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響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

もっともなりたいもの。

2008-06-30 | ピアノ
前回のつづきなんですが、しかしその前に、先日「ほぼ日」の古い記事を読んでいて、「不本意を生きる」という糸井重里のことばを読んですっかり感じ入ってしまったので、その話を。というのも、最近私は「科学と広告のブログ」というブログを、さらに始めてしまい、そのこともあって「ほぼ日」をよく読んでいるのである。

しかしここでお話ししたいのは引用部そのものについてではなくて、そこはざっくりと……誰だって好きなことを勝手にやってるわけじゃなくてそりゃー「不本意なことだけど」一生懸命やってるんだよー……という意味だとすると、とクラシックイタチは考えるのである。じゃあ誰が「不本意じゃなく」やってるんだろう?

そこで改めて考えてみると、それはつまり、コドモの時に誰もがなりたーい!と手を挙げるような職業のことを言うんじゃないだろうか。

ヒビキが以前、
「ママ、大人になったら何になりたい?」
と聞いたように。

もちろんイトイ氏は、そういう職業だからといって「不本意じゃない」のではなく、やっぱり「不本意なんですよ」と言っているのであるが、ちょっとそのことは置いておく。──置いておくことで、私は次の問題に専念できるからだ。誰もが「それだけにはなってみたい」という職業とは何であり、それにはいったい「誰がなれるんだろう」?

自分になれるかどうかとか、ちゃんと稼げるかとか、そういうことをあえてまったく抜きに考えてみると、「ミュージシャンになりたい!」というのはかなり有力なんじゃないかなあ、というのが、クラシックイタチのたどりついた答えである。

クラシックイタチのやつ、実はそんなに音楽家になりたかったの? と言われても、実はよくわからないのだけれども、潜在的というか、深層心理的というか、とにかく自分のさほど意識しないレイヤーで、そういう発動があるんじゃないか。それはつまり、クラシックイタチに限ったことではなくて、たとえば一方で「サッカーの選手」や「宇宙飛行士」があるように、「ミュージシャン」もまたかなりひろく「かっこいい」と同義なのではないか。(だから、なれそうな確率とは関係なしに考えての話ですってば。)

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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清塚効果、ふたたび。

2008-06-29 | ピアノ
ピアノやバイオリンにコドモの頃から、それ専一に取り組むというのは、どういうことなんだろう。このギモンが今までなかなか解けなかった。

「ヒビキは演奏家になるのかなあ」
と夫は呑気だが、要するに私たちは両親して、ヒビキは演奏家になるかもしれないし、ならないかもしれない、と放置してきた。でまあ、これからもそうなると思う。

だが一方で、なぜコドモを演奏家にすべく取り組まないのか、という問いに対して、これまでうまく答えられないで来たのも事実だ。実際、それについてはよく、軽く聞かれるのである。
「ヒビキくん、ドラマーになるの?」

するとコドモはよくしたもので、小学校2年生ぐらいでは、親の心証をただ反映するのである。
「わかんない」

すると「そうかあ」とおとなは少し安心して引き下がる。まあ、ただ、このままではおそらくモラトリアムの無限延長戦という雰囲気でずっと行ってしまったりするのだろう。それはそれでたいへん問題だ。

「だけどさ、クラシックというくらいだから、クラシックな時代にはどうだったのかな?」
そう、歴史的方法である。いやもっと直接的には、清塚信也さんのインタビューを読んで、感じたことがきっかけとなって、そのギモンが、なんだか少し解けそうに思えてきたのである。

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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清塚信也さんのブログを読むと。

2008-06-26 | ピアノ
クラシックピアノの俊英、清塚信也さんのブログがあって、ということを、少し前にも書いたのだが、正直なところ、清塚信也さんのファンだけど、ブログはちょっとよくわからない、という人も案外多いのではないかと思う。一方、クラシックイタチこと私は──まだ生で演奏を聴いたことがないので──どちらかというと清塚さんのファンというよりも、清塚信也ブログのファンとさえ、言えるかもしれない。

