い人でも、この問題を抱えていると想像できる。だが待てよ、とクラシックイタチは思うのだ──それはひょっとすると心地いいセーフティーゾーンなのではないか? つまりこれは作曲家との対話というフィクションによるモノローグであって、するとこれは誰にも責めることができない。そしてその姿は、神に仕える姿、宗教的な作業に似ていなくもないではないか、と。

だとすれば、そこで追究されているものは、実はとても空虚であり、虚空であり、要するにないものねだりであるに違いない。だって、その神聖で素晴らしいものは、鏡であり、鏡に映った自分の姿であって、もちろんそれを誰かがうんといって褒めてくれればいいけれど、たぶんそれができるのも独り自分であろうから。

[しんぱいな発表会]
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ここから先は、もう努力目標です。

2008-07-29 | ピアノ
いつの間にか、ヒビキの音楽日記ではなくて、クラシックイタチの音楽日記と化している昨今、今日も閲覧ありがとうございます。

さて、なんだかんだ言っても、本番が迫っております。というわけで、ごちゃごちゃ書いてないで、やれることを考えよう。バイオリンの先生の教え3「いまできる精一杯をやろう」であります。

で、そういうときはリストアップ! である。
1 演奏中、演奏に集中する時間を増やそう
2 演奏中、他人(バイオリン)の演奏を聴こう

リストというのは、リストアップするだけで効果がある、と言われるが……ほんとうだ。おお、なぜ私は集中しないのか?──そう、集中しないのは、ヒマだからだ! 

なぜヒマなんだろうか?──そう、他人の演奏を聴いていないからだ! 聴かないでおいて「弾く」だけやってる。ということは──必死に他人の演奏を聴けばいいのでは?

そこで練習にバイオリンパート、すなわちメロを歌いながら弾くというメニューを採り入れてみた。これが実は以前から苦手なことは自分でも知っていたが、実際に歌ってみると予想をさらに上回って歌えないのである。

声の音域が狭いという問題もある。だがだいたいリズムだってちゃんとしたところで入れない。そもそもバッハのインベンションで複音楽できなかったし、バンドでコーラスだけ歌うというそれができない。

突然だが、清水ミチコは言っている。
「ピアノを弾きながら話しをするってことが、矢野(顕子)にはとっても自然なんですけど、ものまねの人はいっぱいいっぱいみたいです」──清水ミチコ、矢野顕子「相合傘」(細野晴臣作)の弾き語りの物まねより

歌いながら伴奏を弾くというのは、「それどころじゃない」という類の難しさなんである、私やそして清水ミチコさんが言うように。

ただ少しでもやってみてわかったことは、伴奏のピアノは右手も左手も伴奏だということである。──というあったりまえの事実。クラシックイタチ、なんとなく右手はメロディだと誤解してたのだ。

今回の間違いは、我ながらあまりにひどい例だが、ともかく間違いに気づけば、直すこともできる。こういうふうに頭の理解でつぶしていけるのが、大人の音楽レッスンの醍醐味と言えるかもしれない。(負け惜しみかもしれないけど)

ピヤノアキコ。~the best of solo piano songs~ (SACD-Hybrid)

エピックレコードジャパン
「相合傘」を収録
詳細へ


[しんぱいな発表会]
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フジ子・へミングというインパクト

2008-07-08 | ピアノ
フジ子ヘミングさんのCDはすごい売れ行きだそうである。私も以前NHKの番組を見てたいへん興味を持ち、ウチにも“カンパネラ”が入ったCDがある。コンサート活動も大入りで、大いに活躍されているようである。

一方で、とある有名オーケストラが来日し、フジ子さんと共演して、ちゃんとしたピアニストではないとコメントしたとかいったウワサが、時々流れるのもフジ子さんだ。

そこで、この「ちゃんとした」とか「一流の」ピアニストというのはいったいどういうことで、そうでないピアニストとどこが違うのだろう、と考えるわけなのだが……よくよく考えてみるとですよ、観客の一人一人はそれについてあまり自分自身ではジャッジしていないのではないだろうか。そういうことはチャイコフスキーコンクールやショパンコンクールの審査員に考えてもらって、太鼓判を押されたものを聴いてその中から自分が好きな物を選べばいい──というのが一般的なんじゃないだろうか?

