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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

ヨシュア記22章

2019年03月12日 06時34分29秒 | ヨシュア記
ヨシュア記22章
ヨシュア記22章 東側の民の記念碑
<要約>
おはようございます。ルベン族、ガド族、マナセの半部族の三部族が、約束の地カナン占領の戦いに出ていく前に約束したことがありました。彼らは、その約束を最後まで守ったことがわかります。彼らに見る神の民の性質は、約束を守り抜くそれであり、また理性的に対処し物事を解決するそれであります。神の民がいかに人生を生き抜くか、教えられるところではないでしょうか。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

 イスラエルの戦いが終わった。神は最後まで約束を守られた。そしてルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族もまた、初めに他の民と交わした約束を守り続けた。彼らは、いよいよ、自分たちの土地、ヨルダン川の向こうに戻っていく。
1.自己中心性を乗り越える
 この世に、他人の苦労をしょってくれる人間などなかなかいるものではない。そういう意味で、彼らは、自分たちの安住の地を、ヨルダン川を渡る以前に手に入れながら、他の部族の戦いを共に戦う約束を守ったのだから、奇特な心がけを成し遂げたと言わなければならない。それは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストを思わせるような働きである。普通、人は余計な苦労は負いたくないと思う者であろうが、神の民の特色は、罪人の性質である自己中心性を乗り越えていくことだ。人間自分のことばかり考えるのは自然なことで、それが人間といし舞えばそれまでであるが、そのような罪の現実に聖霊の助けによって乗り越えていく、主の聖めの歩みを進むのがキリスト者というばきであろう。自分の損得を考えて物事を進めていく世間の中にあって、神の民のあり方は、助け合いであり、しばしば損をするような仕事にも協力していく。イエスの弟子になることは、クレネ人のシモンのように十字架を負える人間となることである。大切なのは、パウロが勧めるように、具体的な主の兄弟姉妹に対する愛を実践することだ(ガラテヤ6:10)。何か不特定多数の人類愛に燃えるのでも、世の人々に殊更愛想を振りまくのでもなく、今まさに共に生きている、共に教会を建てあげている兄弟姉妹に対する愛情を忘れないことだ。そうすれば、私たちの姿を見て、世の人々がそこにイエスの弟子であることの証を見るのである。
2.真実をクールに語る
 ところで、彼らは、ヨルダン川の向こうに戻っていくと、そこで、新しい祭壇を築いた。それは、他の部族には、異なったいけにえをささげるための、神に対する反逆とみなされた。そして彼らがまさに攻撃を受けようとした時に、それは、いけにえをささげるための祭壇ではなく、自分たちの歴史の確認としての、また証拠としての祭壇であることが説明され、理解されていく。つまりヨルダン川の東側は、果たしてイスラエルの一部なのか、わからない時代が来るようなことがあってはいけないということであった。その説明は、イスラエルの地にただ一つの祭壇のみを求める他の民族の理解を得るところとなった。
 大切なのは、衝突が回避されていく際の双方の態度である。レビ、ガド、マナセの半部族を誤解し、攻め滅ぼそう憤った他の部族には、感情的になりながらも、彼らの説明に耳を傾ける心があった。よくありがちなのは、相手の弁明に耳を貸そうともせず、ただ一方的に敵対感情をエスカレートさせ、相手を攻撃してしまうことである。一度感情的に反応してしまうと、もはや理性的な判断力を一切働かないことがある。せめて、また聞きで物事を判断せず、問題を感じる当事者から素直に事情を聞く心を持ちたいものだが、まずはそういうことはない。
しかし、神の民はそうではないし、クリスチャンになり神の子とされたのならば、この事例を範とする心は持ちたいものだ。ルベン、ガド、マナセの半部族が自分たちの弁明を始めた時に、今まさに攻め立てて滅ぼそうという憤りの内にあった神の民は、静かに耳を傾け、語られることを理解していくのである。一方的に聞かされた話を鵜呑みにせず、直接確認する心を持つかどうか真の神の民の証拠でもある。
神の民、いわゆるクリスチャンも色々である。イエスは今の世にあっては、神の民の中に独麦も混じっていると語ったが、あるいはと耳を傾ける力が真の神の民の性格としてあることが、神の民であることの証なのである。何かお互いの間に折り合わぬことが出てきたら、そこでお互いに耳を傾けあうことができるか、そして神にあって一致できるか、重要な点である。
そしてこうした彼らの態度の根本に、やはり「主にすがる」という価値観が深く養われているところがあることに注目すべきなのだろう(5節)。徹底して、私たちの働きは人間の力によるものではない。人間は、迷い易い者であり、弱い者であり、愚かな者である。ただ主にすがる者であることを自覚し、そのように生きるところに人間が物事を正しく進めていく力がある。神の民は、実にクールである。理性的な知恵者である。人間的弱さを弁えながらも、物事を建て上げる心を持った者として歩ませていただこう。