私は音楽のことはわからないが──なら音楽ブログなんかやるなよ、と言われそうだけど──読むということについてなら少しはクラシックイタチならではの視点というか、こんなふうにも読めるんだよというような──わるい意味を含めて──独自の考えを言ったりすることができる、と思う。

清塚ファンの方がいらっしゃったら、参考にならないこともないかも、というような程度ですが、よかったら読んでいってください。

清塚さんのブログは──のっけからあまりにも単純で恐縮なのだけれど──「正直なブログ」である。「正直な」というのは、ここにはうそがない、と本人が思えるということである。しかも清塚さんのブログの場合、本人がそう思っている程度は、100%にかなり近い、と私は思う。

ところが、もう片方に、読者には案外こんな疑念もあるんじゃないかと思う。なぜ清塚さんが「正直な」ブログを書いているかという点で、「かっこいいと思われようとしている」という考えだ。それは誤解です。勝手に断言したりして申し訳ないけれど。

音楽家が自分がかっこいいと思うことだけをしないわけがない。……言い方がよじれてしまったが、つまり音楽家というのは自他共にかっこよくなければならない。したがって、ことはかえって単純なのです。自分をかっこよく見せるためのブログを書くってことは、かっこいいですか? 悪いでしょう? だからそういうことはしないのである。

だから、清塚信也さんはこんなことを考えているんだ~、というふうに安心してただ読むというのが、いちばんいいと思う。もしわからないところがあっても別に構わない。そういうところはあとになってわかるかもしれないし、違う考えを持つようになるかもしれないし。そんなふうに思いながら読んでいると、電車のレールのように交わらないふたつの道が、はてしなく長く、立ち現れてくる。一本は清塚信也の、他方はあなたのレールである。いや本当は二本とも清塚氏のレールなのだけれど、読んでいる束の間、一本貸してくれるのである。

プリンストン大学の音楽博士と村上春樹

2008-06-11 | ピアノ
昨日の響けブログに、清塚氏ご本人からコメントをいただきました。ご本人や関係者の目に触れる可能性もあるつもりで書いてはいるものの、実際にコメントを見るとドキッっと、うれしいです。ありがとうございました。



さて、このところ清塚信也さんの話をしてきて、やっぱりクラシックのピアニストというものは大げさすぎる格好をしているし、あまりに自信にあふれているように見えるよなあ、と感じられるようになってきた。清塚効果かもしれない。

ところで、その「清塚信也のブログ」に、村上春樹が引かれていた。どういう話の中で引かれていたのかは──あまりにもすぐに忘れるようだが──やっぱり忘れてしまった。クラシックイタチはあんまりメモリを搭載できない、猫型の額なのである。

ところで、そのHaruki Murakamiにまつわる最新の話題が、米国プリンストン大学が、かつてゲストレクチャラーを務めた作家村上春樹氏に名誉学位(Doctor of Lettes)を授与した、というニュースである。プリンストン大では今回5人を選出し、ちなみに音楽博士Doctor of Musicをクインシー・ジョーンズに授与したそうだ。

業界を背負って立つ音楽家が名誉称号を受けるという話にしても、いまノーベル文学賞に一番近い作家──これでは受賞してもしなくても一生言われるに違いない──つまり世界的作家というセレブリティである村上春樹が受賞──ましてや同大学で講義を持っていたのだから──というのも、すこぶる納得のいく、ナチュラルな話である。ところが、こんななんの変哲もない定型的な話題のなかにこそ、新しい変化を感じなくもない。

清塚効果のほうはいい変化に違いないと思えるのだが、村上春樹をめぐる変化のほうは、その選出理由などを読むと、かえってナチュラルを超えてしまっていて、ほんとうにそういうことなのかな、とノイズを混ぜたくなる。つまりHaruki Murakamiはまったく正当に評価されながら、うがった見方かもしれないけれど、その解読は遅々として進んでいないという感じも受けるのだ。

