Zen禅‐in USA

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

Light and Shadow of translation翻訳の明と影『南直哉師との面談其の④』

2018年12月04日 20時35分10秒 | 翻訳

結局、私は南師から翻訳の承諾を得たが、

当時の1年半前の私には彼の本を訳せる能力が無かった。

Eventually, I obtained master Minami’s consent for his book translation

but my ability of translate was not ready yet

at that time a year and half ago.

だが、その面談によって

私はやるべきことが設定でき、

翻訳を起動させるタイマーをオンにできた。

But I could set what I have to do from the meeting with Minami Jikisai

and the timer was turned on to activate translate work.

 

 

私が翻訳について決めている方針は一つだけだ。

There is only one policy I decided to do for a translation.

訳した文から翻訳者の存在を限りなくゼロにする、それだけだ。

It is to lose no meaning in the translated sentences.

原作者の視た世界を、

ただ言葉を変えてそのまま読者に見せる、それだけのことだ。

The world seen by the original author,

just show it to readers the way as it has been,

with only the language changed, that is for all.

 

そのためには、作者が言おうとする世界を、

ことばを超えて視られる内観が必要になる。

To be such, an insight that can go beyond words is needed

to be able to view the world which the author tries to paint.

英語で原作者の世界を写真のように写り、

他の言葉でプリントするだけのことである。

It is like picturing the original author’s world in English and just print out it.

 

 

偉大な画家は自分が視たビジョンを筆と絵の具を使って描ける。

A great painter can depict one’s vision by using brushes and colors.

その画家によって描かれた絵の空間には

筆や絵の具は道具としての役柄を完璧にこなしている。

In the painted space,

brushes and colors perfectly master their roles as a tool.

たが、普通の画家は

筆と絵の具を使える技術だけを見せびらかすため、

手段である道具が目的になってしまう。

However, an average painter just shows off brushing skills and tools,

so the utensils themselves become the purpose.

 

 

通訳者に求められる素質の一つに

画家が駆使する筆や絵の具の使い方のように、

ことばをどう使うかの見方が根本的に問われる。

One of the required qualities for a translator,

just like a painter commends how to use brushes and colors,

is perspective of how words are fundamentally being questioned.

一枚の絵に筆や絵の具の使い方は陰になるべきで、

技術が表で圧すると絵の世界に入れなくなり逆に邪魔になる。

Using method of brushes and colors for a painting,

it should be shadow but if a skill dominates at front,

conversely it obstructs insight or view of the painting.

 

 

翻訳者は言葉の表現に対して限界を持っていてはいけない。

Translator should not have boundary against expression of words.

99%の正確性は許せない、

常に100%正しくいなければならない。

99% accuracy should not be forgiven,

always must be 100% correct.

私はその100%に未だに達していない。

Yet, I have not reached that 100%.

だが、限りなく100%になるための挑戦を

毎日、毎時間、毎秒やっている。

Even though, I have been challenging

infinitely to be 100%

every day, every hour, every second.

 

 

翻訳の承諾を得てから1年半が過ぎた。

A year and half has passed,

since I got consent for translation of his books.

そのためにまず、

私は私の脳内で行われる日本語から英語を通訳する過程を

無くせることを最初の目標にした。

To do that, as the first stage to clear was

removing interpretive process in my brain from Japanese to English.

 

ことばで表れている世界、

そのままを他のことばを持ち要って表す、

そのためには頭だけでことばを考えては邪魔になる。

The world represented by one language,

then expressed in another through mere brainy work,

it will end up an obstacle.

ことばを一々計算し、

事々分析しては道に迷うことになる。

Calculating words one after another and

analyzing one by one,

is a way to quickly get lost while still on the path.

 

私がこのシリーズを書こうと決心した理由は、

その脳内通訳通路がようやく消えて見えなくなり、

ことば自体が意識に昇らなくなったからだった。

The reason why I decided to write this series was

to overlook that the path of translating process in my brain was

finally gone from my sight and

the words no longer come to my conscious.

頭の中で通訳しなくなった状態にようやく辿りついたのである。

I finally reached a state where no interpreting functioned in my brain.

これが、私が踏むべき段階の2段階であった。

That was the second stage I had to clear.

 

最初の段階は南師からの翻訳承諾を得る、

それから翻訳者としての能力を定める。

The first stage was obtaining consent for translating

from master Minami Jikisai,

and then determining my ability as the translator.

