判断能力がないというのは都合の悪いことであって、それを拡大して都合の悪い事をした人は判断能力が無いということもできるため、判断してほしい基準について明確に示したことのない、同じ状況にない人物というのは精神異常に社会的にも医学的にも罹患する可能性が高いと思われる。
逆に都合が良ければ判断について邪魔になり、多少の事でも全部受け入れるというのが人間が良くやっていることで、そのために人間は同じ状況に対して対になることわざや反対の言い換えを準備しているのである。
自分は確かに人間関係を形成するのに不適な人物になったが、結局、人が嫌うからで、どんな事をしてもそれに尽きるのだと感じる。
嫌がられていることが分かればよいのだが、そんな事は稀で、わかるときは手遅れだったりする。
人が好むことをしようと思うのだが、人が好ましいと言った事を自分が実際にすると余計に離れたり、嘘を人間がついたのがいくつかあって、ばれたり、手違いが発生してから、何かをしても大抵その人たちが注意しなくなったり、実力行使もなくなったりが長くつづき、用事もないので余計に感情を合わせる機会が失われていると感じている。
人が好むことをやるには時として同じことを嫌がらねばならないのだが、自分に一番欠けているのは今までの経験では具体的に形成できなかったし、未来的にも可能性が少ないであろうと思われる、その認識だと思う。
その人の好悪の判断基準がメジャーで必須に近く学習する事だったらある程度想像が出来るが、政治思想やファッション、宗教、漫画・アニメ、小説、嗜好品などどれも必須でない場合がほとんどなので物量が多いと私は疲れてまでやる気がなくなる。
第一、人が私に問いかけず合わせなかったのに、私が人に合わせるべきと言っておきながら、実際にやると真似するなといった人間が多く居たのでどうしても人のことがわからない。
カオスな社会にさようならをしてしまった私だがそれほどに感じないのはそのせいかもしれない。
原子力発電について記述した図鑑の一部だが、事故があったあとはこれを少し読んでいた。
小中学生用なので、オームの法則とワットまでしか数学的なことはないがかなり詳しい。
三角関数やキルヒホッフぐらいあってもよかったが、自主的な勉強fが足りなかったと反省している。
今の小学生も買ってもらって読んだら良いことあるように思う。