2011 ”亡くなったときは知らせて欲しい”
土曜日だと家族に会える家もあるので、在宅訪問をした。
利用票に印鑑だけを押してもらう「宅配便」訪問にならない気をつけている。
訪問を待ち焦がれている美代子婆さん(仮名 91歳)。
「いつも同乗しているお爺さんがいない」
「どうして来ないのか気になる」
来ない日が続くと、入院したのかな、施設に入ったのかな、死んだのかな、と頭の中で思い巡らしてしまう。
1月9日デイサービスを休んだ。
1月13日の
福島民報のおくやみ欄にお爺さんの名前に目が留まった。
「1月11日に亡くなっていた」。
どうして来なくなったのか、そのときはじめて知った。
デイサービスの責任者にそのことをお話ししたら
「そう亡くなったの。他の利用者に言わないでね。動揺するから・・・・」。
「同じひとつ屋根の下で過ごした仲間」の死をどう、他の老人に伝えるべきなのか、否か、悩み戸惑うスタッフもいる。
事業所によって「老人の死を知らせない」ところもある。
何故、死を知らせないのか。他の老人にショックを与えてしまう。
確かに親しかった老人の死を告げらたら、ショックを受けてしまう。
そのことに美代子さんは、こう自分に話してくれた。
「ショックです。でも、亡くなったその人のことを想いだします。
無口なお爺さんだったけど、笑顔を見せてくれたり優しかった。
デイに向かう車のなかで、手を出して”おはよう”といつも声をかけてくれた」。
彼女は、「死を知らせてもらった方がいい」、と話す。
自分は、老人介護施設で従事してきたときも、いまも
ひとりの老人が亡くなったこと わかったときには他の老人にも伝えてきた。
「ショックである」、でもそのことでその人過ごした思い出や人柄を思いだす。
その言葉はとても意味深いものがあります。
なぜ美代子さんは、「死を知らせてもらった方がいい」と話されたのか。
同じ釜の飯(昼食)を食べた仲間、
亡くなったことも知らされないまま、
あの人は「どうして来ないのか気になり」ながら過ごし、かなり時間が経ってから
「なくなったんだ」と言われても、しっくりこない。
他の老人が亡くなった事実を
自分の身に置きかえて考えるとよくわかる。
「自分の死」を誰にも知られることなく、居るのは嫌だし、寂しい。
生きているのか、死んでいるのか、わからないまま、自分の存在が忘れ去られてしまう。
家族の死、親しかった人の死、老いてからデイサービスで知り合った老人(仲間)の死
死は辛く悼みを伴う。
美代子さんが話してくれたように、「亡くなったその人のことを想いだします」。
仲間の死を通し、自分もいつかは死ぬ、ということを、改めて思う。
死を知らせる、ということ。
生きてきたひとりの老人の存在を認めていくことにつながっていく。
亡くなっても、その人の存在は、誰か心のなかで生きているのです。
死は、哀しみ、悼みを伴うからこそ、ひとりの死を通し
残された時間(老い)をどう過ごしていくのか、見つめ直すきっかけにもなる。
介護スタッフも同じです。
ひとりの老人が亡くなった事実をどう受け留めるのか。
「留める」という言葉は、亡くなった老人のことを想いだしたり、また十分なケアが為されたのか。
老人(人)はいつ亡くなるかわからない(自分も同じく、いつ幕が降りるのか、わからない)。
今日が最後と思って食事を作ったり、お風呂に入れたりする、その想いが大切なのかもしれない。
100%のケア(サービス)は難しいけれど、
その人に対し自分はどうかかわったのか、かかわってきたのか、振り返ることです。
その老人に出来なかった(反省、後悔等々)ことは、他の老人にその想いをかけていく。
堂々巡りなことを書いてしまったけれど
死は避けるものではなく、対峙することだと思う。
死に近い老人ほど死に対し恐怖、不安を抱きながらも、1日でも長生きしたい・・・・。
何人にも死はいつか訪れる。
それを意識しているか、意識していないか、だけの違いでしかない。
美代子婆さんと話をし、死ということについて考えさせられた日であった。