しかしそれとは関係なく、クラシックイタチは、清塚ブログの読者は、ネット上でまさに同時多発的に村上春樹に遭遇する。小さな問題を解決していけば、一歩ずつ先へ進める。Haruki Murakamiの(本当はかなり長い)メッセージは、想像以上に世界のすみずみまで闘う人を勇気づけているのではないか、と思えてくるのである。

プリンストン大の名誉学位授与のニュース
Princeton awards five honorary degrees

[清塚信也さんの話]
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清塚信也さんというピアニスト

2008-06-10 | ピアノ
清塚信也さんというピアニストをご存知だろうか? 私は先日『音遊人』を見て知ったのだが、チャイコフスキーコンクールやショパンコンクールだけを追っていてもクラシック・ピアノ界の最新動向はわからないという逆襲のような存在だ。もっともすでに大ヒットの「のだめ」で、主人公の演技指導や吹き替え演奏を行っていたご本人ということもあって、知る人ぞ知る存在であったのだそうである。

『音遊人』を見て、私は清塚信也さんを闘う人だと思った。闘う人にがんばってもらいたいと思ったら、応援するしかない。無料のコンサートへ行って拍手をするのでもいいし、CDを買うのもたいへんよい。

しかし私は、確かに彼を応援してはいるのだけれども、だけどいったいどれくらい応援したいのかというと──なにしろ『音遊人』を見ただけなので──自分でもたぶんまだよくわからない。そこでただ、番組を見ていて彼のまわりに知恵の輪のように張り巡らされている誤解の罠を、自分なりに解いてみようと思ったわけなのである。

そこで大幅に順序が逆になってしまったのだが、昨日、一昨日と、この「響けブログ」で清塚さんの話をしてみたという次第である。ところで脇道へそれますが、私が使っているパソコンの辞書では「清塚」を変換しない(さきほど登録した)のですが、みなさんの辞書ではどうですか?

さて、アーティストの孤独な闘いの「本当の話」は、清塚信也さんのブログにある。6月10日現在で一見すると、全体に重い雰囲気にたじろぐが、少し読んでみるととても落ち着いた、しかも若々しい印象に変わっていくので、読み進むことができる。そしてたとえば──例によってブログをちょっと読んだだけなのだけれども──清塚さんという人が、最も源のところで、もし陽気な方だったら、今後、今見えている以上の、なんだかものすごいような可能性がスパークしてくるのではないか、といったことも、そのブログから感じられたりするのである。

ちなみに実際に清塚氏にインタビューした夫のブログはこちら
ほぼ週刊イケヤ新聞・編集長日記ブログ

また、『WEB音遊人』にはインタビュー内容が掲載されている
音遊人スペシャル・インタビュー

[清塚信也さんの話]
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清塚信也、ショパンとの恋愛というバーチャルリアリティ。

2008-06-09 | ピアノ
もちろん、すべてのクラシックの作曲家は、概ねそのようにして曲を作ってきたと思う。つまり、論文を書くのと同じで、過去を血肉化、すなわちツール化し、自分の意のままに操れるようにしたうえで、個人というものを注ぎ込む。清塚氏の即興は、クラシックの即興曲の作法としては、まさに正攻法とさえ言えるのではないか。

だが、現代の最先端は、ちょっと違う。売れている人たちは、確かに昔ながらのやりかた、つまり過去の偉業の前にぐぐっと自分が踏ん張って、個人というものをなんとか作品の中へ実現していくか、少なくともそのように流通するやりかたを採っている。しかしその際、自分がやろうとするものに役立つものだけを知り、うまく活用していく、そこに力点があるのだ。

ところが清塚氏の場合、売り物はクラシックだ。しかも彼は、ホロヴィッツのように、クラシック音楽のなかにあるフレーズやリズムなど何らかのパーツを取りだして、粘土かなにかを取り扱うみたいに勝手に細工するようなことはしない。たぶんそれは彼がもともと、自分の都合でクラシック以外の何かのためにピアノを使ったりはしない気質だからだと私は思う。

