今の一万円札には福沢諭吉、5千円には平塚らいてうが千円札には野口秀世が載っている。
まえに述べたように、野口秀世の研究成果には誤りか偽りがあり、多くの功績がなくなっている。
平塚らいてうはほとんど知らないが、経済に関して言えば「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」という発言が残っていて、実際に浮気や不倫とされる事を行っていた。
では、一万円札にある福沢諭吉は経済についてどんな事を述べていたのか青空文庫から引いてみる。
物理学の要用
福沢諭吉
物理学とは、天然の原則にもとづき、物の性質を明らかにし、その働を察し、これを採ってもって人事の用に供するの学にして、おのずから他の学問に異なるところのものあり。たとえば今、経済学といい、商売学といい、等しく学の名あれども、今日の有様にては、経済商売の如き、未だまったく天然の原則によるものに非ず。いかんとなれば、経済商売に、自由の主義あり、保護の主義あり。そのもとづくところ、同じからずして、英国の学者が自由をもって理なりといえば、亜国の人は保護をもって道(みち)なりといい、これを聞けば双方ともに道理あるが如し。されば、経済商売の道理は、英亜両国においてその趣(おもむき)を異にするものといわざるをえず。
物理はすなわち然らず。開闢(かいびゃく)の初より今日にいたるまで、世界古今、正(まさ)しく同一様にして変違あることなし。神代の水も華氏の寒暖計二百十二度の熱に逢うて沸騰し、明治年間の水もまた、これに同じ。西洋の蒸気も東洋の蒸気も、その膨脹の力は異ならず。亜米利加の人がモルヒネを多量に服して死すれば、日本人もまた、これを服して死すべし。これを物理の原則といい、この原則を究めて利用する、これを物理学という。人間万事この理に洩(も)るるものあるべからず。もしあるいは然(しか)らざるに似たる者は、未(いま)だ究理の不行届(ふゆきとどき)なるものと知るべし。
経世の学、また講究すべし
福沢諭吉
ある人いわく、慶応義塾の学則を一見し、その学風を伝聞しても、初学の輩(はい)はもっぱら物理学を教うるとのこと、我が輩のもっとも賛誉するところなれども、学生の年ようやく長じて、その上級に達する者へは、哲学・法学の大意、または政治・経済の書をも研究せしむるという。
そもそも義塾の生徒、その年長ずるというも、二十歳前後にして、二十五歳以上の者は稀なるべし。概してこれを弱冠(じゃっかん)の年齢といわざるをえず。たとい天稟(てんぴん)の才あるも、社会人事の経験に乏しきは、むろんにして、いわば無勘弁の少年と評するも不当に非ざるべし。この少年をして政治・経済の書を読ましむるは危険に非ずや。政治・経済、もとよりその学を非なりというに非ざれども、これを読みて世の安寧を助くると、これを妨ぐるとは、その人に存するのみ。
余輩の所見にては、弱冠の生徒にしてこれらの学につくは、なお早しといわざるをえず。その危険は小児をして利刀を弄(ろう)せしむるに異ならざるべし。いわんや近来は世上に政談流行して、物論はなはだ喧(かしま)しき時節なるにおいてをや。人の子を教うるの学塾にして、かえって、これを傷(そこな)うの憂いなきを期すべからず、云々と。
我が輩、この忠告の言を案ずるに、ある人の所見において、つまり政治経済学の有用なるは明らかなれども、これを学びて世を害すると否とは、その人に存す。弱冠(じゃっかん)の書生は、多くは無勘弁にして、その人に非ずということならん。この言、まことに是(ぜ)なり。
事物につき是非判断の勘弁なくして、これを取扱うときは、必ず益なくして害をいたすべきや明らかなり。馬を撰ばずして、みだりに乗れば落つることあり。食物を撰ばずしてみだりに食(くら)えば毒にあたることあり。判断の明(めい)、まことに大切なることなれども、ただこれを大切なりというのみにては、未だもって議論のつきたるものに非ず。ゆえに今この問題に付ては、人にしてこの明識を有すると有せざるとの原因はいかん、これを養うの方法はいかにして可ならんとて、その原因を尋ね、その方法を求めて、はじめて議論の局を結ぶべきなり。
赤線の部分を短くいえば、経済学や政治学は自然法則に則っておらず学問になっていないと述べているわけだが、福沢諭吉の経済についての発言はどこでも基本的にこれと同じであある。
お金にこの人の絵を描いたのはその戒めであったのかもしれない。
かなり昔から指摘はあるのだが根本的な価値や何かについてのところの社会的な解決は私が生きているうちは無いようである。
