∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

D-4>宇多源朝臣姓京極系水野 追補版

2007-12-02 10:05:30 | D-4>宇多源氏京極系水野
D-4>宇多源朝臣姓京極系水野 追補版

 京極高知(きょうごく たかとも 元亀三年(1572)-元和八年(1622))は、京極高吉の二男で織豊期から江戸時代に活躍した戦国大名である。豊臣秀吉に仕え、長年の功績により後に羽柴姓を許されたが、秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ケ原の戦いで抜群の手柄を立て、丹後国宮津十二万三千石を宛行われ京極丹後守高知と称した。

 京極高三(たかみつ)は、高知の三男として慶長十二年(1607)丹後田辺で生まれる。父高知の卒去に伴い、遺領は高知の実子と養子で分割相続されることとなり、高三は加佐郡で三万五千石を相続し、丹後田辺藩の初代藩主となった。室は沼津水野・松本初代藩主水野隼人正忠の娘。寛永十三年(1636)九月十三日卒去。

 京極高直(たかなお 寛永九年(1632)-寛文三年(1663))は、寛永九年(1632)、高三の嗣子として生まれ、丹後田辺藩の二代藩主京極飛騨守高直となる。母は水野忠清の娘で、正室は水野駿河田中藩初代藩主水野監物忠善の娘である。在任中は江戸増上寺の普請や江戸城石塁の修築などに精勤したものの、隣藩の宮津藩京極高広と国境などをめぐって諍いを起こしている。寛文三年(1663)正月七日、三十二歳で卒去したが、家臣五名が殉死したことから、この殉死を契機として過去に起きた殉死などと共に問題視され、高直の卒去から僅か四ヶ月後に幕府から殉死禁止令が出された。

 京極高盛(たかもり 慶安三年(1650)-寶永六年(1709)は、京極高直の嗣子として生まれ、三代丹後田辺藩主京極伊勢守高盛となり、次いで移封され但馬豊岡藩の初代藩主となるものの、虚弱体質であったことから、延寶二年(1674)三月十八日養嗣子に迎えていた弟の京極高住に家督を譲り隠居した。

 京極高住(たかすみ)は、兄高盛が隠居したことから養子として家督を継ぎ、二代但馬豊岡藩主京極甲斐守高住となった。高住は兄高盛と同様、祖母は沼津水野・松本初代藩主水野忠の娘であり、また母は水野駿河田中藩初代藩主水野忠善の娘であることから、高住は二代に渡って水野氏からの血を受け継いでおり小河水野一族との縁が深いといえる。豊岡藩京極家は、本家の宮津藩京極家が改易された事に伴い、京極本家となった。正徳四年(1714)、嗣子の京極高榮に家督を譲り隠居した。その後は剃髪して甲斐入道と号した。

 京極高榮(たかよしorたかしげ)は、元禄三年(1690)高住の嗣子として生まれ、正徳四年(1714)七月二十九日父の隠居に伴い家督を相続し、三代但馬豊岡藩主京極加賀守高榮となった。正室は水野駿河田中藩初代藩主水野忠善の孫水野忠之の養女(兄水野忠盈の娘)であることから、三世代にわたり水野氏の血を引いていくこととなる。相続時、弟の京極善興(重二郎 水野左衛門善興)に二千石を分与し、小普請組京極三右衛門家を創設した。享保六年(1721)、就任七年にして麹町邸において三十二歳の若さでで急死した。
 その後を継いだ嫡男の京極高寛も十歳で相次いで早世すると、豊岡藩京極家は無嗣断絶で改易となった。これに危機感を覚えた高住は、高寛の弟である京極高永を後継として立て幕府に運動したことから、三万三千石から一万五千石に減禄されたものの五代目として家名相続を許され、甲斐あって京極家は九代京極高厚(たかあつ)まで続いた。


『新訂寛政重修諸家譜』巻四百二十一 宇多源氏 佐々木庶流 京極 によると――
 京極
  はじめ外家の家號水野を稱し、高明がとき京極に復す。
●善興(よしおき) 重次郎 左衛門 京極甲斐守高住が三男、母は難波氏
 正徳四年(1714)七月二十九日父高住が所領収納のうちにをいて稟米(*1)二千俵を分ち賜ひ、寄合となる。八月十一日はじめて有章院(家継)殿に拝謁し、延享二年(1745)九月十三日御小姓組番士(*2)となり、延享四年(1747)二月六日死す、年五十一。法名全了。浅草の妙高寺に葬る。代々葬地とす。――
と記されており、水野を称して、小普請組京極三右衛門家を創設した。

 嗣子高明(たかあきら、初善勝)は、享保四年(1747)五月三日遺領を継ぎ、十三歳で小普請(*3)となる。寶暦六年(1756)十一月六日家號を京極に改め「京極乙三郎高明」と称した。安永八年(1779)十一月二十一日死去。
また、高明以降については、嗣子高亮が遺領を継ぎ、二男高〓(虫偏に鬲旁 たかのぶ)が兄高亮の養子となり家督を相続した。高〓(虫偏に鬲旁)の妻は、水野筑前守勝(*4)の娘であるが、嫡男は早世した。二男は、後妻の大久保大和守忠元娘の子である。


 ついでながら、京極高三から明治に到る家督相続の様子が以下の書に記されており、「左衛門善興」が分録された経緯も明記されていることから引用抜粋する――
『兵庫県史 史料編 近世1』1藩主と領地 豊岡藩
〔京極氏〕
 但馬豊岡 京極家譜 史料編纂所所蔵(*5)
  京極
[中略]
[高住は]兄ノ世継トナリ正徳四年(1714)七月十九日致任ス、享保十年(1725)八月十三日七十歳ニテ卒、嫡男高榮家督、任加賀守、舎弟左衛門善与江稟米二千表ヲ分ツ、享保六年(1721)六月十三日三十二歳ニテ卒、嫡子土肥之助高寛幼少ニテ家督、享保十一年(1726)九月十二日十歳ニテ卒、高寛幼少ニテ相果候ニ付領地三万五千石被召上、雖然大吉高永舎弟ノ義ニ付於同所豊岡新地一万五千石賜~但シ此内二千表ハ如前左衛門江分与~、依之同年十月十五日新知ノ御礼申上、同廿年(1735)十二月十六日任甲斐守、宝暦十年(1760)八月十二日四十一歳ニテ卒、嫡男高品家督 [後略]


[註]
*1=りんまい。 蔵に貯えてある米。江戸時代、幕府・諸藩が家臣の俸禄にあてるため蔵に貯えた米。稟米。廩米。
*2=ばんし。(1)武家時代、殿中その他諸所の警備にあたった武士。(2)当番にあたって勤務する兵士。
*3=こぶしん。江戸幕府の直臣団の組織の一。禄高三千石以下の旗本・御家人のうち無役の者を編入し、小普請支配に統率させた。
*4=初代福山藩主水野日向守勝成の六男の末裔で、勝直の孫勝澄に、松平中務少輔康郷の四男が養子で入る。
*5=東京大学史料編纂所は、東京大学の附置研究所の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。