一方、彼の現代感覚は、ネット時代にふさわしく“その場の空気を”音に紡ぐ。ただ、それはたぶん、ブログに過ぎない。なぜなら、踏ん張らないからだ。これはだめ、これでもだめ、といって五線紙を丸めては投げ、部屋じゅうの床を破れた楽譜で埋めたりしないからだ。

だがそこにこそ、もう一つの難問が発生している。オーディエンスとの間に淡くも生まれた即興のメロディは、しかし、すべてクラシックというツールで作られているというところに、やはり問題は残っているからだ。自分でもこれはひどい悪口だと思うが、彼の即興は、2008年に10代であるあなたの恋愛が時代劇の調子で語られるようなものなのだ、とさえ言えなくもない。さてオーディエンスは、それといかにコミットするのか。

自分の恋愛が、ショパンとの恋愛という新しい物語になる。

本当に? そう、清塚氏のマジックを通じて。

しかし、いずれにしても、こんなに苦悩の深いクラシックのピアニストがいただろうか。クラシックのピアニストといえば、ほぼ例外なく、大げさな衣装をまとい、不必要なほど自信にあふれて見えるのに。そのぶ厚い自信のようなものが、彼にはない。誇らしげなのは、指一本一本の中に鋼のように滴る強靱さばかりなのだ。

[清塚信也さんの話]
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清塚信也の即興曲、ネット時代のクラシック。

2008-06-08 | ピアノ
ピアノという楽器を何かに使ってやろう。レゴで作っているロケットにのせたり、お手玉やおままごとセットだって構わない。学校の宿題のノートのはしっこに使うんだっていいのだ。今、ちいさい自分にとっても身近だったり、自分の目がもっともよく見えるように思える物や遊びに、その楽器を使うこと。だって、僕といえばピアノなんだから。

クラシックのピアノは、とにかく練習をして上達をしなければ始まらないことになっている。だけどピアノが弾けるということは、自分だけのためにクラシック音楽がその豊饒な姿を現し、こっそりとその秘密を教えてくれるようでもある。なにしろピアノはクラシック音楽のために作られている楽器だし、その逆もしかり。

だが、ピアノが弾きたいという気持ちと、クラシック音楽を伝えたいという気持ちとの間には、案外落とし穴があるように、私には思われる。つまりピアノが目的のはずが、途中からクラシックという目的にすり替わったのだ。自分の音楽や遊びや何かのためにピアノを使うのではなくて、クラシックのためにピアノを使うことになったのである。

すると今度はまたしても次のような難問が現れる。ピアノを使って、クラシックという古い音楽を、現代のオーディエンスとどうコミットさせるのか。そう、そこにはもうレゴもお手玉も宿題のノートもない。あったところで、オーディエンスのなかで、それらの記憶はピアノとともにないし、要するに私たちには、クラシックを引きだすなんのマジックもないのだ。

すると私たちは一方的にピアニストに頼るしかない。私たちがともにある今という時間を、彼に託すのだ。そう、彼にはクラシックの引き出しがある。今の気分を音にして弾いてくれないかな。あなたの持っている“クラシックというツールで”。私たちが、ちょうどブログを書くように。デジカメで記念写真を撮るように。

清塚の即興曲はそのようにして、始まる。

[清塚信也さんの話]
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スニーカーを履いたシューベルトは盛り上がったんだろうか。

2008-05-15 | ピアノ


ゴールデンウィークの有楽町は、毎年音楽のイベントが盛りだくさんなのだが、大概浜松へ出かけていることもあって、なかなかスケジュールが合わない。しかしシューベルトがコンバースを履いているという今年のポスターは実にすばらしかった。

さて、写真のほうは最近ヒビキが拾ってきたもの。コドモは実にいろんなものを拾ってくるのである。特につながりはないのだが、ただこの緑が、シューベルトのポスターを思いださせたのだ。