(よくわからないけれど、実はジャズなんかでも結局そういう聴き方をしている人が多い気がする。つまりジャズなんかはある意味よりストレートに「名盤」ってやつを選べば間違いなくて、あと演奏以外に録音の技術的なところ──音がいいってやつ──をおさえておけば、ワードローブのように珠玉のCD棚ができますものね)

そういうわけでフジ子ヘミングさんの場合も、専門家としては概ねどちらかへジャッジしているのだろうと考えられる。だが注目すべきは、クラシックとしては異例の数字であるCDの売れ行きが、専門家のジャッジとは「関係なく」売れているということもまた、クラシックとしては異例であると言う点である。

題材がクラシックであれ、同時代の一般人へ道を開くのは「伝統芸能」ではなく「個人」なのだ。ピアニストであるフジ子ヘミングというその人が、人々へ何か、つまり音楽の感動を伝えたのである。

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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世襲や、英才教育や、子供の人権なしの時代

2008-07-07 | ピアノ
コドモの時からピアノなんかをそれ専一に勉強させるべきか?
この話がいっこうに終わらないので、またしても前回の続き。

前回は、職業を自由に選択する「個人」と、できれば世襲でコドモの時から稽古をして芸を後世に伝えたい「伝統芸能」とは、どうしても相反する──というところまで行った。

では、ある特殊な職業だけがそうなのではなく、社会全体がそうだったらどうだろう? 相反したってそのことによってみんなそうなんだから、一般人だってそうなのだから、そこにはズレはないことになる。

職業が世襲だった時代、コドモの権利が確立していなかった時代、一部の階級が家庭教師によって教育していた時代──そのような時代は、さして遠い昔ではない。ということは比較的最近までみんな──それがいいか悪いかは別として──どちらかというと、コドモの時から「親の仕事を継ぐ」というように職業が決まっていたり、親の一存で決められてたりしていた。歌舞伎の中の登場人物なんか、みんなそうなので、びっくりしたりするけれども、それを演じている人たちもそうなら見ている人たちもそうという、社会というか時代というか、そのような「ふつう」は、つい最近まであったとも言えるのだ。

そこで、現在についていえば、一般にはそうなっていないのだから、やはりいかに「伝統芸能」の側での要請があっても、「コドモの頃から、それ専一に取り組む」べきではないというのが原則になると、クラシックイタチは思う。

直ちに反論が予想される。それでは「伝統芸能」の技量とか深みとかが、真に継承できないと。絶対に何かが欠け落ちる(かもしれない)と。その部分はどうするのか、欠けて伝わることをどう考えるのか。

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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ウィーンフィルの団員資格と比べると……

2008-07-06 | ピアノ
以前ウィーンフィルが団員資格のしばりを軽くして話題になったが、日本人から見ると、男性でなければいけないとか、ウィーン生まれでなければいけないとか、ずいぶん古くさいことを言うんだなあとも思うけれども、ちなみに歌舞伎や能楽を外国人や女性が演じるとしたらどうだろうかと思うと、確かにイメージしにくく、観客の側としてすでに拒否しているような状況がまったくないとは言えない。その意味では議論になったウィーンフィルよりも、歌舞伎や能楽のほうがずっと当たり前に閉じてしまっているのである。

ついでに歌舞伎や能楽にまったく詳しくなんかないクラシックイタチであるのに、そうは言ってもウィーンフィルの団員の家族よりは、狂言師のコドモのほうについてのほうがまだ情報を持っているというのは、なんとなく不思議な気もする。

