∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-6 >臨済宗 圓満山 廣徳禅寺

2013-03-08 17:21:47 | C-6 >常滑水野



臨済宗 圓満山 廣徳禅寺(えんまんざん こうとくぜんじ)
 東京都練馬区桜台六丁目20番18号    Visit 2009.10.28


開山:16世紀末頃、小田原に早雲寺の子院として開山
開基:明叟宗普(みょうそうそうふ 1516年~1590年)
    京都の大徳寺百十三世、箱根の早雲寺五世
宗派:臨済宗大徳寺派第五教区
由緒:天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い廣徳寺も焼失したとされる。翌年、徳川家康は、広徳寺二世希叟和尚を招致し、江戸神田昌平橋の内に廣徳寺を再興。寛永十二年(1635年)下谷(したや)に移転後、加賀前田氏・九州立花氏・織田氏等の大名をはじめ、旗本家等の多くが檀家寺とする大寺院へと発展。当時の慣用句にも「びっくり下谷の廣徳寺」と称されるほどの広大な寺領を有し、塔頭は十五院を擁していたが、明治維新後は衰退。
大正十二年(1923)の大正関東大震災後、区画整理に伴い当地へ徐々に移転を続け、昭和五十三年(1978)移転完了。


水野守政と子孫の菩提寺
 常滑水野家
  水野監物守隆(守次)━河内守守信=守政=忠慎(ただちか)━忠富(ただとみ)┓
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
    ┗ 忠〓(考の下に高=)(ただひさ)━忠敞(ただたか)━忠晉(ただゆき)――

 水野河内守守信の略歴
  河内守守信(旗本三千五百石後五千石、寛永九年(1632)--寛永十三年(1636)大目付)以降は、守信の通称半左衛門に因み「半左衛門家」。
   C-6 >永明院(ようめいいん)
   

水野守政(元和九年(1623年)--正徳五年(1715)12月16日)
  旗本五千七百石。大目付(貞享二年(1685)--貞享四年(1687))。
『寛政重修諸家譜 第六(巻第339) 清和源氏 満政流 水野』(半左衛門家譜)
 初名は守行。通称は左京、半左衛門。官位は従五位下、伊豆守、備中守。  
鳥取藩主池田光仲の家老荒尾嵩就の四男荒尾将監重就の子。母は守信の娘。守信の養子となる。
 寛永八年(1631)2月15日、九歳ではじめて将軍徳川秀忠に拝謁。寛永十四年(1637)12月8日、守信の家督を継ぐ。萬治二年(1659)8月21日、定火消となり、12月28日布衣を着ることを許される。延寶元年(1673)4月14日、御持筒の頭に移動、同四年(1676)3月4日、百人組の頭に転じた。天和二年(1682)4月21日、七百石の地を加増。河内国交野、丹南、錦部、近江国野洲、栗太、蒲生、甲賀八郡の内において総高五千七百石を知行する。貞享二年(1685年)12月29日、大目付となり、従五位下伊豆守に叙任する。同四年(1687)8月21日御留守居に昇進し、後に綱吉親筆雁の御畫を賜う。元禄元年(1688)3月10日、その職に応じられず小普請に貶され出仕を止められ、12月18日赦免があったとはいえ尚も拝謁を憚り、翌二年(1689)6月4日許される。正徳五年(1715)12月16日93歳で死す。法名義浄。下谷の廣徳寺に葬る。のち代々葬地とする。妻は内藤百介正勝の娘。長子忠矩は早世、二男清枚は内藤大和守重頼の養子となったことから、家督は養子の忠慎が継ぐ。



☆旅硯青鷺日記
 2009年10月28日、東京に採訪し、帰宅後写真を自宅パソコンのピクチャに移し、カメラのデータは消去しました。それから間もなくして、そのパソコンが故障し、起動しなくなくなりました。従って長年にわたりピクチャのデータを取り出せずにおりましたところ、最近になって友人の一人が、その壊れたパソコンから写真データを取り出してくれました。これにより、漸くにして、記事と写真を掲載できることとなりました。
 ご支援頂いた友人に改めて深謝致します。















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