 

次の段階はことばを他のことばに替えるだけだ。

The next stage will be stitching one language to another.




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Why is it must be me?( English version of③)

2018年11月21日 19時01分35秒 | 翻訳

Why am I willing to translate the master Minami Jikisai’s books?

Why would I be an appropriate translator for his books?

These two questions capture my present circumstance

also my past and future.

 

If I divide my lifetime into three terms that I have lived so far,

At South Korea as the first one-third,

The midterm of one-third is at Japan,

The remaining one-third is currently in US

and here I am trying to undergo as my progress.

 

At the time when I got throughout those two terms,

I have cleared all the tasks that I imposed on myself.

Also, I was able to satisfy my own self

with academic background, financial capability, career.

There is no unfinished job left.

 

Since I imposed tasks on myself that can be achieved by effort,

I steadily went through all the stages to clear the tasks

proceeding cautiously, taking enough time to complete it properly.

 

However, when I have climbed up to the achievement

which was set by myself as a goal.

At the top I was able to look over the way I have walked,

and I saw completing task was not the final destination.

I found that the way I have been through linked to another road

which should take to path.

 

I have used up my two-third life terms

which was given just for satisfying myself personally,

but it is merely an act of satisfying hunger.  

As hunger or thirst satisfied as it is fulfilled,

there would be demanding if supply required,

so that the causality gets done.

 

When self-supply was required in my life,

I settled with the self-demanding

so that the cause and result was done.   

 

The emerging problem 

was no directivity in my mind

when after causality has solved and settled.

As the way an effort loses basis without purpose,

it gets sorted out naturally,

also my mind without destination was

unable to find reason to do effort.

 

At that time, unexpectedly

I encountered with Minami Jikisaiwho is as a master

and the way of living his life.

 

And it made me define the direction of my effort

as it should be, over rest of my life.

 

If so, why not others but Minami Jikisai?

My answer for this question is,

there is no other proper linguistic expressions,

but only I can say this:

'I did not decide particular reason to be answered'

 

There is no theorized reason but surely there was an intuition.

The intuition was grounded on following facts that

expressed by the words he uses.

 

The giving off words from him are alive.

 

His linguistic ability can bring back died words to alive.

 

His persuasiveness can break down stereotypes

and also includes capability of being excused of it.

 

His using words have an ability to grind something hard.

 

His words are as a tool to pursue and he is using the tool fairly.

 

These intuitions inspired by him that I am going to prove,

maybe it must be my next task that should be done.

 

Why should the translator of his books be me?

For this question I have not determined an answer.

 

But I have an assurance that

I would not let his living words die with English transforming.

Even though it is also just a gut….

 

 

 

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なぜ、私でなければならないのか『南直哉師との面談其の③』

2018年11月19日 05時17分34秒 | 翻訳

なぜ、私は南直哉師の本を翻訳しようとしているのか。

なぜ、南直哉師の本を翻訳する人は私でなければならないのか。

これら二つの問いは私の現在の在り方であり、

過去と未来でもある。

 

私の今までの生きてきた人生を3で割ってみると

韓国での前期三分の一

日本での中期三分の一

残りの後期三分の一は

今アメリカでくぐり抜けている過程経過で

言い表すことができる。

 

私は前期、中期に亘って自ら課した課題を全部クリアした。

学歴、経済力、経歴において

私の自己を満足させることができた。

心残りが無い。

 

努力によって達成できる課題を自らに課し、

時間をかけて踏むべき段階を着実に踏んできた。

ところが、自ら設定した課題の頂きに上り詰め、

歩んできた道を見渡した時に見えたのは

課題の達成は目的地でなく、

他の歩むべき道への道なりの経路であるとのことであった。

 

与えてもらった我人生の三分の二を

ただ私個人の自己満足のために使ったのだが、

それはあくまでも飢餓を満たす行為に過ぎない。

 

飢餓や喉の渇きは充足させれば、

需要に応じて供給が成され、因果が済む。

私の人生に生じた自らの需要も

自らの供給で因果関係が成立したから、決着させた。

 

問題は因果が済み、

決着をつけた後に現れた方向性の無い私の心であった。

目的の無い努力は根幹を失い、

自然に淘汰していくように、

行先を失った私の心は

努力する理由を見つけることができなかったのであった。

 

そんな時に、ばったり南直哉師の生き方に出会い、

私の残り人生をかけて成すべき努力の方向性が定まったのである。

 