ヨシュア記21章

2019年03月11日 07時11分50秒 | ヨシュア記
ヨシュア記21章
ヨシュア記21章 レビ族の相続
<要約>
おはようございます。土地の相続が終わり、「主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した」と結ばれます。神は約束を果たされるお方。主イエス・キリストにある恵みも、皆私たちに実現するものと理解すべきでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.レビ族の土地の分配
 土地の分配がほぼ終わりに近づくと、最後に、祭司の役を務めるレビ族がモーセに自分たちが約束された土地を求めてきた(民数紀35:1-8)。そして彼らは、全部族の土地の中に、48の町と、その周囲に放牧地を与えられた。いわゆる農地ではない。彼らは放牧を生活の糧とした。また彼らはイスラエル中に散らされ、神のことばを分かち合う者となった。
4-8節は、レビ族のケハテ、ゲルション、メラリ、そしてアロンの子ら四氏族への町の分配について語っている。レビ人の中でも特別な役割を持っていた「アロンの子孫」は、エルサレムの神殿近く(南部)に配置されることになった。またケハテ族は、レビの二番目の息子の子孫で、契約の箱と他の幕屋の備品を運んだ氏族である。彼らは、初期イスラエルの礼拝の最初の中心地となった中央丘陵地帯を与えられている。また、ゲルション、メラリの諸氏族は、それぞれ北部、東部の町々を与えられている。
以下9-43節は、四氏族それぞれに与えられた町のリストである。アロンの子孫(10-19節)、ケハテ族(20-26節)、ゲルション族(27-33節)、メラリ族(34-40節)それぞれに、町が与えられている。
2.約束は果たされた
 全ての町と領土の分配が終了した後、著者はこれまでのことを振り返り、要約的に次のように述べている。「主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した(45節)。」神は約束を果たされたのだ。その約束は最初アブラハムに与えられ(創世記13:14-17)、その子孫に与えられたものである(創世記17:8)。その約束に基づいて、モーセはイスラエルを引き連れてエジプトを脱出し、約束の地カナンへと向かい、ヨシュアがその働きを引き継いだ。そして約束を信じる戦いを戦い抜き、その土地を自分たちのものとしたのである。そういう意味で、まずこのリストは、神の約束の確かさを強調しているのである。
 また、神は約束を守って、その戦いを終わらせ、周囲の者から守って、安住を許された。
神は土地の所有のみならず、敵からの「平安」をも約束していた(申命12:9-10)。神の約束の実現は、三度強調されている。神の約束された「すべて」は、まさに皆実現したのである。
3.神の言葉に懸ける
こうしてこの個所を読む私たちも、神は約束されたすべての良いことを、何一つたがわず、すべて実現されようとしていることを信じてよい。しかし、私たちにはそのような約束への信仰もないし、期待もないことがある。深い不信仰というべきか、諦めというべきか、今の自分と自分にまつわる状況に何一つ期待せず、感情的にも冷めてしまっている、ことがあるのではないだろうか。
しかし信仰は一種の賭けである。神の約束を思いめぐらし、静かに、これを熟考することにより、これにすがる以外に自分の救いの道は無いと決断することである。他に頼るものがあるのならば、そうすればよいだけのことなのだが、そうではないのだから、やはり、神の約束に、自分を賭けていくしかない。それは弱い言い方かもしれないが、どん底に落ちたものにとってはあり得ない道を、神の言葉に懸けて切り開いていく積極的なものなのである。私たちは霊的な約束の地を前にさ迷うことなく、約束の地を受け継ぐために、聖霊による戦いを戦い抜かなくてはならない。今日も神の約束に懸けていくこととしよう。

