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ヨシュア記8章 祝福ものろいも読み上げた

2022年04月09日 07時08分56秒 | ヨシュア記
ヨシュア記8章 アイ攻略
1.アイ攻略の再チャレンジ(8:1-2)
 アイの敗北の後、イスラエル人たちは、その敗北に原因があったことを理解しました。それは、イスラエル人の慢心のみならず、アカンという一人の人物の罪のためでした。彼らは連帯責任を問われたのです。つまり、ここでの重要な学びは、人生に失敗はつきもの、しかしそれで終わりではない、神は悔い改める者にあわれみ深く、再度チャンスを与えられる、ということだけではなく、神は、神の民が一丸となって神に従うことを求められた、ということです。
2.ヨシュアの戦略(8:3-23) 
ともあれ、イスラエル人たちは、再びアイ攻略の戦いへと立ち上がりました。そこで副将のヨシュアが取った行動は、神の命令に皆で一緒に従うことです。神はヨシュアに、作戦を告げ、ヨシュアと全イスラエルは、それに判を押したように淡々と従っていくのです。伏兵を置くことも(2節)、伏兵を動かすタイミングも(18節)、すべて、神が仰せられたとおりに皆で行動するのです。
3.事の勝敗を決するは神(8:24-35)
詩篇には、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(127:1-2)とあります。また、伝道者の書にもこう書かれています。「競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ」(9:11)人間の努力や能力、才覚でも判断力でもなく、神が時と機会を与えられ、人はその時と機会に乗っているだけであったりするのです。
ヨシュアが勝利の後に、祭壇を築いたのは、それを弁えればこそです。そしてヨシュアは、これまた、律法の書に記されたとおり、つまりモーセに教えられたとおりに(申命記27:5、6)、「鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇」を築いたのです。
しかし重要なのは、その次のエピソード。33節、全イスラエルが、ゲリジム山とエバル山に分かれ、祝福とのろいのことばを読み上げたことでしょう。事の勝敗を決するのは神だ、という認識を示すのみならず、全イスラエルをもってその認識を共有する。全イスラエルをもってまさにモーセによって教えられたとおりの神のみ教えに生きる自分たちの原点に立ち戻ろうとしている。彼らはヨルダン川を渡る前に、神に徹底的に従うことをそのように表明したのでした(申命記27)。神のみことばをよく読み、それを心に留めて歩むのみならず、それを互いに語り聞かせあい、共に愚直に神のことばに従っていく、それが神の民の特徴でした。  
今日、キリスト教信仰はあまりにも個人的なものになっているかもしれません。教会で共に主に従うと言う意識が薄れ、教会に対する所属感がない、ということがあるかもしれません。コロナ禍になって、ズームやユーチューブ礼拝の便利さが身についてしまうと、信仰が個人の祈りと、聖書の学びと思索で終わり、実際に教会で助け合う、励ましあう、高めあうということが希薄になっていくように思われるところがあります。しかし神と自分だけの世界で信仰生活に深まりが出ることはありません。やはり人は人によって研がれとあるように、キリスト教信仰は、共に生きるところにこそ深まりが起こるのです。神は私たちの信仰が高められるために、わざわざ煩わしいとすら思える人間関係を与えてくださったと言うべきでしょう。誰一人脱落者を起こさず、共に天の御国を目指して完走する、そのような教会でありたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。聖書でアイと対になって出てきて、聖書学者のオルブライトなどから、「ふたごの町」と呼ばれた町の名は何でしょうか?答えはベテルです(創世12:8、13:3、ヨシ7:2、8:9、12、17、12:9、エズ2:28、ネヘ7:32)。アイとベテルはその間にある山によってつながれ、一続きになっていたと考えられ「ふたごの町」と呼ばれました。では、今日の聖書クイズを一つ、聖書の中には、「アラバの海」ということばが出てきますが、それは別名何と呼ばれているでしょうか?答えはまた明日。

*二子玉川聖書学院からのお知らせです。聖書通信講座開講中です。旧約概論、新約概論を本ブログと合わせて学ぶことで、聖書を体系的に全体的に理解できるようになります。偏りのないしっかりとした信仰を持ってまいりましょう!➡詳しくはこちら
では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記7章 立て身を聖別せよ

