Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

他己と自己の気づきAware to one-self and other-self

2021-04-28 | 坐禅

学ぶこととは気づくことなのかなとつくづく思う。

I keenly think that learning is maybe an awareness.

 

気づき無しで暗記をしたとしても、

気が向いている時は何となく分かった気になるが、

時間が経つに連れてきれいに忘れられてしまう。

Memorizing without aware,

it somehow gives us the feeling of understanding,

but it will be forgotten completely as time goes by.

 

偉人や教師から学んだ知識も腑に落ちて、納得もできるが、

それらを自らの身で体験しない限り、身につかない。

Such knowledge learned from great men or teachers

can make sense and convincing,

but it cannot be retained as long as experienced by oneself.

何故なら、その教えが偉大でも、

真実染みているとしても、

他人の気付きだからである。

No matter how great or looks to be true,

it is because other’s awareness has belonged to them.

 

他人の気づきを知ることは可能である。

We can know how others' awareness is.

だが、他人の気づきで自分を気づかせることはできない。

However, we cannot make ourselves aware

with other’s awareness.

 

だから、仏教の禅僧は修業をする。

That is why those Buddhists doing practice.

 

では、気づくこととは何だろうか。

Then, what is awareness?

 

気づくこととは、

まず気づくことの深さを測り、重さをも量り

それらの寸法を見積ることを知っていくことである。

First, awareness is to know how deep the awareness will be,

how it weighs, and how the volume is.

 

私は『気づきとは何か』と自問自答してきた。

I have been asking myself for a long time

about “what is awareness?”

その自問自答を長くやっていると、

何かに気づいた瞬間に、気づいたと思っても、

実は気づいていなかった場合が多かった。

As I have been doing the self-questioning and answering for a long,

at a moment I assumed that I was able to get the awareness

but mostly it turned out that actually, I did not.

 

何故なら、その気付きがある瓶であると仮定すると、

蓋が取れたことがその瓶を知ることにならないからである。

Because if we put a hypothesis awareness is as a bottle,

the removal of the lid does not mean the knowledge of the bottle.

 

そこにある瓶があるとする。

Assuming there is a bottle.

そこから、人はその瓶に蓋があるか無いかを見る。

From it, people look at the bottle whether it has a lid or not.

 

蓋を見てはそれが閉まっているか開けられるかを見る。

Look at the lid to see if it is closed or can be opened.

 

それから瓶の中にあるものは何かを見る。

After then look at what is in the bottle.

 

瓶に何かが入っていれば、

もっと入れるべきか或いは出すべきかなどを判断する。

If there is something in the bottle,

people make a decision whether to put more or take it out.

 

それらを見て判断していく過程で、

人はその瓶の大きさや様子、

蓋のありさま、又は瓶の用度などを

自らの物差しで分かった場合、

それに付き気づいたと認識する。

In such process of judging by looking at it,

people get apprehensive that the size of the bottle and shape,

how the lid is, and when they can measure the usage of the bottle

with their own ways of recognizing,

they assume that it could be an awareness.

 

でも、それらは個人の見る尺度にすぎない。

But it is just a personal measure way of perspective.

 

気づきとは、

その瓶を判断する自らの判断力の傾向を知ることなのである。

Awareness is to know

one’s own tendency of judgment to judge a bottle.

 

瓶を判断することは単なる思考の習慣にすぎない。

Judging a bottle is merely a habit of thinking.

 

瓶に何かを入れるべきだ、

或いは出すべきだと決めつけるのも個人の習性にすぎない。

Should put something in the bottle

or take something out is also just a personal trait.

 

ある瓶から何かを入れては出して、

それを繰り返すという行為も思考の反復にすぎない。

The behavioral act of putting something in and out of the bottle

and repeating it is also just a repetition of thought.

 

それらについて知っていく過程、それが気づきなのである。

The process of getting to know them is awareness.

 

その気付きに気づき始めて、

人は学ぶことをやっと始められるのである。

Aware of the awareness it opens up aware

and people finally be able to learn.

 

 

 

 


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14 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (toita)
2021-04-28 07:06:29
お早う御座います。常々、「気づく」と言う事を考えては、いますが、貴方様の半分も考えが及んでいません。私の理解では、人は、何事も経験しないと理解出来ないと言う位です。学生の失敗が見えていても、危険が無い限り、経験させるべきと考えています。
ところで、ヘイトクライムは、大丈夫ですか?
案じています。
返信する
Unknown (瓊花さまへ)
2021-04-28 07:12:56
瓊花さん、今回の記事は
瓊花さんのコメントから触発されて
一気で書いたものです。

本来は下書き分から一つを取り出して
編集して投稿する予定でしたが、
コメントへの返信を書いてから
この記事が水のように流れてきました。

私がこれら内容を考えていたことすら
気づいていなく、
思ってもいなかったので、
書き終わって、人との縁は不思議だと思っているところです。

書きながら、『気づき』について
教えてくださった亡き恩師のことを
ずーと思いました。

もう、亡くなっていないし、
その恩師を軸に集まってた多くの友人達とも
もう二度と集まることはないと知って
損失感がぶり返しました。
それが死
決して、超然に語れない死、かなと思っています。

私の中に眠っていた何かを
覚醒させて頂き本当に感謝します。
返信する
Unknown (トイタ先生へ)
2021-04-28 07:32:34
学生は失敗が必要なのです。
強くそう思っています。
失敗する機会を奪ってはいけないと思ってもいます。

でも教師はその失敗の経過を見守り
気づく、学ぶことを手助けする義務があるでしょう。
偉そうな口調で申し訳ございませんが、
最近、形式的な礼に時間を無駄使いしたくないのもあって、
生意気な意見を書きました。