ヨシュア記20章

2019年03月11日 07時11分12秒 | ヨシュア記
ヨシュア記20章
ヨシュア記20章 逃れの町
 <要約>
おはようございます。聖書の裁きの原則は、二人以上の証人無くして訴えを取り上げてはいけない、また疑わしきは罰せずにあります。しかし、人間社会には、聖書が語る最低限の正義すら無視されている現実があります。人間社会に光が与えられるために、もっと深く聖書に聞き、聖書に従う必要があるのでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.逃れの町:疑わしきは罰せず
カナン占領後のイスラエルの土地分配は、19章で終わる。20-21章は、この約束の地の一部を特別な目的のために取り分ける、つまり逃れの町を定めるものである。これはすでに民数記35:9-15や、申命記4:41-43、19:1-10にも述べられており、実際に町は、ヨルダン川の東に3つ、西に3つもうけられた。
その目的は、誤って、知らずに人を殺した場合に、殺人者が盲目的に復讐する者の手から逃れることができるようにするためにある。ただそれは、殺人者が裁きから逃れられるためではない(5節)。罪を帳消しにするのではなく、公正な裁きへつなげるための一時的な保護区である。疑わしきは罰せず、というわけだ。
とは言っても、ここから過失に対しては神の守りがあるけれども、故意の罪に対してはないとか、旧約には「目には目を、歯に歯を」という厳しい原則があるが、新約では、イエスの十字架によって全て罪は赦される愛の教えがあるといった言い方もできない。
2.神は愛である
 たとえばカインの場合、カインは過失で弟を殺したわけではなかった。むしろ、以前から弟を憎み、殺す機会を伺い、計画的に殺した。しかし、そのカインに神は、「目には目を、歯には歯を」という同害報復法を適用されなかった。確かに、カインは、弟の血を吸った土地に呪われ、土地を耕しても、もはやカインのためにその力を生じない、という罪の結果を刈り取ることになったが、神は、カインが人の手によって殺されることのないように、カインに復讐する者は、その七倍の復讐を受ける、とだれも彼を殺すことがないように守りを約束された。また土地は、呪われたとは言うものの、実際にはカインは「町を建てた」とある(創世記4:17)。つまり、カインは、いのちも生活も保障されている。これをどう考えるか。彼は、ヨシュアの時代であったならば、いわゆる過失ではない、故意の殺人であったのだし、民数記35章の定めからすれば、極刑に定められる者であった。しかし、神の愛の精神は、旧約においても新約においても変わらないもので、神は故意の罪であれ、神の前に出て悔い改め、神を呼び求めるものには、救済措置をとられる例として見ることができる。
3.悔い改めを受け止める神
過失の罪はよいが故意の罪は決して赦されない、と聖書は言わない。もちろん、神に事の大小がわからないというわけでもないのだろう。しかし神にとって、過失にしろ故意にしろ、我に返った時に、その人がどのような態度を取るかが問題なのである。そのよい例話がマタイ20章にある気前の良いぶどう園の雇い主の物語であろう。雇い主は、早朝から汗水たらしてしっかり働いた者にも、昼から働きに来た者にも、夕方仕事が終わる一時間前に働きに来た者にも同じ1デナリを日当として支払っている。朝から来た者が不公平であると文句を言うと、私は「気前が良いのだ」と答える。これは、神の気前の良さを語っており、いつでも悔い改める者にはチャンスを惜しまないお方であることを示している。実際十字架につけられた強盗が、死ぬ間際に悔い改め、パラダイスにイエス共に行くことが約束されている。
重要なのは、その十字架の罪の赦しは、私たちにも有効だ、ということだろう。そして、6節「その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで」とある。過失が認められ、公正な裁きが行われるまで、あるいは、私たちにとって、その時の大祭司というのは、キリストであるからキリストが死ぬまで、である。キリストが死ぬことはないから、それは実に確かな保障である。
人間は過去を問題にするが、神は未来を問題にする。そのような神の愛が本当にわかるなら、人は、自らを完全に神に献げることを惜しまないだろう。真の悔い改めは、計り知れない命ある人生を生み出す。大切なのは、神との語り合いの中で、自らの人生を振り返り、神の裁きを受けることをよしとし、神の愛に感じて、新しい人生へと進ませていただくことだ。

