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ヨシュア記3章 民全員がヨルダン川を渡り終えた

2022年04月04日 07時10分43秒 | ヨシュア記
ヨシュア記3章 ヨルダン川渡渉
1.ヨルダン川のほとりで(3:1-6)
ヨシュアは、二人の斥候の報告を受けた後、翌朝早くイスラエルの民を引き連れて出発しました。時は、太陽暦の4月に当たる第一の月の十日です(4:19)。ちょうどヨルダン川はヘルモン山の雪解けの水と春の雨とで増水し、勢いのある水が岸まで溢れている状態でした。しかもそこには橋も船もなかったのです。エリコの偵察隊は、すでに敵が自分たちのことで「震えおののいている」と報告したばかりで、士気は高まっていましたが、彼らの前には、行く手を遮るヨルダン川があったのです。
3日後、イスラエルの陣営にある動きが起こりました。指導者たちが宿営の中をめぐり、レビ人が主の契約の箱を担いで出発したなら、その後に続くように命じるのです。そしてヨシュアも、イスラエル人に身をきよめるように命じ、主が不思議を行われる、つまり、立ちはだかるヨルダン川の水の勢いに立ち止まっていてはならない、というわけでしょう。3日間の間に何かが起こったと思われます。おそらく神が何らかの方法で、ヨシュアの肩を後押ししたのでしょう。実際、主は、ヨシュアに告げられるのです。7節「わたしはあなたを大いなる者とする」と。全ては主に始まるのです。主が、「今までこの道を通ったことがない」と思う道を通らせて、「あなた方のただ中で不思議を行い」私たちの難局を切り開いてくださるのです。信仰を持っているのなら、いつでもそのような期待を神に持つべきでしょう。ここまで私たちの人生を導いてくださった神が、途中で私たちを放り出すわけがないのです。むしろ、更に大いなる神の恵みと力を示し、神とともにあるその素晴らしさを味わわせてくださることでしょう。主の業が現わされるように、私たちを主のものとすることです。なお、「身をきよめる」というのは、単に衣服を洗う(出エジプト19:10)のでも、性的行為を慎む(出エジプト19:15)ことでもありません。それは、自分自身を神のものとして聖別し、献げることを意味します。
2.ヨルダン川を渡る(3:7-17) 
6節、夜が明けて、ヨシュアが民に命じています。「民の先頭に立って渡りなさい」増水したヨルダン川に前進するように命じる。それは、ちょうど出エジプトの時の状態と似ていました。ただ神のなされる業を信頼し、前進する時に、道は開かれると言うのです。そして、15節「箱をかつぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が完全にせきとめられて」「民全員がヨルダン川を渡り終えた」と言います。
この奇跡によって、指導者ヨシュアには、モーセと同じように神が共におられたことが明らかにされました。また、この奇跡は始まりでした。神の私たちの人生への介入はただ一度のことではありません。神は私たちの人生に介入し、私たちを全く想像もしなかった人生へと向かわせていくのです。そのような意味で、私たちは自分の人生を小さく考えてはならないのでしょう。どうせ私の人生はこんなものだ、という思いは神の前に捨て去ることです。むしろ天地創造の偉大な神への信仰をもって、心を開き、神の語られることばに耳を傾け、神に自分の新しい人生を切り開いていただくことえす。
ヨシュアは言います。10節、このヨルダン川渡渉により、「生ける神があなたがたの中にいて、あなたがたの前から、カナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを知るようになる」と。カナン人は、ヨルダン川の西、特に地中海沿岸の平野部の住民を指します。ヒッタイト人は、パレスチナ南部を根拠地としていました。ヒビ人は、パレスチナ中部、ペリジ人は南ユダ、アモリ人はヨルダン川の東、エブス人は北部に住む民族です。つまり、戦いの初めに、眼前に立ちはだかった大きな障壁、ヨルダン川の渡渉は、パレスチナ征服の第一歩に過ぎないというわけです。人生の大きな障壁に出くわしたら、これは序の口に過ぎないと心得ましょう。神の力は無限です。神と共に歩む人生には、神の力もあらわされるのです。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。イスラエルがエリコを攻略するために、最初に陣を敷いた場所はどこだったでしょうか?答えはギルガル(ヨシュア4:19)でした。では、今日の聖書クイズを一つ、ヨルダン川の終点はどこになるでしょうか?①地中海、②死海、③紅海、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記2章 あなたを見放さず、見捨てない

