Kita Kagaya, Suminoe Ward, Osaka City
さてさて、ワタクシは住之江区北加賀屋の町をカメラを首から下げながら、ワクワクした気持ちで散策していました。
「ザ・昭和」と言いたくなるような路地がありました。このような場所がワタクシの原風景。
ワタクシはこういう感じの場所で生まれ育ったんですよ。
この建物は「千鳥文化」といい、昭和30年代に建てられた文化住宅をリノベーションしたものなんです。
ところで、「文化住宅」という言葉をワタクシは普通に使っていましたが、これって大阪(関西)独特の言葉らしいですね。
高度経済成長期、大阪では多くの労働者が生活するための住宅不足に対応するため、
大量に供給された2階建ての集合住宅のことを文化住宅と呼んだことでこの言葉が定着しました。
それまで、長屋や下宿屋などの集合住宅では風呂無し、台所とトイレは共用となっているのが一般的でした。
それを、各戸に台所とトイレを設けたものが、長屋などと比べて「文化的な生活」ということで、文化住宅の名が付いたとされています。
思わず憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という文章を思い出しますわ。
風呂無しという点に関しては、当時は給湯設備が高価であったことや、人口密集地には必ず銭湯があったことで、
特に住居選びのポイントとしてはそれほど重要視されていなかったようです。
ワタクシが育った大阪市生野区も、自宅から徒歩10分の範囲内に4軒の銭湯がありました。
昭和30年代に作られた文化住宅の多くは老朽化によって解体されていきました。
特に大阪市内では文化住宅を取り壊して、マンションを建てた場所が多いです。
でも、こうしてリノベーションされた文化住宅も時々見かけることがありますね。
こちらは古い長屋がカフェ、美容室、服屋などに変わっていました。こういうのが「昭和レトロ」になるのでしょうか。
自転車のホイールを大量に使ったフェンスがありました。
「みんなののうえん」という地域住民の農園を囲うフェンスでした。これもちょっとオシャレですね。
使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2
私は下町の路地裏で育ちました。そこは「向こう三件両隣り」という言葉がふさわしい、雑多ですが人情の厚い場所でした。
プライバシーだとか個人情報なんて言葉がない時代でしたので、近所の家庭内の状況などは筒抜けでした。
お節介な人や詮索好きな人も多かったですが、面倒見のいい人も多かったんですよ。懐かしい思い出です。
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さてさて、ワタクシは住之江区北加賀屋の町をカメラを首から下げながら、ワクワクした気持ちで散策していました。
「ザ・昭和」と言いたくなるような路地がありました。このような場所がワタクシの原風景。
ワタクシはこういう感じの場所で生まれ育ったんですよ。
この建物は「千鳥文化」といい、昭和30年代に建てられた文化住宅をリノベーションしたものなんです。
ところで、「文化住宅」という言葉をワタクシは普通に使っていましたが、これって大阪(関西)独特の言葉らしいですね。
高度経済成長期、大阪では多くの労働者が生活するための住宅不足に対応するため、
大量に供給された2階建ての集合住宅のことを文化住宅と呼んだことでこの言葉が定着しました。
それまで、長屋や下宿屋などの集合住宅では風呂無し、台所とトイレは共用となっているのが一般的でした。
それを、各戸に台所とトイレを設けたものが、長屋などと比べて「文化的な生活」ということで、文化住宅の名が付いたとされています。
思わず憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という文章を思い出しますわ。
風呂無しという点に関しては、当時は給湯設備が高価であったことや、人口密集地には必ず銭湯があったことで、
特に住居選びのポイントとしてはそれほど重要視されていなかったようです。
ワタクシが育った大阪市生野区も、自宅から徒歩10分の範囲内に4軒の銭湯がありました。
昭和30年代に作られた文化住宅の多くは老朽化によって解体されていきました。
特に大阪市内では文化住宅を取り壊して、マンションを建てた場所が多いです。
でも、こうしてリノベーションされた文化住宅も時々見かけることがありますね。
こちらは古い長屋がカフェ、美容室、服屋などに変わっていました。こういうのが「昭和レトロ」になるのでしょうか。
自転車のホイールを大量に使ったフェンスがありました。
「みんなののうえん」という地域住民の農園を囲うフェンスでした。これもちょっとオシャレですね。
使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2
私は下町の路地裏で育ちました。そこは「向こう三件両隣り」という言葉がふさわしい、雑多ですが人情の厚い場所でした。