たとえば──歌舞伎や能楽の家に生まれた子供たちは10歳にならないうちに初舞台を踏んだりして、そもそも、狂言師の場合の猿のように、初舞台のための題目もあるようなしくみになっている──ということを私もなんとなく知ってはいる。

しかし、そういう職業であっても、前回紹介したように世襲でなくなれるのだから、誰であっても原則として必ずしも「コドモの頃から、それ専一に取り組む」必要はないことになる。

しかしなんとなくコドモのうちから専一にやったということを、崇めるという傾向が私たち観客の側にないとは言えない。たとえば、茂山狂言でも、茂山家の狂言師とそうでない狂言師ではどうも少しキャラクターづくりが違う気がしてしまうのも、観客として私の正直なところである。それに実際問題として、親戚でない人は「茂山」という名前でないのでシロウトでも見分けがつくようになっているのだ。

そこで、すくなくとも伝統芸能を遺そうという考え方からすれば、昔からの流儀で、コドモの時から稽古するのがよい、ということになる。個人と伝統芸能とは、ちょっと相反するところがあるのである。

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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ピアノやバイオリンにコドモの頃から、それ専一に取り組むというのは、どういうことなんだろう? ふたたび

2008-07-04 | ピアノ
いささか脱線が過ぎる昨今でありますが、いつもご来訪ありがとうございます。

前々回までの話というのを簡単にまとめると、ミュージシャンっていうのは誰もが(無意識的にであれ)憧れる職業であるが、だからといって才能がより大きい人から順にミュージシャンに就けるわけではない。また誰がほんとうにミュージシャンになるのかは、高校時代に至っても周囲には予測できない──ということになる。

そこでやっと戻るところは、ピアノやバイオリンにコドモの頃から、それ専一に取り組むというのは、どういうことなんだろう? というギモンである。そして、そうしなければ、たとえば将来クラシックの演奏家にはなれないのか、どうなのか。

実際問題としては、コドモの時から練習して「いない」クラシックのピアニストなんて、少なくとも、あまり聞いたことはない。しかし、に拘わらず、ここまで考えてきた結果、コドモの時からやらなければ音楽家になれないとは言えない、ということがわかるのだ。そうではなくて、コドモの時からやったほうが有利であると親が考えたに過ぎないのだ、きっと。いや、もちろん実際にも有利であるだろう。しかしその裏には、ミュージシャンにならない・なれない 可能性も低くはなく、そうなった場合に差し戻しが利かないというリスクはある。

ピアノやバイオリンにコドモの頃から、それ専一に取り組むことで、決定的に問題なのは、よく子役から活躍している女優・俳優にもあることだが、世間的な感覚と隔離してしまうことじゃないかと思う。そういう人たちがバランスを欠いているとかいったことを言いたいわけじゃなくて、単に一般人と違うというだけだ。

一方、観客というのは概ね一般人である。

そこに必然的に問題が生じることは見て取れると思う。

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「虫の知らせ」はけっこうあやしいぞ。

2008-07-02 | ピアノ
情報量という考え方があって、これによれば「虫の知らせ」はあやしいということになるようだ。

そう言うとなんだかうそっぽい、流行語で言うとエセ科学っぽいけれども、ぜんぜん普通の話なんで、まあ聞いてください(って言うと、ますますニセっぽいですが)。

どういうことかというと、虫の知らせというのはほんとうはいくらもあって、そのうち当たった場合についてだけ、人はそれ以前に予想したことを思いだすというのだ。これは意外と「そりゃそー」なんですよ。たとえば、「うわー、虫が知らせてたのに違ったかぁー」とは絶対思わないでしょ? 「いやそれ、虫が知らせてたのよ」というふうにしかその言葉を使わない。肯定の用法しかない。であるからして、否定のケースがどれだけあるかはわからない。