ヨシュア記19章

2019年03月11日 07時10分31秒 | ヨシュア記
ヨシュア記19章
ヨシュア記19章 各部族の相続地
<要約>
おはようございます。今日は聖書地図を開いて読んでみたいところではないでしょうか。またこれらがヤコブに祈られた祈りの成就として、読んでいく時にこそ、最初の読者が得た霊的真理と感動を共有できるように思われます。彼らは何よりも旧約聖書に通じる民でした。私たちもそういう意味では旧約聖書を暗唱するほどに読む必要があろうかと思います。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.シメオン、ゼブルン、イッサカル、ナフタリの相続
イスラエルそれぞれの相続地が確認される。シメオンの相続地は、ユダの相続地の中に割り当ての地を持ったとされる(8節)。不思議なものである。ヤコブの祝福の祈りが重ね合わされる部分がある。ヤコブは祈っている「シメオンとレビとは兄弟。・・・私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」(創世記49:5-7)ヤコブの祈りのとおりに、レビは相続地を持たず、シメオンはユダの相続地の中に自分達の相続地を持つように散らされた。
 だがゼブルンは「海辺に住み、南の境界はシドンにまで及ぶ」(創世記49:13)と祈られたが、実際に海辺に住んだのはアシェルであり、南の境界もツロを越えることはなかった。神のみこころにかなう祈りのみが、実際にそのとおりになっていく、と理解したらよいのかもしれない。私たちが祈ったことで、祈りが聞かれた、聞かれなかったと言うことは多いが、実際には全て聞かれている。そして私たちの祈りの熱心さによるのでも、祈りの積み上げによるのでもなく、ただ神のみこころにかなう祈りがなされるならば、それは、あたかも聞かれたかのように実現していく、ということである。
 イッサカルについて、ヤコブが祈ったことは「イッサカルはたくましいろば、二つの鞍袋の間に身を伏せる」(創世記49:14)である。これは、難解なことばとされてきたが、創世記49章を基本的に土地相続についての預言とすれば、イッサカルがマナセの二つの相続地に挟まれるような形で、低ガリラヤ東部を相続地として得たことになるだろう。
 ナフタリについては、「放たれた雌鹿、美しい子鹿を産む」(創世記49:21)と語られている。これは文語訳では、「彼よきことばをいだすなり」とされ、そのように訳し出すことも可能ではあるが、文脈に適合しない訳とされてきた。しかし、「よきことば」をイエスと考えれば、ナフタリの相続地(上・下ガリラヤ)から、つまりナザレからイエスが現れるという預言的なことばと理解することもできる。
 私たちの祈りは決して無駄にはならない。大切なのは神の御心に沿って祈られるか否かにあるのだろう。神と良き時を過ごす、というのは、神の御心を知り、神の御心に近づき、祈るべきことを教え悟らされ、祈っていくことに他ならないのである。。
2.ヨシュアの相続
 イスラエルがすべての相続地の割り当てを終えた後、イスラエル人は、それで解散とはならなかった。彼らは指導者ヌンの子ヨシュアに、ティムナテ・セラフの町を与えたという。彼は割り当ての権利を控えて来たのである。確かに、指導者は、最後まで神に従い、指導の任を果たす必要があり、自分の取り分を正当に主張する権利があっても、それは最後にならなければならない。興味深いことに残り物に福があるというわけではないが、ティムナテ・セラフは、「ありあまるほどの部分」という意味である。
 ともあれ、約束の地カナンを征服するように導いたヨシュアに対する礼を尽くす、そんな心をイスラエル人は持っていた。ヨシュアはそれだけのことをした、ということもあるが、それだけのことをしても、心遣いも礼もないことはある。イエスが10人のツァラアトに冒された人を癒した時に、帰って来て礼をしたのはその中のたった一人であったように、心遣いの欠けた現実はあるものだろう。ヨシュアが、民の割り当てをすべて終えた時に、イスラエルの民がヨシュア自身の祝福を考えたように、教会においてもそうでありたい。
パウロも言う。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。・・・私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」(ガラテヤ6:6、10)牧師の生活は、信徒が考えなければ誰も考える人はいない。牧師が信徒のために時間を注ぐのならば、信徒も牧師の配慮に、感謝をもって心遣いをしていく必要があるだろう。
「彼はその町を建てて、そこに住んだ」(50節)「こうして彼らは、この地の割り当てを終わった」(51節)実に、相続の割当が完了したのは、イスラエルの民と指導者が安住の地を得た時である。そういう意味で、教会全体が、主の満たしを受ける事が大切である。信徒も祝福を受け、牧師も配慮を受けていく。完成されていく教会であろう。

