goo blog サービス終了のお知らせ 

よっちんのフォト日記

旅先や日常で感じたことを
写真と文章で綴ってみたい。
そう思ってブログを始めてみました。

素晴らしき伊那谷-長野県伊那市:高遠城址公園

2025年05月08日 | 大阪(大阪市内)
Takato Castle Ruins, Ina City, Nagano Pref.

さてさて、念願だった「高遠城址公園」のタカトオコヒガンザクラを愛でることが出来て、
ワタクシは素晴らしい時間を過ごしていました


西に聳える中央アルプス(木曽山脈)。この山々の存在が、高遠の桜を一層素晴らしいものにしてくれています


ここ高遠は伊那谷の一番北に位置しています。伊那谷とは、長野県南部、天竜川に沿って南北に伸びる盆地のことです。
伊那盆地や伊那平とも呼ばれます


長野県には県民の誰もが歌うことが出来る『信濃の国』という県歌があるのですが、
その中に「松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地」と言う歌詞があります。
これは「松本平 伊那平 佐久平 善光寺平の四つの肥沃な平地」という意味になります


山が多く平地の少ない信州ですが、伊那平は肥沃な平地が開けており、古くから米作りが盛んでした。
野菜や果物の生産も多く、同じ信州南部であっても平地が少なく急峻な谷間が続く木曽谷とは雰囲気がかなり違います


伊那谷には独自の食文化があります。「イナゴの佃煮」「蜂の子」「ざざ虫」などの昆虫食は伊那谷ならではです。
ちなみに「ざざ虫」というのは清流に住むカワゲラ、トビケラなど水生昆虫の幼虫のことで、で佃煮や揚げ物などにして食されます。
海のない長野県では、貴重なタンパク質の供給源として古くから「昆虫食」が暮らしの中に根付いていました。
中でも伊那谷は、今でも昆虫食文化が色濃く残る地域として知られているんです


信州には上高地、志賀高原、白馬、蓼科、安曇野、軽井沢などの名だたる観光地が数多くあります。
その信州において、伊那谷というのは地味なエリアかと思います


しかし、ここ数年、ワタクシは伊那谷の素朴な魅力、観光地化されすぎていない雰囲気に心を惹かれています。
とりわけワタクシには東に南アルプス、西に中央アルプスが聳える山岳風景がこの上なく素晴らしく思えるのです


そんな伊那谷には、ここ高遠城址公園をはじめ、素晴らしい桜の数々があることも今回の旅でわかりました。
ワタクシ、今まで以上に伊那谷を好きになったのでした

使用したカメラ:2、3、8枚目はFUJIFILM X-Pro2、他はFUJIFILM X-T30


最近は山を見るたびに、「あとどれだけ山に登ることが出来るんだろう」ということを思います。
体力、脚力の衰えはトレーニングなどである程度カバーできるのですが、困ったのが「恐怖心」なんです。
若い時は平気にスイスイ行くことが出来た岩場、鎖場などで怖さを感じるようになったんですよ。
「怖さ」を少しでも克服するために、普段から出来るだけ山に登る機会を増やしておきたいです。



ブログランキングに登録しています。こちらをクリックしたいただくと嬉しい限りです。

にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へにほんブログ村

よっちんのフォト日記 - にほんブログ村


若者の町へ-大阪市中央区:アメリカ村

2025年03月26日 | 大阪(大阪市内)
America Village, Chuo Ward, Osaka City

さてさて、道頓堀から御堂筋を越えてさらに西へと向かいます。
すると、今までとはちょっと雰囲気が変わるオシャレなエリアが広がっているんですよ


心斎橋、道頓堀から御堂筋を渡った西側一帯は、1970年代後半ごろから「アメリカ村」と呼ばれるようになりました


もともとこのエリアは、企業の倉庫や駐車場、オフィスビルなどが並ぶ静かな街だったのですが、
1970年代に空いた倉庫や駐車場で、アメリカ西海岸やハワイなどから輸入した、
アメリカンカジュアルの服を販売し始めたことから「アメリカ村」と呼ばれるようになりました


古着やジーンズ、中古レコード、雑貨などを販売するお店が次々とオープンし、近隣に大規模なショッピング施設も出来たことから、
若者の流行の発信地として発展を遂げてきました。今では爺さんになったワタクシですが、
ワタクシが高校生から大学生の頃は服や靴、CDなどを買いにきたものなんです