まえに述べたように、野口秀世の研究成果には誤りか偽りがあり、多くの功績がなくなっている。
平塚らいてうはほとんど知らないが、経済に関して言えば「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」という発言が残っていて、実際に浮気や不倫とされる事を行っていた。
では、一万円札にある福沢諭吉は経済についてどんな事を述べていたのか青空文庫から引いてみる。
物理学の要用
福沢諭吉
物理学とは、天然の原則にもとづき、物の性質を明らかにし、その働を察し、これを採ってもって人事の用に供するの学にして、おのずから他の学問に異なるところのものあり。たとえば今、経済学といい、商売学といい、等しく学の名あれども、今日の有様にては、経済商売の如き、未だまったく天然の原則によるものに非ず。いかんとなれば、経済商売に、自由の主義あり、保護の主義あり。そのもとづくところ、同じからずして、英国の学者が自由をもって理なりといえば、亜国の人は保護をもって道(みち)なりといい、これを聞けば双方ともに道理あるが如し。されば、経済商売の道理は、英亜両国においてその趣(おもむき)を異にするものといわざるをえず。
物理はすなわち然らず。開闢(かいびゃく)の初より今日にいたるまで、世界古今、正(まさ)しく同一様にして変違あることなし。神代の水も華氏の寒暖計二百十二度の熱に逢うて沸騰し、明治年間の水もまた、これに同じ。西洋の蒸気も東洋の蒸気も、その膨脹の力は異ならず。亜米利加の人がモルヒネを多量に服して死すれば、日本人もまた、これを服して死すべし。これを物理の原則といい、この原則を究めて利用する、これを物理学という。人間万事この理に洩(も)るるものあるべからず。もしあるいは然(しか)らざるに似たる者は、未(いま)だ究理の不行届(ふゆきとどき)なるものと知るべし。
経世の学、また講究すべし
福沢諭吉
ある人いわく、慶応義塾の学則を一見し、その学風を伝聞しても、初学の輩(はい)はもっぱら物理学を教うるとのこと、我が輩のもっとも賛誉するところなれども、学生の年ようやく長じて、その上級に達する者へは、哲学・法学の大意、または政治・経済の書をも研究せしむるという。
そもそも義塾の生徒、その年長ずるというも、二十歳前後にして、二十五歳以上の者は稀なるべし。概してこれを弱冠(じゃっかん)の年齢といわざるをえず。たとい天稟(てんぴん)の才あるも、社会人事の経験に乏しきは、むろんにして、いわば無勘弁の少年と評するも不当に非ざるべし。この少年をして政治・経済の書を読ましむるは危険に非ずや。政治・経済、もとよりその学を非なりというに非ざれども、これを読みて世の安寧を助くると、これを妨ぐるとは、その人に存するのみ。
余輩の所見にては、弱冠の生徒にしてこれらの学につくは、なお早しといわざるをえず。その危険は小児をして利刀を弄(ろう)せしむるに異ならざるべし。いわんや近来は世上に政談流行して、物論はなはだ喧(かしま)しき時節なるにおいてをや。人の子を教うるの学塾にして、かえって、これを傷(そこな)うの憂いなきを期すべからず、云々と。
我が輩、この忠告の言を案ずるに、ある人の所見において、つまり政治経済学の有用なるは明らかなれども、これを学びて世を害すると否とは、その人に存す。弱冠(じゃっかん)の書生は、多くは無勘弁にして、その人に非ずということならん。この言、まことに是(ぜ)なり。
事物につき是非判断の勘弁なくして、これを取扱うときは、必ず益なくして害をいたすべきや明らかなり。馬を撰ばずして、みだりに乗れば落つることあり。食物を撰ばずしてみだりに食(くら)えば毒にあたることあり。判断の明(めい)、まことに大切なることなれども、ただこれを大切なりというのみにては、未だもって議論のつきたるものに非ず。ゆえに今この問題に付ては、人にしてこの明識を有すると有せざるとの原因はいかん、これを養うの方法はいかにして可ならんとて、その原因を尋ね、その方法を求めて、はじめて議論の局を結ぶべきなり。
赤線の部分を短くいえば、経済学や政治学は自然法則に則っておらず学問になっていないと述べているわけだが、福沢諭吉の経済についての発言はどこでも基本的にこれと同じであある。
お金にこの人の絵を描いたのはその戒めであったのかもしれない。
かなり昔から指摘はあるのだが根本的な価値や何かについてのところの社会的な解決は私が生きているうちは無いようである。