ヨシュア記18章

2019年03月11日 07時09分58秒 | ヨシュア記
ヨシュア記18章
ヨシュア記18章 ベニヤミン族の挑戦
<要約>
おはようございます。周囲が主の祝福の与る中で、自分はまだ何も、ということはあるものでしょう。なかなか一歩を踏み出せない。しかし、神の祝福は確かであり、その祝福を手に出来ると約束を理解していても、その最初の一歩を踏み出さずに、祝福の実現もないことは確かです。まずは、なすべきことを書き出して見ることでしょう。そして、自分の力ではない、神の導きによる一歩を踏み出すことも大切です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.占領に手をこまねる部族
 エフライム地方にあるシロの町は、現在のキルベト・セイルンの遺跡のある所とされている。カナン征服後は、ここが本営となり、会見の天幕が立てられている。シロはこの時からエリの時代まで、イスラエルの宗教と政治の中心地となった。そして会見の天幕ももはや移動されることがなく、この地にとどまった。後に、それが「会見の天幕」とは呼ばれず、「主の宮」(1サムエル1:9)と呼ばれるようになったのは、そのためであろう。
 イスラエルは12の部族がいたものの、すべての部族が同じ力量、同じ動機づけを持っていたわけでない。カレブのような強いリーダーシップを持ったユダ部族、人数的にもパワーのあるマナセやエフライム部族がある一方で、この章に描かれるように、相続地を自分のものとするため、ヨシュアによって具体的に行動を促される7つの部族もあった。そこでヨシュアは、残りの部族への割当と占領を促していく。ベニヤミン族(18:11-28)、シメオン族(19:1-9)、ゼブルン族(19:10-16)、イッサカル族(19:17-23)、アシュル族(19:24-31)、ナフタリ族(19:32-39)、ダン族(19:40-48)、と次章まで続く内容となっている。
ヨシュアは言う。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。」カレブのように、勇敢に攻め続け、自ら約束の領土を手中にしていくリーダーがいる中で、いつまでもぐずぐずと手をこまねいている者たちもいた。ここでヨシュアは、単に叱咤激励しているのではない。「部族ごとに三人の者を出しなさい。その地を行き巡り、その地について書き記し、私のところに戻って来るため」(8節)と具体的に、指示を出している。占領すべき土地の目標を与えているのである。
2.ベニヤミン族
 具体的に目標が示される。まず、ベニヤミン族に割り当てられた地。それは、それほど大きくはない。北の境界線は、ヨセフ族の領土の南側に接し(12、13節)、南の境界線はユダ族の領土の北側に接する(15-19節)、また、西の境界線は、ベテ・ホロンからキルヤテ・エアリムまでの短い距離で(14節)、東の境界線はヨルダン川に接する(20節)。これらには、全部で26の町が含まれていたが、二つのグループに分けて、記録されている(21-28節)。そこに何の意図があるのかは、わからない。
 ただ記録されている町々は、聖書史的には興味深いものである。ギブオンにはラケルの墓がある。ミツパは、祈りと礼拝の場所(1サムエル7章)、軍事的、政治的な要衝(1列王15:22)としてしばしば旧約聖書に登場してくる。ギブアはサウルの出身地である(1サムエル15:34)。
 彼らの占領する土地が、いずれイスラエルの歴史を刻む土地になるなど、一体当時の誰が思い得たことであろうか。初めの一歩は、大変な苦労であるかもしれないが、やがてそれは実り多い結果をもたらすのが神のご計画である。与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか」この一言に応じて、割当の地を行き巡り、調査するところからすべては始まった。最初の一歩を踏み出すには勇気が必要だ。それがどのような結果をもたらすかも私たちはわからない。後にそれが多くの実を結ぶと、信仰を抱いたとしても、実際にその一歩を踏み出さなければその結果は得られない。カレブのように大きなことはできないかもしれない。マナセやエフライムのように大きな挑戦はできないかもしれない。しかし、神の約束が確かであることを信じ、神が私たちと共に戦ってくださることを信頼し、ただ信仰により、最初の一歩を踏み出すことをよしとしよう。