情報量という考え方があって、これによれば「虫の知らせ」はあやしいということになるようだ。
そう言うとなんだかうそっぽい、流行語で言うとエセ科学っぽいけれども、ぜんぜん普通の話なんで、まあ聞いてください(って言うと、ますますニセっぽいですが)。
どういうことかというと、虫の知らせというのはほんとうはいくらもあって、そのうち当たった場合についてだけ、人はそれ以前に予想したことを思いだすというのだ。これは意外と「そりゃそー」なんですよ。たとえば、「うわー、虫が知らせてたのに違ったかぁー」とは絶対思わないでしょ? 「いやそれ、虫が知らせてたのよ」というふうにしかその言葉を使わない。肯定の用法しかない。であるからして、否定のケースがどれだけあるかはわからない。
いやそんなことはない、虫が知らせるということはあるでしょう、と。実際、クラシックイタチとしても、その気持ちはわかります。どうもこっちのほうがクサイとかさ、予感みたいなものってありますよね、人って。それに、もう一歩踏み込むと、虫が知らせるというようなココロの働きがなければ「人生が豊かにならない」とさえ言われる方が現れると思う。人生が豊かになることについては賛成だけれども、今は確率の話を考えていて、事前に事態を予想・予感する(=虫が知らせる)と、その事態が現実に起こるということの関連を考えているので、そこに話を絞ってまいりますよ。
と言っておいていきなり脱線なんですが、私の場合、「虫が知らせる」という言葉を、大げさだけれども“思い知った”のは、コドモを保育園に入れている時なんですね。保育園児は、体がまだどうしてもやわらかくて未熟なので、ちょっとした事故がクリティカルになり得る。そうすると、普段どおり仕事してて、正直「コドモのことなんか全然考えていない」(=虫が知らせてない)のだけれど、ふと昼食の時などに何かの話のついでに「いやあ、公園のブランコっていうのは意外と危険なんですよ」(=虫の知らせ)なんて言ったりする。するとこれは魔が差したように一瞬だけ思って、あとは全部「虫が知らせていない」に拘わらず、保育園へ迎えに行って、「今日ヒビキちゃんがおでこを怪我した」なんて言われると、その一瞬のほう「だけ」を思いだす。ところがこれ、冷静に考えると虫が知らせないのと知らせたのでは6000対1ぐらい(8時間労働で、“虫”の会話が5秒として。)で、要するに全体的にみれば虫は知らせていない。
どうでしょう、そりゃーそーではありませんか? これが「虫が知らせる」の実態じゃないかと思うんです。むしろ、起こる確率の少ないことが「起きた!」という驚きを、驚きが大きいのが負担なのでどっかへ逃がしているという効果があるとも考えられる。
というわけで、やっと前回の続きへ戻るのですが……「あの子は小さい時からピアニストになると思った」っていうのはさ、その子が長じてピアニストになったから思うんだよ、きっと。たとえばコドモをたくさん見ているはずの学校の先生だって、ピアニストになれば「あの子はピアニストになると思った」といい、そうでなければ「小さい頃からピアノが好きだった」って言うんじゃないかな。……と、さすがにキリがなさそうなので……次回へ続きます。
情報量の話とかは、恐れ入りますが私の別サイト『週刊リョーシカ!』や「科学と広告のブログ」をよかったらご参照ください。
[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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そう言うとなんだかうそっぽい、流行語で言うとエセ科学っぽいけれども、ぜんぜん普通の話なんで、まあ聞いてください(って言うと、ますますニセっぽいですが)。
どういうことかというと、虫の知らせというのはほんとうはいくらもあって、そのうち当たった場合についてだけ、人はそれ以前に予想したことを思いだすというのだ。これは意外と「そりゃそー」なんですよ。たとえば、「うわー、虫が知らせてたのに違ったかぁー」とは絶対思わないでしょ? 「いやそれ、虫が知らせてたのよ」というふうにしかその言葉を使わない。肯定の用法しかない。であるからして、否定のケースがどれだけあるかはわからない。
いやそんなことはない、虫が知らせるということはあるでしょう、と。実際、クラシックイタチとしても、その気持ちはわかります。どうもこっちのほうがクサイとかさ、予感みたいなものってありますよね、人って。それに、もう一歩踏み込むと、虫が知らせるというようなココロの働きがなければ「人生が豊かにならない」とさえ言われる方が現れると思う。人生が豊かになることについては賛成だけれども、今は確率の話を考えていて、事前に事態を予想・予感する(=虫が知らせる)と、その事態が現実に起こるということの関連を考えているので、そこに話を絞ってまいりますよ。
と言っておいていきなり脱線なんですが、私の場合、「虫が知らせる」という言葉を、大げさだけれども“思い知った”のは、コドモを保育園に入れている時なんですね。保育園児は、体がまだどうしてもやわらかくて未熟なので、ちょっとした事故がクリティカルになり得る。そうすると、普段どおり仕事してて、正直「コドモのことなんか全然考えていない」(=虫が知らせてない)のだけれど、ふと昼食の時などに何かの話のついでに「いやあ、公園のブランコっていうのは意外と危険なんですよ」(=虫の知らせ)なんて言ったりする。するとこれは魔が差したように一瞬だけ思って、あとは全部「虫が知らせていない」に拘わらず、保育園へ迎えに行って、「今日ヒビキちゃんがおでこを怪我した」なんて言われると、その一瞬のほう「だけ」を思いだす。ところがこれ、冷静に考えると虫が知らせないのと知らせたのでは6000対1ぐらい(8時間労働で、“虫”の会話が5秒として。)で、要するに全体的にみれば虫は知らせていない。
どうでしょう、そりゃーそーではありませんか? これが「虫が知らせる」の実態じゃないかと思うんです。むしろ、起こる確率の少ないことが「起きた!」という驚きを、驚きが大きいのが負担なのでどっかへ逃がしているという効果があるとも考えられる。
というわけで、やっと前回の続きへ戻るのですが……「あの子は小さい時からピアニストになると思った」っていうのはさ、その子が長じてピアニストになったから思うんだよ、きっと。たとえばコドモをたくさん見ているはずの学校の先生だって、ピアニストになれば「あの子はピアニストになると思った」といい、そうでなければ「小さい頃からピアノが好きだった」って言うんじゃないかな。……と、さすがにキリがなさそうなので……次回へ続きます。
情報量の話とかは、恐れ入りますが私の別サイト『週刊リョーシカ!』や「科学と広告のブログ」をよかったらご参照ください。
[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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