2022年04月08日 07時11分09秒 | ヨシュア記
ヨシュア記7章 アイでの敗北とアカンの罪
1.アイにおける敗北(7:1-9)
 イスラエルはエリコで勝利を収めた後、さらに西へと向かい、次の攻撃目標アイへと進みました。アイの町の標高は、エリコよりも千メートルほど高く、そこへ至るルートは上り坂でした。そしてアイもまた城壁を構えた町でしたが、難攻不落と言われたエリコに比べるほどのものではありませんでした。実際、イスラエルの偵察隊は、全軍を派遣する必要もなく、三千人の兵で足りると見て、アイ攻略のために上っていったのです。
当時アイの人口は一万二千人、戦闘可能な要員は約三千であったとされます。しかし城壁があったのですから、戦力はそれ以上と見るべきで、事実、思いがけない反攻を受けて敗退する結果となったのです。イスラエルは、戦死者を出し、戦意をそがれ、戦いは始まったばかりなのに恐怖と絶望のどん底に陥っていったのです。
 6節、「ヨシュアは、衣を引き裂き・・・、ひれ伏し・・・、頭にちりをかぶった」。そして言ったとあります。自分たちは、ヨルダン川の手前で満足していた、と。なんともこれからカナンの全土を占領するのだ、とヨルダン川渡渉を成し遂げたばかりであったのではないのか、と思うところです。しかしこれもまた人間の現実です。ただ、ヨシュアは、その失態の中で、神の元を離れず、神のみこころを尋ね求めていくのです。神の人というのは、そういう人を言うのです。何事も卒なく立派に物事を進める人ではなく、失敗の中で、なおも神に頼り、神の指示を求めていく人です。神はそのような人を決して拒まれることはありません。
2.主の応答、公正な神(7:10-1-15)
 実際神は、遜ったヨシュアに答えられました。敗北には理由があった、と。イスラエルの慢心もさることながら、アカンという人物が神に属したものを盗んだためであった、と。エリコは、カナン攻略の最初の町として、全く神のものとして献げられた初穂の町であり、神だけのものでした。しかし、アカンという人物が、そのような聖戦であることをわきまえず、主への奉納物、金、銀、よい着物を盗み、神のものを私物化する罪を犯していた、と言うのです。興味深いことは、ここで、主が「イスラエルは罪ある者となった(11節)」「聖絶の者となった」と言われた点です。約束の地、カナンは、まことに神のみこころに生きる神の民のものでした。ですから、たとえ民族的血統はイスラエル人であっても、神のみこころにそぐわぬ生き方をする、罪ある者なら、そこにいることは許されない、つまり聖絶の者となるのです。約束の地カナンは真のイスラエルのものでなければならなかったのです(1コリント5:6、7)。大事なことは、繰り返しになりますが、神の人というのは、このような時も悔い改め、神に寄り縋る人のことを言うのです。
3.罪の告白と赦し(7:16-26)
神が求められたのは、何よりもまず罪の告白でした(19節)。ただ罪の告白は進んでするものであって、強いられてするものではありません。アカンのそれは、罪の告白ではなく、不本意な強制された自白でした。神の赦しを得られなかったのも無理はありません(1列王8:47)。なお、罪人のアカンを見つけ出すためにくじ引きの方法が取られています。それは冤罪を生み出すようにも思われますが、これは神が定めた方法で、アカンの自白によって、この問題に関する限り適切な方法だったのだ、と言えるのでしょう。
 ともあれ、この大変な罪のためにアカンとその全家族が滅ぼされました(25,26節)。神は罪を赦すお方ですが、罪を見過ごしたり、大目に見たりするような方ではありません。そしてこのアイ攻略の失敗は、約束の地カナンが、どのような性質の場所であるかを、イスラエルに深く考えさせるものとなったと言えます。これからの戦いは、ただ単に、イスラエルが自分たちの先祖たちの地を奪還するというものではなく、神の民を形作り、神と共にある相応しい土地に住むというものであったのです。教会を建て上げることも同じです。ただこの世の社会にキリスト信者の集まる場所を作るというのではなくて、まことに神を恐れ、神と共に生きる人々の集まる場所、義と愛に満ちた神を指し示す場所、を建て上げることなのです。世の人々が神の愛に安らぐ場所、そんなところをしっかり立て上げてまいりたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヨシュアがエリコ攻略のために鳴らした角笛は、何の角であったでしょうか?①水牛、②鹿、③雄羊、答えは、③雄羊の角でした。古代イスラエルのラッパの一種で、後に雄羊の角型を模倣した金属製のものへと発展していきました。では、今日の聖書クイズを一つ、聖書でアイと対になって出てきて、聖書学者のオルブライトなどから、「ふたごの町」と呼ばれた町の名は何でしょうか?答えはまた明日。