2022年04月03日 07時29分46秒 | ヨシュア記
ヨシュア記2章 二人の斥候
いよいよ、約束の地を自分たちのものとするイスラエルの戦いが始まりました。神の約束の地は、戦いによって獲得されていく、この事実をしっかり受け止める必要があります。
1.天の神、地の神である主
 まずヨシュアは、エリコの町を攻略するために、斥候を遣わしました。エリコの王はそれと気づき彼らを捜し出すのですが、遊女ラハブによって、彼らは匿われ、守られました。ラハブは、イスラエルの民がどのような民であるかを知っていたと言います。彼らがエジプトから出てきた時に、神が葦の海の水を涸らされたこと、またエモリ人の二人の王を聖絶したことを、聞いていた、と。ラハブは、その稼ぎの交友関係の中で、様々な情報を掴んでいたのでしょう。大事なのは、ラハブが、「主は、上は天において、下は地において、神であられる」とイスラエルの神に対する信仰を表明している点です。イスラエルの動きの背後に、まことの神がおられることを感じる力のある女性であった、ということです。そしてラハブの信仰告白、実は、アブラハムの信仰告白そのものです。アブラハムが年を重ねて老人になった時、アブラハムは、神に対して「天の神、地の神である主」という呼び方をしました(創世記24:3)。ラハブは、イスラエルの人たちの信仰の本質を掴み取っていたのです。そしてその信仰告白をいたしました。
ところが、人によっては、天の神、地の神とは言うが、聖書の神は、ちいとも、私の地のことはわからない、神は地の神だとしても、あの人の神ではあるかもしれないが、私の側に立ってくれる神ではない、と思う方もおられるでしょう。
2.赤いひもと血のしるし、十字架の神秘
 しかしそうではありません。あくまでも神は、私の側に立つ神なのです。どのようにしてそうなのか、ラハブの姿に注目しましょう。ラハブは、信仰告白をし、二人の斥候に命乞いをしています(12、13節)。これに対して二人の斥候は、真実と誠実を尽くす約束をしました。そして赤いひもを窓にしるしとして結びつけるべきことを語りました。そしてこのしるしを離れて戸の外に出るなら、その血の責任はその人に帰すと言います。これは、出エジプトの最後の災いを思い起こさせます。その時、イスラエルは、門柱と鴨居に羊の血を塗って、初子が殺される災いから守られたのです。赤いひもと羊の血、それは象徴であり、神が災いを下さないと判断する重要な目印でした。
ともあれラハブは、異邦の民で、選びの民ではありません。しかも神の民の倫理からすれば、甚だしく神に忌み嫌われ聖絶の対象とされる遊女でした。しかし、遊女ラハブは、神の前に命乞いをし、赤いひもを神の守りのしるしとして与えられる約束を交わすのです。神も、私たちに赤いひもに代わる、イエスの十字架の血潮のしるしを与えてくださいました。神は、あの人の神であるかもしれないが、私の神ではないと思うすべての人は、イエスの十字架の血潮が、万人に等しく与えられている事実をよく理解しなくてはなりません。イエスの十字架の血潮、そこから離れるな、そこから離れるならばその血の責任はあなたに帰ると語っておられることを覚えたいものです。
3.主イエスの十字架への信頼
 ラハブは言いました。「おことばどおりにいたしましょう」(21節)。たとえ自分が、遊女であって、神の恵みに与るにはお門違いと思うことがあっても、神のことばは万人に真実である、おことばどおりにいたしましょう、という信仰が大切です。イエスの十字架の死は、あの人のものではなく、私自身のものである、ここから離れてはならないという信仰をしっかりと持つことです。そうすれば、イエスの約束された祝福、恵みは皆同じように、私たちのものであることを確信してよいでしょう。イエスの十字架の血潮のしるしを、心の窓枠に結びつけましょう。そして、神に期待しましょう。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヌンの子ヨシュアは、何族の出身であったでしょうか。答えはエフライム部族でした(民数1:10、1歴代7:26、27)。では、今日の聖書クイズを一つ、イスラエルがエリコを攻略するために、最初に陣を敷いた場所はどこだったでしょうか?では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記1章 強くあれ雄々しくあれ