調律のはなし、とクラシックイタチは話しはじめる。

2008-04-29 | ピアノ
調律となると、私のはなしは尽きない。たとえば調律師の腕は、整体師の腕にも似ている。いや、世のチューンナップというものすべてが、そもそもそういうものなのかもしれない。元来不完全なものを、どこまで整えられるか。いや、不完全かどうかを問うのが目的なのではないから、つまり──「最適化」ということになるだろうか。

ピアノの弦は1音につき3本または2本(音の高さによる)で、ひとつのキーを叩くとその3本が一度に鳴るようになっている。ちなみに、このうち弦を減らして鳴らすのが、グランドピアノのシフトペダル(左にある)である。

この3つの響きが合わなくてはいけなくて、その音程が合わなくてはいけなくて、そういうものが88鍵もあるのである。ひとつのキーに3分かけても4時間以上かかる。このように考えると、調律というのはほぼ不可能であるように思えてくる。

ギターの弦が6本だから、だいたい15倍だと思うかもしれないが、ひとつのキーで2~3本の弦だからその2~3倍である。そのうえピアノは壮大な平均律である。

というそのうえに、新しいピアノであれば弦が伸びやすく、古い弦であればギギギギという感じで硬く、調律していない時間が長ければその狂った状態にピアノが落ち着いてしまっており、という具合にいろいろと諸問題がある。

このように考えていくと、調律というものは、ひとつひとつの音の高さを合わせていくという作業では「なく」、別の考え方をしないととうてい完成しないものだということがうっすらわかってくる。つまり最も大事なことは、このピアノの音、響きをどう「まとめるか」ということにかかっているのだろうと思われる。

従っておそらく調律師の作業というのは──実際、調律師の人に訊いたこともあるのだが──まずこのピアノでどれくらい調整できるか、なるべく高くて可能なゴールをイメージする。次にそれに要する時間を見積もる。そして、あとはやるだけだ。

信頼できる調律師は、このゴールのイメージが、まさに玉を磨くような、古いピアノの潜在的な可能性を引き出すような見事な手際なのだと思う。

グランドのシフトペダル(アップライトの左ペダルとは別ものです)について動画付きで解説しているヤマハのページ
http://www.yamaha.co.jp/product/pi/grand_piano/index.html
音量だけでなく、打弦の位置をずらすことで音色も微妙に変化させられる。

ゴンサロ・ルバルカバを知らないなんて

2007-11-26 | ピアノ
クローズネスclosenessという
リーダーアルバムでも知られ
(1曲目がとにかく印象的)、
キース・ジャレットのトリオメンバーである
チャーリー・ヘーデンが見出した
キューバのピアニスト
(ニューヨークで演奏してもらうだけで一苦労)
ゴンサロ・ルバルカバは、
とにかくデビューしたてのころからジャズ界随一
と誉れが高かったので、有名なのかと思っていたら
世間的にはさほど有名ではないらしい。

たまたまこのブログをお読みになった方、
ぜひ聴いてみてくださいね。
親バカ母がリコメンドとかそういうレベルではなく
その素晴らしさは明々白々たる事実。

逆に親バカ母のレベルでは、
世界三大珍獣のひとつに、オカピ
ジャイアントパンダと並んでコビトカバ
というのがいる。上野動物園にいる。
この珍獣をどうしても思いださせてしまうのが
ルバルカバだ。
なんらかの奇跡によって発見された宝石。

でもってこの人類至宝のピアニスト、
ゴンサロ・ルバルカバが来日中なのである。
そこで先週、ヒビキも連れて
すみだトリフォニーホールへGO!
残念ながらヒビキ、「むずかしい」という理由で
拒否の入眠してたけど、
1曲目を憶えてくれただけでも、よかったよ。
会場はレベルの高い客層で、
残念なことに空席のめだつなか、
しんのある、いい拍手を送っていました。

で、演奏は?
親バカ母のごときでは形容不可能。
われはジャズファン、ピアノファンという方、
ぜひご一聴ください。

銀座ヤマハでピアノ調律体験

2007-08-10 | ピアノ
以前ピアノ体験レッスンに挑戦するも
「習わない」と辞退してしまったヒビキ。
だがずっと前、せっせとキッズ用ドラムを試奏してる頃から
楽器店へ行けばグランドピアノを気に入って、だっこして中を見せてくれといつも言っていた(楽器店の展示品は調律まったくしてないのが多いですけどね)……ということを思いだして、
ヤマハ銀座店の有楽町仮店舗で、
コドモ向け調律レクチャーがあるというのでGO!