*二子玉川聖書学院からのお知らせです。聖書通信講座開講中です。旧約概論、新約概論を本ブログと合わせて学ぶことで、聖書を体系的に全体的に理解できるようになります。偏りのないしっかりとした信仰を持ってまいりましょう!➡詳しくはこちら
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ヨシュア記6章

2022年04月07日 07時02分21秒 | ヨシュア記
ヨシュア記6章 エリコの攻略
1.エリコについて
 旧約時代のエリコは、死海の北西約16キロ、海面下250mで、世界で最も低い地点にありました。それは現在のエリコの北西約2キロ、テル・エス・スルタンにあるエリシャの泉として知られた泉(2列王2:19-22)の近くにあったとされています。南北約四百メートル、北側の広い部分は幅200メートル、高さ12メートルの丘になっていて、古くからオアシスの町として知られ「なつめ椰子の町」とも呼ばれていました(申命記34:3、士師記3:13)。イエスの時代には既に廃墟となっていたとされます。
この町では、三度の考古学発掘調査が行われています。ドイツ人ゼリン(1904-9年)、英国人ジョン・ガースタング(1930-36年)、英国人カスリーン・ケニヨン(1952-56年)によるもので、ケニヨンは、エリコは、ヨシュアの時代よりもさらに5000年遡る世界最古の都市ですが、ヨシュアのエリコ攻略については何もわからないとしています。ガースタングは、エジプトのアメンホテプ3世(BC1400年代)の記銘のあるスカラブ(聖甲虫)を発見した層について、それが、ヨシュアによって破壊されたものであると主張しました。確かにその層に発見された城壁の跡は二重になっていて、高さ10メートル、厚さ4メートルで、それらは倒壊し、また激しい火災の跡もあったのです。陶器の破片も約1,500枚発見されたことから、彼はヨシュアの攻撃をBC1400年としました。しかしケニヨンは、この層は、2500年頃のものでヨシュアとは関係がないとしています。そしてヨシュアに関係する層は、完全に侵食されてしまっていて、わからない、と言うのです。今後どのような研究が出てくるかわかりませんが、この聖書の語るエリコの記述で考えるべきことは、それが堅固な城壁で、それが象徴するように、イスラエルの人々は、全く勝ち目のない戦争に出ていこうとしていた、ということです。
2.ヨシュアの戦術
さてヨシュアは、総司令官である主の作戦に従って、4万の軍隊を引き連れてエリコ攻略の戦いへと出陣します。しかしながら主の作戦は、非常に奇妙なものでした。武装した戦士たち、7つの角笛(ヘブル語でショパーと呼ばれる牡羊の角で作られた角笛で、今日も聖祭日を告げるのに用いられている)を持った7人の祭司、主の契約の箱をかついだ祭司、しんがりの兵士順で、6日間沈黙を守りながら町を回り、7日目には、7度町を回り、既に与えられた勝利を確信して、勝ちどきの声をあげる作戦です。彼らは戦うパフォーマンスと威勢のよさを見せるだけで、ほとんど何もしないのです。それは、今日でいえば、キリスト者が、祈りによって勝利するのだ、と言って祈り会を開くようなものです。
ただ考えてみれば、確かに、人生には、神の手を煩わすほどでもない戦いというものもあります。多くの人は、本当は自分が努力すべきものを、神の手を煩わせて、神が働いてくださらなかったと神に怒りをぶちまけるものですが、本当に、神に寄り縋る以外、一歩も進めないという事態というものはあるものでしょう。このコロナ禍では、早朝に、神社に参拝、手を合わせて祈るお年寄りの姿をよく見かけました。やはり祈りによる勝利、主が助けてくださる、という主への深い信頼を表明する祈りだけが解決方法というものがあるのです。こうしてヨシュアとその部隊は、一発も銃火を交えることなく、エリコを攻略しました。後の時代、新約聖書は、この出来事を取り上げ、これが信仰による勝利であると証しています(ヘブル11:30)。
3.過ちては改むるに憚ること勿れ
 カナンの地で最初に征服され、占領された町として、エリコは神に献げられました。エリコの住人は一人残らず聖絶されました。容認しがたい大虐殺のようにも思える箇所です。しかし、これはすでに創世記15章(16-21)に預言された、エモリ人の咎に対する裁きでした。しかも彼らは、既に悔い改める機会を与えられていました(ヨシュア2:9-11)。悔い改めたラハブとその家族は、その聖絶から逃れ守られています。神は、かつて悔い改めた町ニネベを滅ぼさなかったように、悔い改める者を決して拒むことはありません。そのような意味で、いつでも私たちは、自分の「過ちては改むるに憚ること勿れ」と心得たいものです。素直に自分の罪を告白し、捨て去り、神の側に立つ者でありましょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。当時聖書の世界の民族で、割礼を受けない者とされていたのは、どの民族でしょうか?①モアブ人、②エジプト人、③ペリシテ人、答えは、③ペリシテ人でした。割礼はエジプト、エドム、アモン、モアブ、その他の民族の間でも広く行われていましたが、カナンの地のペリシテ人は無割礼の者として軽蔑されました(士師14:3、15:18、1サム14:6、17:36、31:4)では、今日の聖書クイズを一つ、ヨシュアがエリコ攻略のために鳴らした角笛は、何の角であったでしょうか?①水牛、②鹿、③雄羊、答えはまた明日。