 

では、なぜ他の人でなく南直哉師なのかの

問いへの私の答えだが、

特に決めた理由は無いとしか言いようが無い。

 

理屈な理由は無いのだが、直感は確かにあった。

その直感は彼が使うことばで表れた以下の事実を根拠として成り立つ。

 

彼の発することばは生きている。

 

彼の言語力は死んだことばを甦らすことができる。

 

彼の説得力は固定観念を打ち砕ける実行力を合わせ持つ。

 

彼の使うことばは硬い何かを砕く力がある。

 

彼のことばは追及するための道具であり、

その道具を正しく使っている。


これらの私の彼への直感を証明していくことが

次の成すべき課題かもしれない。

 

なぜ、彼の本を翻訳する人が私でなければならないのか、

この問いも私に決まった答えが無い。

だが、彼の生きていることばを

英語で死なせることはしないとの確信はある。

それも直感に過ぎないが….




 

補足

 これらのシリーズを読んで下さった方々へ

 宣言した記事の英訳のアップですが、

 訳わからず、中々手につかないでいます。

 私はこのシリーズを書くことによって、

 他の道への折り返し、その分岐点にしようとしています。

 なので、私にとっては生き方がかかる記事なのです。

 英訳はこの激流を乗り終えたら

 自然に書けるようになるかも....



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南直哉師との面談其の②

2018年11月12日 20時50分55秒 | 翻訳

私がどう挨拶していいか分からなくて困っていたら、南師が

「まあま、挨拶はいいから、そこにおかけになってください」と

軽快な口調でロビーのソファを指してくださった。

その指示に従って低いテーブルを挟み南師の真向いのソファに座った。

 

まず、南師の初印象からは清い清潔感を感じた。

その清潔感は内面から湧き出ているようで、

長年の習慣や生活様式が蓄積されて、それが外に表れているようだった。

キメ細かい肌には動物性の油気が全くなく、

全体の雰囲気は言い難い静かな清楚感があった。

だが、意外にもあの細長い体から出た声は大きく明瞭で、

澄んでいたので驚いてしまった。

 

私は何を話し出せばいいのか全く見当がつかなかったのもあり、

軽く目礼をしてから黙って勧められたお茶を飲んだ。

私は大人になってから人との初対面でも緊張したことが無かったのだが、

あの時は空気が張り詰められたようで、

空気が重たくなり、また迫ってくる感じがした。

これが緊張するという状態なのかと初めて肌で実感した。

 

私が話せなくて困っていると察したのか、

南師がお茶の器を皿に戻しながら、

最初に私の名前をきいてきた。

続いて、どこから来たのか、

日本にどのように来たのか、

いつ日本に着いたのかなど簡単に聞かれた。

 

その他にも私と言う人間を取り巻く

外部的な情報に関する質問が暫く続いてた時、

この面談は私を具体的に知るための南師からの面接だと気がついた。

 

それらの質問を通して

南師はおそらく目の前にいる人物が、

坐禅指導を受けようとしている者、

面談を申請した者、

翻訳をしたいと申し出た者、

英訳付きの坐禅ブログを書いている蓮の花と名乗った者、

恐山ブログで外れ者とか蓮の花でコメントした者、

それらの格人物が目の前にいる人物と一致させるなど

人を分かっていく過程を丁寧にしていると思えた。

また、人の存在を大事にしてきたことが身に定着しているようにも見えた。

 

質問に答えている間、

私は『私という自己』が

『あなたという他己』のありさまに直面しているような

一つの自己がもう一方の自己と

真っ正面で対面している瞬間が目の前に停止しているような

時間の流れが研ぎ澄まされいて

瞬間だけが一時停止しているような感覚が一貫してあったのだが、

そのような瞬間感覚が存在する自体、

考えたことも想像すらしなかったので凄くショックを受けた。

 

南師は他人の自己を自分の自己とほぼ同格に扱っているのかなと

思えるくらい自他に対して丁寧であった。

 

 

思い返せば、塾をやっていた15年間、

私は自分という自己を無くすことを何よりも優先させていた。

生徒や講師のためだけにいる空気のような存在になりたかった。

私自身の個人的な欲望や目標などを忘れ、

ただ他人のためだけにいたかった。

それが日常になってたから他人に自分を説明する機会が滅多に無かった。

 