当初は大阪の若者達が集まる場所だったのですが、今では観光客がたくさん集まる人気の観光スポットになりました。
若い人の間では「アメリカ村」というよりも、「アメ村」の方が一般的かもしれません


ここが通称「三角公園」と呼ばれる公園で、正式には御津公園というらしいのですが、誰もが三角公園と呼びます。
この公園はアメ村での待ち合わせ場所であったり、食べ歩きをする人達が集まっていたりして、終日賑わってますわ


そろそろなんば駅の方に戻ろうかと、アメリカ村を南に向かって歩いて行くと、ちょっといかがわしいお店が集まっていました。
「起立!礼!着エロ!」「Hな部活コスプレ」などという文字に興味を惹かれます。
「こんな昼間から入店するヤツがおるんかいな?」と思っていたら、ちゃんと入店していくオジサンがいました。
「需要あるところに供給あり」という経済の大原則を思い出しました


「人妻・美熟女との濃厚なひとときをアナタに…」というキャッチコピーに目が留まります。
ここでも濃厚なひとときを望む若者がお店の中に入って行きました


道頓堀ホテルの入り口前に強烈なインパクトのある像が並んでいます。
ワタクシは何度も見ているので、今更驚くことはありませんが、初めて見る人にはなかなかのインパクトだと思います


この像は、向かって左から「東洋人」「アフリカ人」「アラブ人」「西洋人」を表現しているそうです。
これには「世界中のお客様をおもてなししたい」という道頓堀ホテルの想いがこもっているそうです。なるほどねぇ

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


この後、私はなんば駅まで戻り、自宅への帰路につきました。久々に難波の町を歩いたのですが、町の変化を強く感じました。
私は大阪人というものの、今では大阪市内から30分ほどの距離にある郊外都市で暮らしています。
ですので、大阪市という大都会の変化をあまり実感していなかったんですね。
時々は都心へ出てきて、都会の空気を感じないといけないな…そんなことを思った一日でした。



にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へにほんブログ村

よっちんのフォト日記 - にほんブログ村


ミナミのランドマーク-大阪市中央区:道頓堀

2025年03月25日 | 大阪(大阪市内)
Doutonbori, Chuo Ward, Osaka City

さてさて、「道頓堀」にやって来たワタクシは、道頓堀川へと向かって行きました


この道頓堀川なのですが、以前は異臭を放つほど汚染された川でした。
大阪市が長年にわたり水質改善に努めて来たおかげで、随分と川が綺麗になりました。
今では「とんぼりリバークルーズ」というクルーズ船が通航しています。
ただ、ワタクシは乗りたいという気持ちにはなりません


時刻も11時前になり、道頓堀川の周辺はかなりの観光客の数になっていました。
この写真の右端には、美味しそうにたこ焼きを食べている東南アジア系の外国人カップルがいました。
大阪というと「たこ焼き」「お好み焼き」「きつねうどん」などがガイドブックに載ってるんでしょうね


ビルの壁一面がド派手にペイントされています。鬼太郎の目玉親父が描かれていたり、
かつての大阪府知事だった横山ノックが描かれていたり、どういうコンセプトなのかよくわかりません


これはもう皆さんもご存知。道頓堀の、いやミナミのランドマークと言うべき「グリコの看板」です。
これ、正式には「道頓堀グリコサイン」と言いまして、1935年に初代のものが設置されているんです


その後、何度も付け替えが行われていき、現在のものは6代目になるんです。
代替わりがしても両手と片脚を上げる「ゴールインマーク」は変わることはなく、
今も看板の前で同じポーズを取って撮影している観光客が数多くいます


道頓堀を西に進むと大阪のメインストリートである「御堂筋」に辿り着きます。
御堂筋は梅田と難波を結ぶ全長4.4kmの道路で、イチョウ並木がシンボルとなっています。
奥の方に「大」と書かれた大きな看板が見えますが、大丸百貨店の心斎橋店なんです


歴史ある大丸百貨店の建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズが手掛けたヴォーリズ建築の一つです。
ワタクシはヴォーリズの建造物が好きで、ヴォーリズを目的に滋賀県まで足を運ぶことがあるんです