2022年04月02日 07時04分47秒 | ヨシュア記
ヨシュア記 1章 後継者ヨシュア
今日からヨシュア記を見てまいります。旧約聖書の中では、いよいよ歴史書と呼ばれる区分に入っていきます。ここからは、いささか、ストーリー的にも面白く、ある意味でなだらかな道を進むごとく、楽しく読んでいけるでしょう。しかし急ぎ足にならず、読み進めてまいりたいところです。
さて、モーセが召され、後継者としてヨシュアが立てられました。ヨシュアはエジプトを出た時からモーセの片腕として活躍していましたが、ヨシュアを後継者として定めたのは神でした(民数27:12-23)。神がヨシュアに語られます。ヨルダン川を渡り、カナンを所有するように、と。ヨシュアはモーセに代わって、不信仰と不従順の故に、荒野を40年も彷徨ってきたイスラエルの民に、約束の地カナンを受け継がせる使命を担わされるのです。しかしそれは、やはり簡単なものではなかったことでしょう。
1.既に祝福は私たちのものである(1:1-6)
神はヨシュアに、命令に続いて特別な励ましを与えられました。すでに約束の地はヨシュアの手の中にある(3節)、と。また、「あなたの前にたちはだかる者はいない」し、「モーセとともにいたように、あなたとともにいよう」(5節)と語ります。ヨシュアに迫られた決断は、この神の約束のことばを信じて、足の裏で、約束の地を実際に踏み進んで行くかどうかでした。
2.主の律法に忠実であり続ける(1:7-9)
また8節、ヨシュアは、モーセに啓示された「主の律法」に忠実でなければならないと教えられます。この律法こそ、イスラエルの民を他の民族とは区別し、ユニークな存在とし、また祝福をもたらすものでした。神は、ご自身のみことばを昼も夜もそれを口ずさみ、記憶に留め、それを実際に行うように命じられます。それによって繁栄し、栄えるためである、と言います。今日従ったかと思えば、明日は忘れている、そのような気まぐれな従い方ではなく、すべて真心をこめて従うのです。何をどうしてよいかわからないのなら、まず神のみことばを口ずさみ、よくよくそれを理解するところから始めてみましょう。それが主に従う第一歩なのです。
3.戦いに備える(1:10-15)
さてヨシュアは、神の励ましと命令を受けて、民に戦いに備えるように命じました。まず糧食を備えることが命じられます。よき戦いのためによく準備するというわけです。
次にヨシュアは、ルベン人、ガド人、マナセの半部族に対し、積極的な参戦を促しました。すでに彼らはヨルダン川の東側に自分たちの相続地を定めて、落ち着き始めていましたが、未だ相続地を得ていない同胞のために、先頭に立って戦いに出ていくように求められたのです。彼らが本当にヨルダン川の東側で安らぐのは、その後というわけです。神の民は常に連帯責任のある共同体でした。霊的に試練の中にある兄弟姉妹がいれば、その試練を共に担っていく、それは当然のこととされたのです。
実際のところ、人は自己中心な者でしょう。キリスト教信仰を持ったとしても、そんなに簡単に自己中心な性質が正されるわけがありません。他人のために尽くしているようでありながら、実際にはそれは表面上のことで、自分に何かしら益するところがあるからこそやっていることがあるものです。であればこそ、そのような見返りを要求する自身の罪深い性質を理解し、戒め、ヨシュアに従った民と同様に、教会全体の大目的のために、「命じたことは、何でも行います」という心を持つことが大切でしょう。
4.指導者のために祈る(1:16-18)
 民はヨシュアに言いました「あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように」(17節)。信徒がそうであれば指導者も同じです。指導者も本当に私利私欲を超えた、神が教会にもっておられる大目的のために生きる、その働きが守られていく必要があります。そのために、信徒はまず何よりも指導者のために祈らなくてはならないでしょう。祈られる指導者こそ、神の民の働きに本当の意味で霊的な実を結ばせることになると言えます。

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<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ピスガは、ネボ山の頂上である。〇でしょうか、×でしょうか?答えは×です。ネボ山は現在のジェベル・エン・ネバ(標高802メートル)、死海北端の東側19キロの地点にある山とされます。ピスガの頂は、そのネボ山の西方にあり、鞍状に隔てられたラス・エス・シアガ(標高700メートル)の頂とされています。では、今日の聖書クイズを一つ、ヌンの子ヨシュアは、何族の出身であったでしょうか。答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。