だからか、私の自己に関する質問に答える時間が非常に長く感じられ、

面倒にもなり飽きてきて、いつ終わるかなと思いながら

私の自分説明に疲れてしまったのを隠して

平然を取り澄ましていたら、

突然、「あなたの坐禅の基本はなんだ?」と咄嗟に

核心を突く質問になった時にはっとなって

疲れていた脳がぱっと覚めた。

 

「え?坐禅の基本姿勢みたいなことですか?」と聞き直したら、

「まあ、あなたが坐禅をどうみているか、どのように考えているかといった基本的な見方かね」

と補足を付け加えて下さった。

 

その質問に私がどう答えたか、具体的に覚えていない。

この面談の続編を書くために自分がどう答えたかを思い出そうと

必死になって記憶を辿ってみたのがどうしても思い出せなかった。

どう言ったかは覚えていないが、

脳科学の本から坐禅を知って、坐禅を実行したら、

心理学では得られなかった『自らを癒せた』

『考えの苦しみから救われた』

などの体験をしたから、

坐禅を知らない人に知ってもらいたいのもあって

もっと知ろうと自分なりに研究していて、

それが私の基本であり動機でもあったと

要点だけ伝えた気がする。

 

自分がどのように言ったのかは具体的に覚えていないのに

今でもはっきり覚えているのは、

南師特々の『聞き方』と『言い方』である。

何かを聞く時は慎重極まるが

聴いてからは言っていたことの要点を的確に刺す、

また、問うていることに無駄が一切なく、

その問いへの言い方は鋭くかつ明瞭で

まるで完璧に研ぎ切れた剣で

ものをきっぱり斬る切れの良さがあった。

 

南師のシンプルで尚且つ機敏な会話の誘導にただ従っていると

鈍かった頭がぱっと覚醒するような

極めて明瞭な何かに直面させられるような、

なんとも言い表せない緊迫感と迫力が私に迫ってくる感じがした。

その活き活きした感覚は未だに体感として鮮明に残っている。

 

「あなたは私の本を翻訳したいと言っているが、なぜ私の本なの?でなぜ私なんだ?」

と聞かれた時は急所を突然突かれたような、驚きで一瞬息が止まった。

そのような質問をされるとは予想さえできなかったので

突然頭をガーンと叩かれた感じになった。

 

だが、予想外のピンチになると

正直になるカードしか出せないので、

平然な振りをしながら、

『翻訳しようと決心した経緯』から

『なりゆきの到達点』や

『他の人がいくら正しくても私との関連が無い』

『私が訳したいのは南直哉師の本しかない』と

できる限り短く要点だけを言った。

 

その面談時のことを今になって

南師の立場に置き換えて考え直してみると

突然ある人がポツンとどっかから現れ、

しかもその人は翻訳をしたいと言い出してきて、

しまいにはアメリカから日本まで遥々きた、

ならば、その人が一体全体どんな人なのか知りたくなるだろうし、

知るためには分からないことを聞く、

ただそれだけのことだったのではなかったかなと思う。


だから南師にとっては、

私が質問に対して既に考え尽くしたと何らかの見做しがあっただろうから、

自分の質問が核心を突くとか、

的を射るとかは眼中に全くない

『知らないことを知る手段』にすぎなかったかも知れない。


だが、私は南師との面談では

おそらく私の言語能力を中心的に聞かれるのかと思って

英語通訳能力に関する予想質問項目ばかり用意していた。

しかし、私の質問予想解答案は見事に外れたのであった。

 

私の予想質問攻略編は外れたのだが、

他の思想系や哲学書に関する私の解釈の仕方を聞かれた時は、

運よく以前から考えていたことをきかれたので、

思ったことをすんなりと言えた。

 

また、どうやって坐禅をアメリカで紹介しようとしているかなどのプランも聞かれ、

10年後の見込みとして、今のIT社会は因果的に人の断絶を伴う、

よって次世代は心理学の治癒法や宗教の教えも効力を無くす時が来る、

その時に坐禅の需要が必然的に生じる、

なので、今その下準備として坐禅関連の翻訳を始めたい答えた。


其の三へ続く....