御堂筋には高級ブランドの店舗も数多くあります。しかし、どの店舗もワタクシには無縁な存在です

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


グリコ(江崎グリコ)って大阪生まれの企業なんですが、考えてみると定番商品って多いですよね。
「ビスコ」「ポッキー」「プリッツ」などのお菓子類はもちろん、アイスクリーム、ヨーグルトやカレーなども人気です。
私はグリコ、森永、明治などの日本のお菓子類ってレベルは高いと思うんですよ。



にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へにほんブログ村

よっちんのフォト日記 - にほんブログ村


ド派手!!-大阪市中央区:道頓堀

2025年03月24日 | 大阪(大阪市内)
Doutonbori, Chuo Ward, Osaka City

さてさて、法善寺横丁を後にしたワタクシは、すぐ北側にある「道頓堀」へとやって来ました。
道頓堀の名は、慶長17年(1612)に私財をなげうって川を開削した安井道頓(やすい・どうとん)の名前に由来します。
その後、芝居や歌舞伎の娯楽の街として栄え、現在は多くの飲食店が集まる人気の観光地となっています。
そして、道頓堀の飲食店の特徴が、とにかくド派手な看板が多いことなんですよ


「しばいたろか!!」というたこ焼きのお店です。看板はともかく、「しばいたろか!!」という屋号はどうなんですかねぇ


明治製菓の「カールおじさん」ですな。大阪ではまだカールは販売されています。関東の方ではカールって販売されてないんですよね。
東日本では売れ行きが悪かったのですかねぇ


これは有名な「かに道楽」の看板です。ちなみにこの看板、1962年2月1日の開店と同時に作られたそうですので、
ワタクシと同じ学年になりますな。阪神タイガースが1985年に日本一になった時は、この看板によじ登った虎キチがおりまして、
カニの爪が折れてしまったというのは有名な話です。なお、2023年の日本一の時は目玉が取られてしまいました。
阪神ファンが道頓堀川にダイブすることでも有名な戎橋は、この看板のすぐ北側にあるんです


こちらは「大阪王将」の餃子の看板です。なお、王将という名前の中華料理のチェーン店ですが、
京都発祥の「王将」と大阪発祥の「大阪王将」があるのでややこしいんですよ


この大きなビリケンさんは「新世界いっとく」という串カツ屋の看板です。
串カツも大阪名物の一つのように言われていますが、大阪人って日常的にさほど串カツを食べているわけではないんですがねぇ


この看板は「くいだおれ太郎」といいまして、「くいだおれ」という飲食店ビルのマスコットキャラクターでした。
これも1985年の阪神タイガース日本一の際、興奮した阪神タイガースファンの群衆が、くいだおれ太郎を担ごうと狙ったが、
当時の営業部長が一人で体を張って死守しました。代わりにケンタッキーフライドチキン道頓堀店のカーネル・サンダース像が
橋のうえから道頓堀川に投げ込まれ、その後、阪神タイガースの低迷期が続いた時には
阪神がこれほど弱いのは「カーネル・サンダースの呪い」やと言われたものでした


これは「串カツだるま」の看板です。大阪では有名な串カツのチェーン店なんです。
この看板のモデルになっている会長さんは、タレントの赤井英和が高校生だった時のボクシング部の後輩で、
先代が店を閉めようとした時に赤井英和が「お前、店を継げ」と命令して店を継がせたという話が残っています


これは「金龍ラーメン」の看板なのですが、龍が泣いているののには理由があるんです。
龍のしっぽ部分が隣接地にはみ出ているとして、土地の所有者が店の運営会社に撤去を求めた訴訟で、大阪地裁が土地の所有権侵害を認め、
しっぽ部分や外壁のひさしの撤去を命じる判決を言い渡したんです。その結果、しっぽの部分を撤去したので泣いてるんですよ。
これも大阪らしいユーモアですね

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


誤解のないように書いておきますが、大阪人がみんな「派手好き」というわけではありません。地味な人もいます。
大阪人がみんな「阪神ファン」というわけではありません。巨人ファンもいます。
大阪人がみんな「面白い」というわけでもありません。喋りが下手で面白くない人もいます。
ただ、テレビなどの影響で「大阪人のステレオタイプを演じる大阪人」が増えたのは嫌な気がしますわ。
私はネィティブ下町大阪人ですが「〜でんがな」「〜まんがな」なんて言葉は使いませんし、
指でピストルを作った人にパーンと撃たれても、「ウゥ〜」と言って倒れたりしません。



にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へにほんブログ村

よっちんのフォト日記 - にほんブログ村


石畳-大阪市中央区:法善寺横丁

2025年03月23日 | 大阪(大阪市内)
Houzenji Alley, Chuo Ward, Osaka City

さてさて、大阪を代表する繁華街である難波の町を、ワタクシは北に向かって歩いていました


商店街になんとも不思議な、いや、奇妙奇天烈な自転車が停まっていました。
誰かが乗ってきて、この場所に停めたと思われるのですが、どうしてこんなデコレーションをしているのでしょうか。
そう思ってこの自転車を眺めていたら、ワタクシよりも年上で薄汚い格好をしたオッサンが自転車に乗って去って行きました


こういうオバハンがよくテレビなどで紹介されますが、実際に大阪にいるんですよ。
生息しているのは大阪の下町。商店街などでこういう人に出会うことはよくあります


「法善寺横丁」へとやって来ました。「法善寺横丁」と書かれた看板がありますが、この看板の文字は藤山寛美さんが書いたものです。
藤山寛美というと昭和を代表する喜劇役者であり、ミナミの飲み屋街の帝王のような存在だったんですよ。
彼の豪快な逸話は山ほど残っていますが、今の時代ならテレビからも舞台からも追放されていたでしょうな


法善寺横丁の歴史は江戸時代までさかのぼります。この時代は法善寺の境内に寄席が2軒あっただけといわれています。
法善寺の境内が栄えてきたのは、明治の終わりから大正・昭和にかけてです。
当時のなんば・道頓堀は、歌舞伎や人形劇などの文楽が盛んで船場の旦那衆の娯楽の場所、商談や社交の場所として栄えていました。
なんば・道頓堀に向かう途中で法善寺に参拝に来る人や芝居小屋に向かう芸能の人を対象に、
また芝居小屋へ向かう旦那衆を乗せた車引きの休憩所として、茶店や屋台、露店といったお店が集まりだしたのが横丁の始まりだそうです。
そんな歴史を調べるのはワタクシにとって実に楽しいことなのです


法善寺にある水掛不動尊は念ずることでご利益を与えてくださり、どんな願いごとでも手助けをしてくださると信じられています。
人々はお不動さんに水を掛け、手を合わせて願いごとをします。ですので、お不動さんは常に苔で覆われているんです


こんな場所もガイドブックで紹介されたり、SNSに載ったりするのでしょうね。
ワタクシの横には東南アジアから来たと思われるグループが、楽しそうに写真を撮っていました


法善寺横丁は石畳が美しいのですが、元々は石畳ではなく普通のアスファルト通りだったんです。
昭和55年(1982年)に、古くなった排水本管の工事によって横丁内の路地が壊される時に、
元々アスファルト舗装だった路地を「石畳にしよう」という案がでました。
この時に提案してくれたのが、法善寺横丁内のお店を良く利用していた、当時南海電鉄(南海電車)に務めていた方々です


南海電鉄の協力のもと、大阪と堺を結ぶ阪堺電車の路面の敷石に使っていた石を譲り受けて石畳にしました。
なお、阪堺電車というのは南海電鉄の子会社なんです。
こうして、現在の風情ある法善寺横丁の雰囲気を生み出す石畳は完成しました。
今では風情ある石畳の風景は、すっかり法善寺横丁に馴染んでいますね

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


藤山寛美が現役の頃、当時は豪快な遊びで知られる芸人さんも多く大阪にはこんな言葉があったそうです。
「キタの雄二にミナミのまこと、東西南北藤山寛美!」
雄二とはミヤコ蝶々さんと夫婦漫才で一世を風靡した南都雄二。まことは「てなもんや三度笠」で人気絶頂だった藤田まこと。
共に遊び人で有名でしたがその遥か上を行くのが藤山寛美だということです。
芸人の藤山寛美、俳優の勝新太郎。こんな人たちが活躍した時代というのは今の価値観からすればダメなことだらけでしょうが、
私は芸人なんて破天荒だからこそ面白いのだと思うんですがねぇ。



にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へにほんブログ村

よっちんのフォト日記 - にほんブログ村