いつも違う場所から写した阿武隈川風景、右に見えるのは桜並木
土曜日だと家族に会える家もあるので、在宅訪問をした。
利用票に印鑑だけを押してもらう「宅配便」訪問にならない気をつけている。
訪問を待ち焦がれている美代子婆さん(仮名 91歳)。
「いつも同乗しているお爺さんがいない」
「どうして来ないのか気になる」
来ない日が続くと、入院したのかな、施設に入ったのかな、死んだのかな、と頭の中で思い巡らしてしまう。
1月9日デイサービスを休んだ。
1月13日の
福島民報のおくやみ欄にお爺さんの名前に目が留まった。
「1月11日に亡くなっていた」。
どうして来なくなったのか、そのときはじめて知った。
デイサービスの責任者にそのことをお話ししたら
「そう亡くなったの。他の利用者に言わないでね。動揺するから・・・・」。
「同じひとつ屋根の下で過ごした仲間」の死をどう、他の老人に伝えるべきなのか、否か、悩み戸惑うスタッフもいる。
事業所によって「老人の死を知らせない」ところもある。
何故、死を知らせないのか。他の老人にショックを与えてしまう。
確かに親しかった老人の死を告げらたら、ショックを受けてしまう。
そのことに美代子さんは、こう自分に話してくれた。
「ショックです。でも、亡くなったその人のことを想いだします。
無口なお爺さんだったけど、笑顔を見せてくれたり優しかった。
デイに向かう車のなかで、手を出して”おはよう”といつも声をかけてくれた」。
彼女は、「死を知らせてもらった方がいい」、と話す。
自分は、老人介護施設で従事してきたときも、いまも
ひとりの老人が亡くなったこと わかったときには他の老人にも伝えてきた。
「ショックである」、でもそのことでその人過ごした思い出や人柄を思いだす。
その言葉はとても意味深いものがあります。
なぜ美代子さんは、「死を知らせてもらった方がいい」と話されたのか。
同じ釜の飯(昼食)を食べた仲間、
亡くなったことも知らされないまま、
あの人は「どうして来ないのか気になり」ながら過ごし、かなり時間が経ってから
「なくなったんだ」と言われても、しっくりこない。
他の老人が亡くなった事実を
自分の身に置きかえて考えるとよくわかる。
「自分の死」を誰にも知られることなく、居るのは嫌だし、寂しい。
生きているのか、死んでいるのか、わからないまま、自分の存在が忘れ去られてしまう。
家族の死、親しかった人の死、老いてからデイサービスで知り合った老人(仲間)の死
死は辛く悼みを伴う。
美代子さんが話してくれたように、「亡くなったその人のことを想いだします」。
仲間の死を通し、自分もいつかは死ぬ、ということを、改めて思う。
死を知らせる、ということ。
生きてきたひとりの老人の存在を認めていくことにつながっていく。
亡くなっても、その人の存在は、誰か心のなかで生きているのです。
死は、哀しみ、悼みを伴うからこそ、ひとりの死を通し
残された時間(老い)をどう過ごしていくのか、見つめ直すきっかけにもなる。
介護スタッフも同じです。
ひとりの老人が亡くなった事実をどう受け留めるのか。
「留める」という言葉は、亡くなった老人のことを想いだしたり、また十分なケアが為されたのか。
老人(人)はいつ亡くなるかわからない(自分も同じく、いつ幕が降りるのか、わからない)。
今日が最後と思って食事を作ったり、お風呂に入れたりする、その想いが大切なのかもしれない。
100%のケア(サービス)は難しいけれど、
その人に対し自分はどうかかわったのか、かかわってきたのか、振り返ることです。
その老人に出来なかった(反省、後悔等々)ことは、他の老人にその想いをかけていく。
堂々巡りなことを書いてしまったけれど
死は避けるものではなく、対峙することだと思う。
死に近い老人ほど死に対し恐怖、不安を抱きながらも、1日でも長生きしたい・・・・。
何人にも死はいつか訪れる。
それを意識しているか、意識していないか、だけの違いでしかない。
美代子婆さんと話をし、死ということについて考えさせられた日であった。