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ヨシュア記24章

2019年03月12日 06時36分10秒 | ヨシュア記
ヨシュア記24章
ヨシュア記24章 神との再契約
<要約>
おはようございます。ヨシュアたち、イスラエルの戦いが終わりました。ヨセフの遺骸がシェケムの地に戻ってきました。ヨセフが兄弟たちにまだ奴隷として売り飛ばされる前に住んだ場所です。神がイスラエルの父祖たちに、この地を与えると約束した約束は守られたのです。そしてヨセフの信仰も実りをえました(ヘブル11:22)。興味深いことは、ヨセフ族がヨセフの遺骸を携えながら決してヨセフを神格化して拝まなかったことでしょう。神と人は異なるものである。そして人間は神の時間軸に生きている。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルになされた神のみ業
 ヨシュアは、イスラエルの全部族をシェケムに集めた。そこで再びヨシュアのメッセージが語られる。しかしそれは、神の前にあって語られるメッセージとなった。
最初にヨシュアは、イスラエルの歴史においてなされた神のみ業を振り返った。族長たちの召し(2節)、出エジプト(5-7節)、ヨルダン川東岸の勝利(8-10節)、ヨルダン川渡渉(11節)、そして約束の地での征服(11-13節)について触れている。メッセージの中で繰り返し強調されるのは、これらイスラエルの勝利と成功が、一つとしてイスラエルの力によるものではないことである。「わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなた方の前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている」(13節)
 くまばちとはなんだろうか。文字通りくまばちととるべきか、一種の比ゆ的表現ととるべきか。後者が普通のようである。つまり、イスラエルが侵入する前に、神が敵に与えた恐怖のことを語っている。また、出エジプトの早期年代説をとる場合には、これを先んじてカナン攻略を試みたエジプトのパロのことと取る説もある。つまり、BC1411年のアメンホテプ3世による破壊的な侵略を指し、すでにカナンの地が弱められていたときに、ヨシュアとイスラエル人がエリコに侵入したという。イスラエルのカナンの地の所有は、自分たちの力ではなく、神の強い導きと後ろ盾があってこそ、成し遂げられた、というわけだ。
ともあれその必然的結果として、イスラエルは、まことの神のみを礼拝するように、「誠実と真実をもって主に仕えなさい」とチャレンジを与えられている(14節)。
2.神との再契約
15節からは、ヨシュアと民の対話の形式をとりながら、神と民との契約を明確にしている。つまり、ヨシュアは、民に神への絶対的献身を促し(14-15節)、民はこれまでの神の恵みと救いを告白し、主に仕える決意を明確にしている(16-18節)。それに対してヨシュアは重ねて、主の厳しさを語り、警告を加えている(19-21節)。民は、「いいえ。私たちは主に仕えます」と、警告に対して明確な忠誠の誓いを立て契約を結んでいる。
 主に仕えると口で語るのは易しい。しかし、人間の心には、罪がある。神を認めようとせず、神に背を向け、神抜きで物事を進めて行く内なる性質がある。もし、人が主に仕えると口で語るとおりの忠誠を持っていたら、こんなことは起こりえぬであろうに、という現実がある。私たちの礼拝にも、教会生活にも、それは、明確に現わされている。信仰はことばによらず、行為、振る舞いによって明らかなものだが、私たちの現実は、自分に都合よく、自己流に主に仕え、まことに神に仕えている者ではない、と知られることがしばしばである。確かにそうであってはならない。主に仕えるのなら、私たちの日々の生活は、神に栄光を帰すものとして献げられなくてはならない。主にあって信仰の生涯を貫きとおしたことが、誰の目にも明らかなような生き方をしていく必要がある。
イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また長老たちの生きている間主に仕えたという(31節)。残念なことに信仰の継承がなされなかった、ということだろう。人間の指導者ではない、主ご自身に結び付き、主に忠実に従う歩みが、求められるところではないだろうか。