プライバシーだとか個人情報なんて言葉がない時代でしたので、近所の家庭内の状況などは筒抜けでした。
お節介な人や詮索好きな人も多かったですが、面倒見のいい人も多かったんですよ。懐かしい思い出です。
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埼玉も夜は風が強く寒かったです。
晴れたのは午後の夕方前だけで小雨からの曇り。
長袖の制服で行って正解でした。
それでも駐車場まで腕が寒くて寒くて震えました。
ポチ⭐︎
なるほど~
今はリノベブームだし
昭和レトロの場所は、逆に絵になりそうです。
☆
なるほど!納得です。
私も小学校低学年の頃は、銭湯に行っていました。
父の会社の社宅には、その頃お風呂はありませんでした。
今でも銭湯が好きで、たまに行ってました。
最近は、銭湯も減って寂しいですね。
私は子供の頃五右衛門風呂を経験してます。よっちんさんは経験ないでしょ?笑笑
初めて見ました。
とてもお洒落に見えますね。
そういう意味だったんですね~
知らなかった~
☆彡
アングルが良いのですね~
といっても田舎育ちですから子供の時は家風呂です。
自転車のホイールのフェンス、面白~い♪
隣との距離が近い大阪のイメージとして、文化住宅というのがありましたよね。バイト先の社員さんの家がそれで、よく遊びに行きました。壁も確かに薄い感じでしたが、でも行けば独特の雰囲気があって楽しかったです。
応援ぽち。
とっても素敵(灬ºωº灬)
有線には有線の
良さがあるんですよねぇ。
ワイヤレスは充電が切れた時が
ただの物とかして
悲惨になります(笑)
良いですねぇ。
1枚目、自転車のテールの赤にピントに
しちゃうかな(^^ゞ
自転車の再利用は拍手👏
⭐︎!
田舎育ちなので、こういう光景は
あまり目にしたことがないです
我が家の周りは、田んぼと山と川でした😅
応援です☆
”文化住宅”…!
聞いたことがあるような…
そういうことで文化住宅と
名付けられたのですね。
それにしても「千鳥文化」へ
入る勇気はないです💦
☆
農園の屏が考えましたね。
そのような意味なのですね
こっちでは何という表現になるのかな。。と
考えてみましたが出てきませんでした
こんにちは
いつもありがとうございます
PC使えるようになりました
またよろしくお願いします
昭和レトロな町並み、懐かしさを感じながら散策するのもいいですね!
分化住宅、聞いたことはありますが、一般的に使うことは今まで無かったです。
ホイールが並んだ門?もアートの一種なんですかね♪
みんなのうえん、可愛いネーミングがついてますね
凸
子供の頃、毎日このような所で遊んでました。銭湯も歩いて3分・・内風呂がなかったので一日おきに行きました。
向こう三軒・、昭和は格差も少なく、みんな優しかったです。
あのような時代はもうこないでしょう。
何時も「良い時代に育った!」と思ってます。
自転車はあるけれど、今は閉店されている?
THE昭和ですね。
「文化住宅」という言葉、聞いた事あるようなないような・・・(;´▽`lllA``
自転車のホイールのフェンス、いいね。
こんな使い方があったのね。
あとで息子に見せます♪
ぽち
あの頃の外壁はモルタルでしたね。
もっと前はトタン。
銭湯も無くなったし近所付き合いもなくなりました。
平屋と長屋の区別もありました。
改めてそう思わせていただきました。
応援ポチです。 たつみ^_^
文化住宅、名前は聞いたことがあります。
昭和レトロの街並みですね。
私が育った代官山も昔はレトロな街でしたが
今はタワマンが建ったり様変わりしてしまいました。
2階建ての文化住宅を
ハーモニカ長屋と言ってました。
ググって見ました。
といっても長屋のようなのがあったようです
田舎でしたから・・・
銭湯はなかったです
いろんな昭和ですね~
フェンスの役目しながら面白い作品です
所変われば...ですね😅
https://ameblo.jp/tomo-2013/
です。
どのお写真も素晴らしくて、いいお写真でした。
目の付け所が違い驚きでした。
夏休みに、大阪の親戚が文化住宅に
住んでて、何度かお泊りした事があります。
いとこ同士で遊んでたら、うるさい!って
隣の家から声がしたことが記憶に残ってます。
壁が薄かったのかな?(笑)
壊さずに、リノベーションされて
使われてるのもいいですね♪
凸
昭和レトロの街並み懐かしい雰囲気ですね
子供の頃はどの家も開けっ放しで
鍵などかけたことがなかった(鍵もなかった)ですが
今は田舎でも鍵をしないと不安です
自転車ホイールのフェンスがおしゃれですね!
こちらの方は文化住宅とは言わないですよ~
未だ未だ若い頃に少し堺に住んでいましたが、
隣の家と隣の家が数センチしか離れていないのはビックリしました。ポチ
大阪に限らず和歌山でも文化住宅って言いました。
昭和30年代に父が建てた家はいわゆる
文化住宅でした。
狭いながらも内風呂がありすべてが整ってました。