ピアノエリートなコドモたちに混じって、ピアノ習ってない稀少な種族のヒビキ、でも鍵盤はいくつ? といった質問にはずば、とか答えてがんばってました(笑)。


調律を体験。バイオリンの調弦のように、もっと「聴く」体験をしたいところだったが、ピアノの調律ってまじ難しいので、コドモには無理と踏まれたようだ。


バラバラにしよう体験。これは思う存分触って88鍵を実感。

てきとーに聴いているようだったが、家へ帰ってきて、p200を弾いて
「これ、どこに響板があるの?」
と聴いたり、最終的には
「ピアノ習ってみたいと思った」
と言ったりと、効果絶大。
それにですね、これは解体しなかったのだが、一緒に置いてあったグランドピアノがすばらしかった。調整調律といい、あんなのあったら誰でもぜひピアノを弾いてみたいと思うようなすばらしい音だった。


アクションのハンマー部の部品。すごいなこれ、と思ってみてたら、なんと帰りに1人ひとつずつプレゼントしてくれたのだった。グランドピアノ2台からとって用意してくれてたのだそう。廃品ではあるので要らないもの、という見方もあるかも知れないが、こういう「本物」の力は、特に相手がコドモの場合、非常に大きく印象深いものだ。

明けて今日もまだ、おみやげにもらったハンマーをマレットみたいにして、ぽこぽこ叩いて遊んでます。あれ、それってドラムじゃん。そう、ピアノって打楽器なのよね、と親バカ母はすいすいウソ教えちゃうのである。ピアノって打楽器よ、チェンバロとかと違って。手と弦の間に「アクション」が挟まってるだけなんだから。

ピアノを習ってみようか

2007-06-22 | ピアノ
音楽コドモ・ヒビキも、ついに小学生となって、早くももう6月じゃあないですか。
「ユダヤ人は、この子はこの分野に才能がある!と思ったら、そこへ財産をつぎ込む」
「えらいよねえ」
「危機管理が徹底しているね」
「すごいねえ。それだから世界のトップをユダヤ人が占めているとも言われるわけだよね」
「とんでもない非常事態のときになにが一番頼れるか、ってことが身についてるんだよ」

うーん、するとヒビキが頼れるものは音楽なのか!? というわけで、親バカ母、ピアノを習ってみようか、と思っていろいろ調べ始めたのだが。おっとその前に「財産をつぎこむ」、その「財産」っていずこに?

しかしまあ、それはあくまでオモテの理由で、ウラの理由は、実は6月のバイオリンの先生のコンサートで親バカ母自身が“クラシック”に火がついてしまい、やっぱりピアノは楽しいよなあ~(ピアノレッスン体験者)と思ったから、という伏線も濃厚なのである。どっちがホントの理由で、どっちがきっかけなのか怪しいところである。

実際恐ろしいことに、コドモにピアノを習わせている親の大半が自分が習っていた、あるいは習いたかったに違いない(知り合いを眺めてみればだいたいそう)。子どもが習いたがるから、なんていうのはある意味皆無というか、レッスンなんかもともと親主導なのである。

だがヒビキは自宅のヤマハP200を小さいときから弾いていて、自分で何度も習いたい、と言ったのだ。それを複数段のふめんが読めない(!?)親バカ父が
「いいよそんなに習わなくても」
(ってだからさっきのユダヤの話はどーなったのよ)
と言い続けて先延ばしにしてきたのだ。

というわけで自宅から自転車で5分という立地に、個人レッスンの先生をお訪ねすることになったのが先週のこと。
先生のご自宅は、車が数台もおけるような広い敷地で、レッスン室にはK社のグランドと、ソニーのミニコンポと、なぜか琴がおいてあった……。(つづく)

