横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

intro「蒸発」  続き

2011-11-13 | 観劇した
intro「蒸発」 の続き


結局は、なにをもって「おもしろい」とするか、になるんだろうけどね。


例えばですね、
ほんとに例えばなんだけど、
ケラさんの芝居である瞬間「オモシロイ」とするでしょう。
で、それって、絶対にケラさん本人なんだよね。
うーん、なんて言ったらいいんだろう。
そのことを舞台に置いて笑ってるケラさんが、そこにいるっていうか。
その、「置く」ことが才能なんでしょうけどね。

また、例えばなんだけど、
北村想さんの本とか、別役さんの本とか、ふざけてるじゃないか。
(一応お断りしておくがお二人とも私が最も敬愛する劇作家である)北村さんとか別役さん自身が、ふざけてる。
そのふざけ具合が、私は面白いと感じる。魅力を感じる。


演劇の、戯曲の「オモシロイ」ところを挙げたらきりが無いからやめるが、
じゃあ、今回のイトウワカナ/introで、何が「オモシロイ」かを考えなくてはいけない。

結論から言うと、イトウワカナが方法論と演出論を試行錯誤の中で生み出そうとし、劇の言葉を捻り出し、舞台として成立させようとした、そのことが、面白かった。
そしてこうして書いてみるとはっきりするんだが、このことは演劇を作るうえでの、ごくまっとうなプロセスであると言える。

性急な気もするが更に結論を言えば、イトウワカナは「何が自分にとっての演劇か」を追求したのだと思う。
だから、見ていて面白かったし、嬉しかった。ワカナがね。



余計なことだが言ってしまえば、あの芝居観て観客がどう思ったかなんて、知らないよ俺は。


ワカナには、どうか観客のことなど気にしないで突き進んでいただきたいと思う。
ま、客来ないと、困るけどね。



次回は、惜しかったとこを書きたいと思うが、どうでしょう。
つまり、「蒸発」 の何が「オモシロク」なかったか、だ。











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