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ヨシュア記5章 エジプトの恥辱を取り除いた

2022年04月06日 07時17分07秒 | ヨシュア記
ヨシュア記5章 割礼
1.エジプトのそしりを取り除く割礼
カナンの地に住む人々は、イスラエル人がヨルダン川を渡ったことを聞きました。イスラエル人と共におられる神の偉大さを知り、彼らは心が萎えてしまった、と言います。すべての道筋をつけられる神がおられるのです。後は、イスラエルがこの挑戦に出て行くかどうかでした。
ギルガルでヨシュアは、イスラエルの民に割礼を施しました。それは、かつて紅海を渡ってシナイ山で主のみ教えを受けた最初の世代は、皆この割礼を受けていたが、その後の世代は、つまり荒野で育った世代は、それを受けていなかったのです。ですから、みな割礼を受けるべきであると言います。「割礼」は、神がアブラハムとその子孫との間に結ばれた契約のしるしで(創世17章)、火打石の小刀で男性器の包皮を切除するものです。ちなみに火打石として使われたのは、黒曜石であったとされますが、この行為は少なくとも二つの意味を持っていました。割礼を受けていない新しい世代が、割礼を受けること(5節)、そして「エジプトのそしり」を取り除くことです(9節)。
彼らは、割礼によって、自分たちが神と特別な契約を結んだ者であることを明かにしました。しかし、その特別な関係にありながら、その不従順の故に、荒野を40年間彷徨わなければならなかった状況は、まさにエジプトのそしりからまだ逃れられていなかったことを意味するのです。しかし今や新しく割礼を受けた民が、神への従順の故に、神との契約のとおりに約束の地へ入って行く、これは、まさにエジプトのそしりを取り除く行為でした。
それは、新約聖書の教えに立つキリスト者にとっても象徴的な意味を持ちます。使徒パウロは、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ2:11-12)と言います。今や、キリストを信じる者は、割礼を受けた者と同じだ、ということです。いつまでも神に不従順な時代の、荒野の40年のような歩をしてはならないのです。罪の奴隷であったそしりを取り除かれた者として、新しい人生へと進んでいくのです。
2.過越
ここでもう一つ注目すべきことばは「過越」です。それは、エジプトにおいて奴隷であったイスラエルが、神の奇蹟的な介入により解放された、その素晴らしい祝福を覚えてするものでした。エジプトのそしりと決別するもう一つの儀式というべきでしょうか。彼らは、エジプトの延長である荒野の生活に別れを告げ、今度こそ約束された新しいカナンの地での生活を始めようとしていました。最初の世代が通った新しい出エジプトを、次世代の民もこうして追体験しているわけです。そして、12節「マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた」とあります。40年間荒野で、マナに養われた時代は終わりました。もはや後戻りできない、神の助けによる新しい時代がスタートしたのです。 
さて、エリコに近づいたヨシュアは、主の軍の将と出会っています。それは、イスラエルの軍の将であるヨシュアが、主の軍の将の指揮下に入っていく時でした(15節)。約束の地の征服は、ヨシュアが一人で負う使命ではなく、神の軍の指揮下に入って行う働きでした。私たちの人生の戦いも同じです。「この大群のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである」(2歴代20:15)と言われますが、私たちの戦いは、皆神の指揮下にあって進められるのです。ですから、今日も聖書を読み、神の作戦をよく理解し、その作戦に沿って、自らの務めを果たすということになるのでしょう。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヨルダン川は、全長何キロに渡って流れる川でしょうか?①200キロ、②300キロ、③400キロ、答えは、③400キロでした。ヨルダン川は、全長は直線距離で約217キロですが、蛇行距離では400キロに及び、日本最長の信濃川をしのぎます。では、今日の聖書クイズを一つ、当時聖書の世界の民族で、割礼を受けない者とされていたのは、どの民族でしょうか?①モアブ人、②エジプト人、③ペリシテ人、答えはまた明日。