ネコでも弾ける楽器

2006-09-13 | ピアノ
ネコふんじゃったという曲があるけど、ウチネコみゅーは、親バカ母なんぞがピアノ(ヤマハp200)なんぞを弾いていようもんなら、高音からやってきて低音へと鍵盤の上をしゃらりしゃらりと歩いてくる。

ま、ピアノってそんくらい誰でも音が出るってことですかね。

ヒビキの場合、親バカ母がむかーし「かえるの歌」を教えたんですが、バカ婆が和音で伴奏を入れる知恵をいれたらしく、Cの和音をところどころ入れながら童謡系を弾く、というワザを最近さかんに出している。

と、見てたら今日はかえるのうたの輪唱というのを右手と左手でやってました。こういうのは左利きは実は強いのよね。親バカ母的には、ヒビキの指の使い方が悪くないのがいいところ、でしょうか。

ところで今日は昼間、保育園でプラネタリウムに連れて行ってもらったんだそう。
「プラネタリウムでね、宇宙旅行へ行ったんだよ」
と言っておりました。


宇宙旅行といえば、先日月見をしました。ほんとうは10月だそうですが。

ヒビキ、かえるのうたを採譜!

2006-08-18 | ピアノ
もう昨日になる木曜の夕食後、親バカ母が国際電話にしがみついていると……ヒビキ、ほらできたっ!と、それはなんとかえるのうたの譜面なのだった。


確かに電話をしているときからピアノを弾いたり、間違えたから下の段に書き直すとかなんとか言ったりしては、なんか書いているようではあったのだが。

「直して」
というので見ると、少なくとも音程はぜんぶ合っている。
問題はみんな四分音符になっていること。
それで拍子がずれてしまっている。
必要なとこを二分音符にして、小節線も1本足して、と指示。
書き直してきて、はい、できあがり。

で問題は左手なのだそうだ。
そう、ちゃんと左手用にスペースをとってあるのである。
ヒビキのアイデアは、
1 二分音符で右手と同じ音を1オクターブ下で弾く
2 ユニゾン
3 音色を変える

しかし、夏休みとはいえ、もうとっくに11時を回っているので、本日はこれにて終了、ということにする。

ところで、そういえば、なのですが
先週12日、ドラムレッスンのないサタデー、あられが降りませんでしたか?
ウチのベランダではぱちぱちガラスに当たってました。


ところどころ白い粒子のようなものが見えますか? 暑いのですぐ溶けていくんですが、落ちてくるときはエッジの利いた形で、いかにも痛そう~。親バカ父、この天候をおして、バンドの練習に出かけて行ったとさ、の土曜日であったのです。

暑いお盆、なぜかバロック・アワー

2006-08-16 | ピアノ
今週は夏休み。最近、目覚めるとまずトイレ、その次にぺた、とピアノの前に座り込むのがヒビキのパターンになっている。(ピアノはヤマハp-200というキーボードで、しかも床の上に直置き、という悪条件なんですが。)それでもって、バイオリン・レッスンでやっているメロディや、入門用バッハのメヌエットやマーチなんかにトライしたりしているのである。

すっかりバロックづいているところに、親バカ父が図書館でバロック名作選のようなものを借りてきた。と、G線上のアリアはもちろんだが、ヒビキが新たに好きといったのが「パッヘルベルのカノン」。うーん、最近複音楽が身についているじゃん、と親バカ母、ゴキゲン。

ところでふと、パッヘルベルのカノンと言えば、山下達郎の万年ヒット曲「クリスマス・イブ」にあるよね~、とヒビキが言わないな、と発見。いつ気づくでしょうか。

後日記:ヒビキ今日になって、ベネッセの「しまじろう」の、知恵遊びパソコンの、はい間奏!みたいなやつを持ってきて、「ね、これでしょ」というのが、パッヘルベルのカノンでした。
なるほど、こんなとこにも。