∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-6 >永明院(ようめいいん)

2008-03-24 17:49:06 | C-6 >常滑水野



永明院(ようめいいん)
   京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町60    Visit :2005-11-22 10:00

 「常滑三代城主 水野監物の墓 大岳周崇を開基に四代守信が創建」

三代常滑城主水野監物守隆の子については、正室於万との間の嫡男新七が、天正十二年(1584)小牧の役において十五歳で戦死したことから、中山家(*1)から彦三郎を養子に採ったが、側室で京の公家北小路公頼の娘菊との間にもうけた新七郎が、ただ一人残った監物の子であった。この公頼と菊の下で育てられた新七郎が、後に家康に召し出されて御使番となり、長崎、大坂町奉行をへて、さらに堺奉行を兼ねた後、大目付となった水野河内守守信である。

 監物は、京都嵯峨の隠棲生活の中で、千利休などとも茶の湯を悦しんだが、十四年後、慶長三年(1598)四月、秀吉の命により切腹させられた。法名は光院殿雲室全慶。遺骨は常滑焼きの壺に納められ、当初は交友のあった嵐山の妙智院に葬られたが、文禄五年(1596)、守信が同寺の直ぐ西にある、天龍寺塔頭(*2)永明院が地震で崩壊したものを中興開基した由縁で、監物と殉職した近習村田平蔵の遺骨を移し改葬した。その時期は既に明智院の過去帳にも「俗名水野監物 永明有廟」と見えることから、再興工事の落成後の早い時期に移されたものと考えられている。


◎水野河内守守信の略歴
『寛政重修諸家譜 第六(巻第339) 清和源氏 満政流 水野』(半左衛門家譜)――
守信
    半左衛門 河内守 従五位下 母は信元か女
  東照宮につかへたてまつり、慶長五年(1600)上杉景勝御征伐の時從ひたてまつり、  後采地三千五百石を賜ひ、十年(1605)台徳院(秀忠)殿御上洛のとき供奉に列す。元  和三年(1617)御使番となり、のち[寛永三年(1626)]長崎の奉行に轉じ、五年(1619)  二月二日大阪の町奉行となり、寛永六年(1629)二月六日より堺奉行をか[兼]ぬ。  九年(1632)十二月十七日大目付にうつる。十年(1633)三月十日仰せをうけて伊勢國  にいたり、十一年(1634)二月二十三日御使をうけたまはりて豊後國府内におもむき、  二十五日また采地三千五百石を加へられ、十三年(1636)十二月二十五日死す。年六十。法名宗元。嵯峨天龍寺の永明院に葬る。これ守信がかつて開基せるところなり。  妻は有馬玄蕃頭豊氏が女。
と書かれており、当永明院に葬られたので、妙智院の過去帳にも――
  永明院殿全叟宗完居士  永明院再興檀越也
とあり、墓もまた永明院の墓地に現存して居るというが、ともかくこの家は、水野半左衛門家として、子孫は後代まで存続したのである。

守信は、父の監物が、津田宗久と親交があったことで、宗久の子で大徳寺の江月宗玩とは兄弟同様の幼馴染みであった。そのことは、
江月の『欠伸稿』に――
全叟ノ號     宗完居士水野氏河内守
  祗(ただ)今聖代有(ニ)何ノ難(ー)カ 蕩々タル 蕘風天地寛ナリ
  猶是老來無言ノ日 枕頭自ラ置ク(ニ)泰山ノ安キニ(ー)
とあるように、法号も彼が付与し、四十九日の寛永十四年(1637)二月十一日には、江月が、守信にたいする哀悼の意を書き残している。 


『寛政重修諸家譜 第六(巻第339) 清和源氏 満政流 水野』(半左衛門家譜)(*4)
       家紋=丸に沢瀉  永楽銭 六葉
初代  政租(まさもと 半左衛門 河内守 水野蔵人貞守が二男)
二代  忠綱(ただつな 監物)[初代常滑城主]
三代  某 (山城守 大和守 従五位下)[二代常滑城主]
四代  守次(もりつぐ 監物 従五位下 今の呈譜、初守尚後守隆に作る)[三代常滑城主]
五代  守信(もりのぶ 半左衛門 河内守 従五位下 母は信元が女)
六代  守政(もりまさ 初守行 左京 半左衛門 伊豆守 備中守 従五位下 実は松平相模守家臣荒尾將監重就が男、母は守信が女。守信が養子となり(る カ)) 七代  忠愼(ただちか 初守常 半左衛門 致仕(*3)號睡 實は松平相模守家臣荒尾帯刀某が男、母は同家の臣荒尾志摩某が女。守政が養子となる)
八代  忠富(ただとし 初守忠 左京 半左衛門 内膳 河内守 従五位下 致仕號我誰、母は猪之助某が女)
九代  忠〓[考?の下に高](ただひさ 六之助 左京 備中守 従五位下 母は忠介が女)[下駄字は大漢和辞典にも記載はない]
十代  忠敞(六之助 内記 左京 但馬守 河内守 従五位下 母は忠定が女)
十一代 忠晉(ただゆき 鶴吉 左京 監物 實は水野壹岐守忠見が四男、母は某氏。忠敞が養子となり、某女を妻とす)


[註]
*1=小川水野の縁続きである岩滑(やなべ=愛知県半田市岩滑)の中山五郎左衛門家。
*2=仏教用語でたっちゅうと読む。「ちゅう」は「頭」の唐音である。
(1)禅宗寺院で開山または住持の死後、弟子が遺徳を慕ってその塔の頭(ほとり)、あるいは同じ敷地内に建てた小院。
(2)大寺の山内にある末寺。わきでら。寺中(じちゅう)。子院。
*3=致仕(ちし)=官職をやめて田園に帰って農業に従事すること。帰田。帰耕。
*4=「寛政重修諸家譜」は寛政年間に江戸幕府が、各大名・旗本の諸家に命じ、系譜を提出させ、編纂したものである。諸家の初代あたりは粉飾が見られるのは当然である。


☆旅硯青鷺日記
 厭離庵を辞して、直ぐ近くにある嵐山の明智院と当永明院を訪ねた。平日とはいえ午前十時を過ぎると紅葉狩りの観光客があふれた。当永明院は天龍寺の山内の一番本山に近い西の外れにあり、小さいながらも庭はよく手入れされており、門前を過ぎゆく観光客の騒がしさを濾過していた。院や庫裏に通じる通路には竹の棒が渡され踏み入れを拒んでいた。院の玄関先には住職の白い鼻緒の草履が揃えられおり、何度も声を掛けたが生憎不在のようであった。裏手の鉄パイプ門扉越しに墓所が見えるが、新しいものしか観られず、監物の墓の写真は撮れなかった。
 十二月四日、永明院様に架電し、御住職からたいへんご親切に取材させて頂いた。お墓については、監物公および守信公のお墓が境内に祀られており、口伝ではやはり常滑焼きの骨壺に納められているという。近習については、それらしき墓は無いと聞かれた。
 半左衛門家の末裔の方達は、現在でも永明院を訪れておられると伺った。
なお、写真の本堂の瓦には、開基水野家と同様の寺紋「丸に沢瀉紋」が朝日に美しく輝いていた。










 墓石群の左から二基目の一番小さな宝塔が監物公の墓
●上掲載二点の宝塔写真は、2008年3月24日、永明院御住持が撮影されたものを
 転載の許可を得て使用しています。深謝いたします。

永明院公式サイト( 2010.10.17)

小川水野系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

永明院縁起http://mizunoclan.exblog.jp/7589192/

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