補足:其の二を読んで下さった方々へ

まだ、面談の一部しか書いてないのですが、記事が長くなってしまったので、続きは次回にします。

次回はなぜ、私が今になって面談を書くと決心したかを書きたいのですが、そこまでいけるかどうか

実際書いてみないと見えてきませんので、何とも言えませんね。

英訳はシリーズを進めながらまとめて投稿する予定でいます。

このシリーズで南師の本を翻訳することになった因果関係を

公で明らかにしたいと思って書き始めたのですが、

書きだしてからこの面談編をもっと早めに書くべきだったと気づきました。


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南直哉師との面談其の①

2018年11月05日 06時23分04秒 | 翻訳

①あの面談からもう一年以上が過ぎた。

去年の夏、青森県むつ市恐山にある菩提寺で

南直哉師が指導する坐禅修行を受けるため日本に行った。


その坐禅修行を受けるようになったきっかけは

ずっと前の2年前から始まっていた。

否、もしかしたら私が坐禅を始めた10年前から

既にその縁起が発生していたかも知れない。


ある日、ひょっとしたきっかけに

YouTubeから南直哉師のインタビュー番組を見つけた。

当時は坐禅関連のサイトを検索していたからか

類似のサイトが自動的にあがってきたようであった。


始めは普通に昔の禅師の教えを延々と解説するくらいだろうと思って、

流したまま他の雑誌を読んでいたが、

話が「私はなぜ他人ではないのか」 になって、

次第には

「本当の自分というものが分からないから探すわけです。

もしそうだとすれば、会ったことのない人を探すっていうことは

どだい無理ですからね」

「これは、ものの考え方が

なにか基本的に違うんじゃないかと思ったんですね」

「それからもう一つは、

自分を探そうとして

本当の自分に出会うということになれば、

その『本当の自分』が本当に『本当の自分』かどうかを

判断するのは誰なのか?という話になりますよね」

になった時は、

あれ?これは私がずっと知りたかったことなんだけど?

と驚きがあった。

 

南直哉師の恐山関連ブログ記事のURL

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/0b1cb7456a1a2b1924eaed94846498c2

『メディアの言葉』

 

それから、ビデオを最初から戻して

注意を払いながら再度観始めた。

その日は、連続して同じビデオを繰り返し観て、

私が何を掴んだのかを頭で整理した。

それから、南師関連の他のサイトも全部調べ始めた。


その中で分かったのは

この南という僧侶は今まで見てきた僧侶と全く違うということだった。

この人は自分に初めから何かの疑問があって苦労してある答えを得て、

それを言葉で表していると思った。

話のトーンも自然で

どこか深いところから湧き出るような印象を受けた。

また他のビデオからも一貫した態度が見えたから

この人は全てどこでも自分で勝負している人のように見えた。


その日、私はこの人の本を訳すと決めたのであった。


その決心をしてから一年後、

坐禅修行の前に事前に面談を申請し、

本を訳したいので相談したいことも伝えた。

申請した面談が受理された時は、

未来への期待と翻訳を断られるかもとの心配で

複雑極まる感じだった。


日本に行く支度をしている間は

会って何をどう話したらいいかとか、

私の言語能力をテストされるだろうかとか、

期待や希望よりは心配や不安のほうが多かった。


日本に行く飛行機の中と

青森行きの新幹線の中でも

持参していた彼が書いた本を読むことができず、

ずっと考えてしまった。


ここまでに至った経緯、

私が坐禅を始めた切っ掛け、

英語の独学中挫折した時でも諦めなかったこと、

弁護士のアメリカ人夫との結婚、

アメリカへの移住、

彼のサイトを見つけた偶然、

彼との関りを持つために始めた日本発信のブログ、


それらすべてが同じらせん状に絡まってクルクル回り、

その中心に向かって私が今、行こうとしているその事実が

一秒一秒近づいてくる切迫した緊張があった。

菩提寺までの道のりは長かったが、

その間私は持っていた本を1ページも読めなかった。


やっとロビーに着いて名前を言ったら、

デスク案内の方が私の名前を憶えていたので驚いたが、

面談の時間を知らされた時はもっと驚いた。

面談時間が予め決められてあったからだった。


予約した部屋の前に何故か、

桂蓮の名前だけ書いてあった。

アップルバウムという苗字は長くて入りきらなかったようであった。

荷物を簡単に片付けて、

面談約束の時間より早くロビーに降りて待っていたら、

背の高い、ほっそりした感じの南師が現れた。


其の二へ続く...


 

注:この面談は書きたいことが済むまでシリーズとして続行します。

  英訳はできる次第に別枠で英語版としてアップする予定です。

 

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