
(昨日のつづき)
答えは、たぶん、クラシックらしさを聴きに行っていたのである。ああそうか、これがクラシックというものか、ああこれがクラシックのうたいなのだ、そうよやっぱりクラシックはすてきだったわ、と。
たしかにある種のジャズのライブにもそういうところがある。そういう輩はいる。でもどうかな、ライブが終わってそれぞれが持ち帰るものが別々だということぐらいはおたがいに気づいているものではないだろうか。
私はいったい何を期待していたんだ? というのをもうちょっと検討してみよう。というのも、そう考えると、自分はほんとうに思ってもみなかった、意外な期待を抱いていたことがわかったからである。つまり、なぜかクラシックのピアノのリサイタルに限っては、弾けているかどうか見てこよう、と私は思っていたのだ。まったく首尾一貫していることに、思い返せば、昔から自分はそう思っていた。(クラシックイタチの清塚信也入門を参照)
どうしてそうなるかはまあいいとして、弾けていたらどうなのか、その先がないというのはかなり問題である。いやむしろ、弾けていたらすばらしい、それ以上何を言うことがあろうか、ということがあるかもしれないのも、とりあえず置いていく。
つづいて私は、自分がこれがクラシックよ、とか、これがピアノよ、とか思うものがそこにあるかどうか、をどうやら期待していたらしい。「なんでそんなものを」と、私も思う。しかし事実、自分がこれがクラシックだろうと思うものがちゃんと弾けてるかどうかを聴きに行く、それが私の期待だったのだ。
──まさかそんな奴はいないか、あるいはいても少ないよ、と思われるかもしれない。でも演奏が「クラシック」であり、「上手に弾けていて」「すばらしかったわ」という人はもちろん多いであろう。それ、それ、その期待の内容は、間違いなくクラシックであるものがちゃんと弾けていた、に終始すると考えられるわけである。
なぜ、気付かなかっただろう。今まで。何十年も。クラシックイタチはおしなべ、さしずめ「クラシックらしさイタチ」に他ならなかったのだ。
[清塚信也ピアノリサイタル@ルネこだいらを聴いた]
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