ここのヘイトクライムは
化膿した部位が少しずつ、表に出てくる感じです。
でも、もうニュースを観るべきだという使命感も
選挙が終わり、薄くなったので
あまりその経過を知っていません。


夫の法律事務所は二人がコロナ陽性で
カウンターで30年間働いた事務員が亡くなりました。
あっちごっちでコロナ陰性を聞くケースが多くなりました。
私は最初のワクチンを受けて
来月最後の接種予定です。

ワクチンアレルギー反応で痛みがありましたが、
やっとよくなりました。

先生はワクチン接種されたのですか?
返信する
気 が つ く (榮 久)
2021-04-28 10:31:47
私たちは「AはBである」と言うが
そう言えるのはなぜなのか
「なぜ・・・」この途方もなさに
「気がつく」感覚、日常とは異質ななにものかに

二千程前
インドの思索者やギリシャの哲人たちは
一冊の書物ももたないで、考えぬいたように
「自分で考える」と言う事態を正確に把握する

自分自身がテキストなのだから

満たされぬ心が運動を自ら惹き起こし絶えず変化する
行きどまりもなく変えつづけようと

「気がつく」このことにあると、同感です。

P.S.
肖像画「高島野十朗」
好きな画家のひとりです
この画家を再評価し探し続けた方は
福岡県立美術館の学芸員でもあって今も同美術館に
常設コーナーが在ります
また館内の書籍販売のなかにも
同氏の評伝やら著作やらがあり興味が尽きません

下記が野十郎メールマガジンです
ご参考までに
https://fukuoka-kenbi.jp/reading/issue/yajyuro/
返信する
Unknown (気づいて身につく)
2021-04-28 12:24:26
安全運転をしたければ
絶対に保険を掛けてはならない。
保険を掛けていては
安全運転は決して身につかない。
保険を掛けて得られるものは
安全ではなく安心である。
安心の安定同位体、それこそが慢心。

ZIP
返信する
Unknown (TOITA)
2021-04-29 07:23:56
学生が失敗するのが見えていてあえて、それを経験させ、学生が失敗に気づいた所で、手を差し伸べる所迄で完結するのですが、4年間で行える場合と、その後になって本人が気づく場合では、対応が出来ていません。ワクチンについては、政府が色々アナウスしていますが、その度に予定が先になりますので、年内には、受けられるのでは、ないか?位に思っています。
返信する
Unknown (桂蓮)
2021-04-29 12:57:34
榮久さん

やはり高島野十郎さんの絵はご存知でしたね。
添付されたマガジンにはリンクしました。
私が検索したのとは違って
もっと詳しいですね。

この肖像画は
目つきが鋭くて
剣のように刺す、ものがあります。
眼を覚ませる、感じだから
採用しています。

妥協しないような眼つきのような感じもしますね。

そこまで描けるようになった背景には
想像を絶する苦悩があったかも、と思ったりします。


でも人によっては
曖昧さや甘さのような画風が好きな人もいるだろうから
彼らには好まれないかも。
返信する
Unknown (桂蓮)
2021-04-29 13:06:01
ZIPさんが何故に保険のことを持ち出したか、
始めはあれ?と思いましたが、
後になって、『気づいてやっと身に付く』とのことの
最適な例かなと『気づき』ました。
分かりやすく、記事と直結しますね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2021-04-29 13:30:00
トイタ先生
日本のワクチン状況が遅いのは
恐らく、薬品の承認問題が遅いからでしょうね。
或いは、官僚職の人たちの推進力不足か、
去年危機感が無かったからか、
防げると思って甘くみたからかもしれませんね。


今日は、バイデン大統領の演説が報道されました。
トランプの時は、必ず誰かを非難して、
人や国を悪者にし、
自分の自慢話ばかりでしたが、
バイデンは国民と子供の未来、現状の話をしています。
バイデンはニュースで話題になることはしないし、
今までの大統領のように
国民の幸せを優先させる方針であることが
聞いて分かるような感じです。
キャンペーンの時より
遥かに強く、指導力があって、
まず、謙虚だし、
全てにおいて、トランプと正反対の人柄、政策をやっています。
私はバイデンさんが弱い人だと思ってましたが、
彼の実績から判断して
私が間違っていたと思い知らせましたね。

日本の首相はアピール感薄いですね。
誰かが用意したペーパーが無いと言えない、言わない感じの政治家かなと。
返信する
Unknown (瓊花)
2021-04-29 23:30:46
桂蓮さん、こんばんは。
昨日から少し熱がありまして、今やっとネットサーフィンができています。

記事に取り上げていただいて本当に驚きました。でも、桂蓮さんが高島野十郎を見過ごされることはない、そうとも思っていました。
ありがとうございます。まるで便箋と封筒でお手紙をいただいたようです。
ひと昔前は心を込めて手紙を書いていたこと、私も思い出しました。

ご住所がわかれば、高島野十郎の絵葉書を桂蓮さんに送りたいとも思っています。これはいつかの楽しみにしておきますね。

私のハンドルネームの瓊花は、鑑真和上が開祖の唐招提寺に咲く、白い大きな紫陽花みたいな花の名前です。
隋の煬帝が門外不出とした花で、鑑真和上の故郷の中国揚州から贈られました。
私も昨日、雨の中、唐招提寺で瓊花を見てきました。
私の目指す姿がそこにある、それを直に見れ、幸せだと思いました。届かなくても、それに出逢えたことが、幸せだと。

桂蓮さんなら、わかってくださるかと。
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