いやそんなことはない、虫が知らせるということはあるでしょう、と。実際、クラシックイタチとしても、その気持ちはわかります。どうもこっちのほうがクサイとかさ、予感みたいなものってありますよね、人って。それに、もう一歩踏み込むと、虫が知らせるというようなココロの働きがなければ「人生が豊かにならない」とさえ言われる方が現れると思う。人生が豊かになることについては賛成だけれども、今は確率の話を考えていて、事前に事態を予想・予感する(=虫が知らせる)と、その事態が現実に起こるということの関連を考えているので、そこに話を絞ってまいりますよ。

と言っておいていきなり脱線なんですが、私の場合、「虫が知らせる」という言葉を、大げさだけれども“思い知った”のは、コドモを保育園に入れている時なんですね。保育園児は、体がまだどうしてもやわらかくて未熟なので、ちょっとした事故がクリティカルになり得る。そうすると、普段どおり仕事してて、正直「コドモのことなんか全然考えていない」(=虫が知らせてない)のだけれど、ふと昼食の時などに何かの話のついでに「いやあ、公園のブランコっていうのは意外と危険なんですよ」(=虫の知らせ)なんて言ったりする。するとこれは魔が差したように一瞬だけ思って、あとは全部「虫が知らせていない」に拘わらず、保育園へ迎えに行って、「今日ヒビキちゃんがおでこを怪我した」なんて言われると、その一瞬のほう「だけ」を思いだす。ところがこれ、冷静に考えると虫が知らせないのと知らせたのでは6000対1ぐらい(8時間労働で、“虫”の会話が5秒として。)で、要するに全体的にみれば虫は知らせていない。

どうでしょう、そりゃーそーではありませんか? これが「虫が知らせる」の実態じゃないかと思うんです。むしろ、起こる確率の少ないことが「起きた!」という驚きを、驚きが大きいのが負担なのでどっかへ逃がしているという効果があるとも考えられる。

というわけで、やっと前回の続きへ戻るのですが……「あの子は小さい時からピアニストになると思った」っていうのはさ、その子が長じてピアニストになったから思うんだよ、きっと。たとえばコドモをたくさん見ているはずの学校の先生だって、ピアニストになれば「あの子はピアニストになると思った」といい、そうでなければ「小さい頃からピアノが好きだった」って言うんじゃないかな。……と、さすがにキリがなさそうなので……次回へ続きます。

情報量の話とかは、恐れ入りますが私の別サイト『週刊リョーシカ!』「科学と広告のブログ」をよかったらご参照ください。

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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「○○がプロになるとは思わなかったなあ」

2008-07-01 | ピアノ
夫の高校時代の友人たちというのが、これがすごいメンバーなことについては、以前も、もしかしたら書いたかもしれない。というのも、プロのミュージシャンがざっと1ダースぐらいいそうなのである。クラシックのバイオリン、笛、フルート、トロンボーン……等々。そしてさらに、プロではないけれども、アマチュアとして音楽活動をかなりしっかりとやっている人々がもっとたくさんいる。

で、飲み会なんかになると必ず誰かが
「○○がプロになるとは思わなかったなあ」
と言うのである。しかもそれがお互い「そう、そう」という、もっともな話らしいのである。

そう、そこで前回の話なんです。誰もの憧れである「ミュージシャンになりたい!」、という「不本意ならぬ」仕事に、誰が就けるのかは、かなり昔とはいえ高校時代に至っても周囲がそうとはわからない──ということをこの事例は語っているのだ。

もちろん、あの子は小さい時からそうなるしか道がないようだった、と言われることもある。つまりいろんな場合がある。だがなれるかどうかは、少なくとも大学入試の上位何十人までが合格というように、順番に回ってくるようなものではないということだ。その中で、もう誰が見ても1番というような人もいるだろう。だが23番と8900番ぐらいは平気で差し替わるということなんじゃないだろうか。ついでに言えば、こういったことはプロフェッショナル度の高いエリアであればどれでも同じ事情なんじゃないだろうか。

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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