∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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E-1>「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」1/2

2009-10-24 16:20:50 | E-1 >系統不確定水野氏
●「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」
※基礎データ:山鹿素行『武家事紀』上巻 原書房――巻第十四 續集 1982.12
 高柳光壽・松平年一『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館 1962.12





安土桃山通販様から転載許可済(2009.10.30)
豊臣秀吉 総金切裂(本陣旗)



★「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」
 「使番」とは、戦国時代、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職であり、「指物(旗指物)」は、武士が戦場で目印のため、鎧(よろい)の背などにさしたり、従者に持たせたりした小旗や飾り物、背旗のことで、使番の指物は「金色の切り裂き」、つまり、縁(へり)を適当に切り裂いて、なびきやすくしたものである。

 豊臣家臣「金切裂指物使番」については、『武家事紀』上巻「豊臣家臣」項目の最後部名簿に記載されていることから、豐臣秀吉朱印状に記載された「熊谷半次と水野久右衛門尉」を中心に調べてみる。

『武家事紀』巻十四 續集 山鹿素行著
豊臣秀吉家臣「金切裂指物使番」――
<金切裂指物使番>(計32名)……[ ]内は筆者補閲
蒔田主水正[政勝]、石川兵藏[貞]、三上與四郎[季直]、山城宮内[忠久]、左田三六、水原石見守[吉一]、水野又右衛門尉、熊谷内蔵允[直盛]、屋松治右衛門尉、佐久間河内守[政実]、瀧川豊前守[忠征]、 杉山源兵衛尉、奥村半平、佐藤駿河守[堅忠]、松平藤助、小田喜四郎、森重蔵[十蔵]、新庄越前守[直定]、大屋彌八、河原長門守、渡邊與一郎、大田半二、竹中貞右衛門尉、毛利兵吉、西川彌右衛門尉[方盛]、山田久三郎、小川清右衛門尉[長政]、美部四郎三郎[美濃部四郎三郎]、石田備前守、佐尾左衛門尉、垣見和泉守、伏屋飛騨守。
※「水野又右衛門尉」と翻刻されているが、これは「又」は「久」の見間違いであると推定でき、『戦国人名辞典』でも、「水野久右衛門 秀吉に仕え金切裂指物使番」とあることから、本稿では「水野又右衛門尉」を「水野久右衛門尉」に比定する。また、「熊谷内蔵允」は、『戦国人名辞典』から「熊谷直盛」に比定する。

[人物考察]――『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館
☆蒔田主水正[正勝]=秀吉に仕え金切裂指物使番。聚楽第行幸のとき供奉。
☆石川兵藏[貞]=秀吉の金切裂指物使番。小田原評定の後、秀吉から尾張犬山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣直領信濃木曽の代官。
☆三上與四郎[季直]=事典には「与三郎」で、秀吉に仕え金切裂指物使番。また船奉行。文禄元年(1592)九月肥後名護屋駐屯中に病死。
☆山城宮内少輔[忠久]=秀吉馬廻、金切裂指物使番。文禄四年(1595)正月朝鮮に出張して、毛利元康に在陣の労を犒った。
☆左田三六=秀吉に仕え金切裂指物使番。
☆水原石見守[吉一]=妙楽寺村百石。金切裂指物使番。
☆水野久右衛門=秀吉に仕え金切裂指物使番。また『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社 では「みずのきゅうえもん(のじょう)水野久右衛門(尉)生没年不詳 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番の一人。文禄元年(1592)朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留、同城の警衛にあたる。」とある。
☆熊谷直盛(くまがや なおもり)=(?~1600) (半次、内蔵允)名は直陳(なおつら)ともしてある。秀吉に仕え金切裂指物使番。文禄元年(1592)、朝鮮の役に慰問使となって十一月渡鮮(武家事紀)。文禄二年(1593)閏九月、豊臣直領豊後直入郡(なおりのこおり)三万二千九百八十九石余を支配(駒井日記)、大友吉統の欠所(*1)で其代官を命ぜられたので、被個人の所領はこの内にあっても僅少だったろう(貝原益軒の朝野雑載に八万石とあるのは誤り)。文禄三年(1594)春、豊後安岐城一万五千石に就領(豊後旧記・桃山末分限帳)。慶長二年(1597)、二次外征先手目付(*2)となって渡鮮、同十二月、蔚山城救助に活躍(浅野家文書)。慶長三年(1598)、秀吉の遺物長光の刀を受領。慶長四年(1599)五月、外地目付時代のことで、太田一吉等と共に蟄居。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦乱時西軍に投じ、兵四百五十人で近江瀬田橋を警固、ついで諸將と美濃大垣城を守ったが、九月十八日、熊谷直盛は、同志相良長毎と秋月種長等が共謀し寝返ったことから彼等に斬り殺された。相良等は最初から東軍に志を寄せていたという(真田文書・相良氏歴代参考・水野勝成覚書・譜牒餘録)。彼は利休門下の茶人(茶人系譜)。 尚太田一吉は、文禄元年朝鮮の役に出動。六万五千石豊後臼杵城主。二次外征先手目付。また、『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社 では、このほか、武勇をもって知られた。文禄二年帰国して豊後国内の秀吉直領の代官となり三千石を与えられた。慶長三年帰国し、功により豊後安岐城主となり一万五千石を領した。とある。
☆屋松治右衛門尉=無記載。
☆佐久間河内守[政実]=秀吉に仕え金切裂指物使番。文禄三年(1594)春、伏見城普請奉行の一人。慶長二年(1597)従五位下河内守に叙任、豊臣の姓を授けられた。
☆瀧川豊前守[忠征]=金切裂指物使番で普請奉行。慶長二年(1597)七百石を加増され二千石。同九月、従五位下豊前守に叙任。
☆杉山源兵衛尉=秀吉の馬廻か使番。
☆奥村半平=秀吉馬廻、後金切裂指物使番。慶長三年(1597)正月朝鮮蔚山に在陣の浅野行長に書を贈って慰問した。
☆佐藤駿河守[堅忠]=秀吉に仕え金切裂指物使番。従五位下駿河守に叙任。
☆松平藤助=無記載。
☆小田喜四郎=秀吉に仕え金切裂指物使番。
☆森重蔵[十蔵]=事典では[十蔵]。秀吉に仕え金切裂指物使番。
☆新庄越前守[直定]=秀吉に仕え金切裂指物使番。朝鮮の役から帰朝後、伏見城工事分担。当一万二千石。
   ――[後略]

[文禄・慶長の役に参戦した水野氏]――『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館
☆水野源左衛門=秀吉馬廻、文禄元年朝鮮の役に肥後名護屋城に駐屯。出自未詳。
☆水野忠重=(1542~1600)文禄元年肥後名護屋城に駐屯。結城水野家遠祖。
☆水野作右衛門=(?~?) 福島家臣、志段味城主。とある。この役に参戦したという記録はないが参考までに記す。


[註]
*1=本字は「闕所」。行方知れずになった者や犯罪者の領地財産を、支配者が没収することで、闕所処分が決まった
領地は、代官などを派遣し管理した。
*2=先手目付(さきてめつけ)は、先陣を受け持ち、主君の意を受けて同僚の非違(違法)を探索・報告する監察官(調監督役)。

                                    《つづく》




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