ヨシュア記23章

2019年03月12日 06時35分22秒 | ヨシュア記
ヨシュア記23章
ヨシュア記23章 ヨシュアの告別説教
<要約>
おはようございます。ヨシュアのお別れ説教というべきものです。彼は、イスラエルの民が、主の約束の通りに、彼らよりも大きくて強い国々を追い払ったことを思い起こさせます。そして、さらにこの占領を完成させるようにと語るのです。確かに教会形成も同じでしょう。私たちの力で話し得ないことを主が導いてくださっている。さらにこれを完成させるのです。そのために必要なのは、これまでもそうであったように、ただ主にすがることです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.大きくて強い国々を追い払った
 ヨシュアは年を重ねて老人となっていた。ヨシュアの告別説教である。これまでの歩みを回想しながら、イスラエルの民が進むべき道を示している。ヨシュアは、まずイスラエルの民を安住の地に導かれたのは神であること、神がイスラエルの民のために戦い、カナンの地に入ることを許された、と語っている。大切なのは、今あるのは神の約束の実現である、ことだ。申命記にはすでに次のように約束されている。「もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行い、あなたがたの神、【主】を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、【主】はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。(申命記11:22,23)」確かに神は、約束通りに、イスラエルの民よりも大きくて強い国々を追い払い、イスラエルの民に、その地を継がせたのである。神は真実である。
2.働きを完成させる 
この神の真実さを受け止めながら、ヨシュアは、さらにチャレンジを与える。「あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない」(5節)残された戦いがまだある、というわけだ。それは神が与えられたものを、完全に自分たちのものとする努力である。
 それは、私たちの救いにおいても言えることであり、私たちは、バプテスマ式において「救われた」などと言うものの、実際には、救いの第一歩を踏み出したに過ぎず、その救いを完成しなくてはいけない。私たちが罪の深みの中から救い出されたことに間違いはないが、罪の根はまだまだ私たちを深く絡めとっており、私たちを取り囲む誘惑や試練も、変わらないままである。「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(11節)とあるように、十分に気をつけて自分の救いを達成するのである。また働きも同様だろう。働きも一つ一つが始まったばかりであって、決して、完成されたものを私たちは与えられるわけではない。むしろ完成するべき働きが与えられるのである。
3.主にすがる
さて、自分の救いや働きの完成のためには、何を心がけたらよいのか。8節がその秘訣を語っている。「ただ、今日までしてきたように、あなた方の神、主にすがらなければならない」難しく考えることはない。これまでしてきたとおり、主にすがることである。主に信頼し、主の業がなされるように、意を注ぐことである。そのようにして「大きくて強い国々」(9節)を追い払うことができる。また「だれもたちはだかることのできる者はいない」「ひとりだけで千人を負うことができる」(10節)ということになる。
逆にそうではなく、神を忘れ、神から離れるならば、それが「わなとなり、落とし穴となり、わき腹にむちとなり、目にとげとなり、主が与えられたよい地で滅びることになる」(13節)と警告される。私たちにとって益と思われるものがそうでないものに変化することがある。それはまさにサタンの罠であると言わねばならないだろう。
詐欺師は詐欺師と見破られないからこそ詐欺師であると言われるように、サタンも、それとはわからない。エバに現れた蛇も、ヘブル語では光るもの。つまり魅力的なものとして現れたのであり、まんまと騙されてしまったわけである。だからこれはよいものだと思うところにこそ、十分に気をつける心を持たねばならない。
神の約束は真実である。ヨシュアも、イスラエルの民もそれは、身を持って知ったことであった。それをしっかり心に留めて歩む者とそうでない者がいる。しっかり主のことばを心に留めて、主にすがり、主の勝利に歩む者であろう。