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ヨシュア記4章 主の手が強いことを知るために

2022年04月05日 06時39分04秒 | ヨシュア記
ヨシュア記4章 十二の記念石(永久に記念となる)
1.永久に記念となる(4:1-14)
 イスラエルの民がすべてヨルダン川を渡り終わった時、神はヨシュアに命じられました。乾いた川底から十二の石を取り、それを宿営地に据えて、永久の記念とするように、と。興味深いことに、ヨシュアはその命令に、「あらかじめ用意しておいた十二人の者(3:12)を召し出し」応じています。そしてそれを今実行するのだ、と語るのです(4:2、3)。つまり神のみこころは一度にすべて明らかにされるわけではありません。常に共におられる神と、共にある心がけの中で明らかにされていくものでしょう。主は、ヨシュアと共におられたと言いますが、こうしてヨシュアもまた神と共にありました。しっかり神に寄り添い、神の心を我が心として歩み、いつでも神に語られたことを実行する姿勢が大切です。
さて、ヨルダン川の渡渉によって、イスラエルの民は、もはや後戻りできない歩みへと入っていきました。実際、ヨルダン川の水は、以前のように、川岸いっぱいに満ちて濁流と化し、彼らはもはや引き返すことができませんでした。それは新しい出エジプトというべき出来事、私たちも神の招きに応じて踏み出す時に、決して逆戻りのできない、神の力によって引き出され、ただ前進するのみの、新しい歩みへと入っていくのです。
だからこそ、それは、しるしとして記憶に留められるようにしなくてはなりません。その出来事を知らない人たちに、神がこのようなことをしてくださった。神がこのようにして、新しい人生の一ページを開いてくださった、と伝えられるようにしなくてはならない、ということです。彼らはそれを自分たちが実際に足で踏んだ、ヨルダン川の底の十二の石重ねてモニュメントとすることで行ったのです。それは、単に現在の世代の経験というだけではなく、イスラエルの将来の者たちに対する証しであり、励ましでした。
2.主を恐れるため(4:15-24)
この出来事によって、モーセの後継者としてのヨシュアの権威は確立され、全イスラエルは、神がヨシュアを大いなる者にされたことを確認しています。ヨシュアと共に神がおられることを覚えて、神の民は恐れました。しかしヨシュアが、神の命に従って用意した石は、ヨシュア自身ではなく、神の業に注目させるものとなったのです。恐れるべきは、ヨシュアではなく神でした。イスラエルの民は、その石を指し示して、自分達の子孫に、神がヨルダン川の水をからし、乾いた地を渡らせた、その業を永久に語るように教えられたのです。かつての紅海渡渉のように、これは、「主の手の強いこと」を証し、主を恐れさせる(24節)信仰的な遺産だったのです。
私たちにも、この石は何ですか?と子どもに聞かれ、それについて説明できるものが必要なのでしょう。それは神が私をエジプトから連れ出し、後戻りのできない新しいカナンの地に導き入れてくださった、記念の石である、と語るものです。霊的な暗闇から光りの中に、肉に属することから御霊に属することをひたすら考える人生に導き入れてくださった記念の石、そんな石が必要です。
そのような意味で、教会は建たない、あるいは教会を建てることはできない、と言われたこの二子玉川の地に、30年間に、全くのゼロから教会をスタートさせ、教会が立ち上がり、さらにスタートから13年目に会堂を設けるに至ったことは、たとえそれが大したものではない、たとえて言えば、見栄えのしない川底の十二の石を積み重ねたようなものであったとしても、神が、働いてくださらなければ成し遂げえない出来事でした。そしてその13年目が新しい転機になったことも、確かなことでした。それは神が、私たちと共にあり、主の手は強いことを知る、いや子々孫々に語り伝えるべきしるしとなったのです。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヨルダン川の終点はどこになるでしょうか?①地中海、②死海、③紅海、答えは②死海です。では、今日の聖書クイズを一つ、ヨルダン川は、全長何キロに渡って流れる川でしょうか?①200キロ、②300キロ、③400キロ、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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