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ヨハネの黙示録12章

2021年09月16日 06時57分02秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録12章 天上の戦いの勝利
1. 女と竜(12:1-9)
天に「巨大なしるし」つまり、「ひとりの女」と「大きな赤い竜」が現れた、と言います。まずここに描かれた登場人物をどう理解するか。こうした黙示録の象徴的な表現を理解するために、ジュィッシュ・トラディション、いわゆるユダヤの古典文学との関係を調べる研究があります。つまり旧約聖書の各書との関係、また、当時、ユダヤ人が聖書と平行して読んでいた文学作品との関係を調べるのです。というのも、これらの作品に出てくる象徴的な表現と黙示録の表現には類似性があって、ヨハネもこういう作品に触れていたと考えられるからです。
 そこで「ひとりの女(1節)」と「竜」という登場人物については、基本的に創世記3:15の「女とサタン」との関係で考えるわけです。また女を説明する「太陽をまとい」などの記述も同じように考えると、それは詩篇104:2との関係で考えることができます。つまりイスラエルの伝統の中では、真のイスラエルは太陽の光のように神の栄光を輝かせたと考えられていました。同様に、「月」は暗黒の支配者、暗黒の力に打ち勝つことの象徴、「12の星の冠」は、ステファノン、栄誉のしるしの冠で、イスラエル12部族を象徴していると理解されます。さらにこの女性は「みごもっていた」とあります。となるとこの女は、メシヤを産み出した真のイスラエルであるとなるのでしょう。イスラエル人の中でも、まことに神を敬い、神を信じ、神に仕えた、真のイスラエルと呼ばれる人たちは、世俗化したイスラエルに信仰が回復されることを祈り、メシヤを待ち望み、そのために苦しんだ歴史があります。その真のイスラエル人たちの切なる祈りの中にメシヤが生まれたのです(5節)。となると「女の子孫」は、メシヤから生まれた、現在に至るまでのキリスト者だと理解することができるわけです。
次に「竜」については、それは、人類の歴史の始めに、アダムとエバを惑わし、堕落に至らせた「古い蛇」、「サタン」であると説明されています。「赤い」は、ギリシア語で「ピュロス」、火のような赤で、「殺戮」を象徴することばです。まさにサタンの形容詞としてふさわしいものでしょう。さらに「七つの頭」、ユダヤで七は完全数ですから、それは大変賢い、しかし狡猾な存在であることを言っています。また「十本の角」は力の象徴で、この世に対する支配権を持っていることを意味します。実際「冠」と訳されたギリシア語は、ディアデーマ、つまり王権のしるしとしての冠です。サタンが好き放題なことをしている世界に、人は生きている、ということになるでしょう。
2.女と竜の戦い(12:10-17)
大切なのは、両者の間に戦いが起こることです。竜はメシヤを滅ぼそうとします。しかし、失敗して、地に投げ落とされてからは、真のイスラエルと、その子孫であるキリスト者を滅ぼそうとするのです。となるとここは、先の11章の二人の証人の話の延長ですね。先も述べましたが、そのようなサタンの横暴にもかかわらず、真のイスラエルは守られていくドラマが展開されます(16節)。しかし、竜も負けてはいません。彼は激しく怒り、キリスト者を滅ぼそうと追跡するのです。キリスト者危うし、その運命いかに、それが明日お話する13章の記事となっていますね。
ともあれ、この12章は、天上での目に見えない戦いを描いていて、そこでの勝負はついてしまった、今やその戦いは、竜が地に落とされてしまったので、この地上で展開されている、という点が重要です。この地上は様々な矛盾と不本意な出来事に満ちている、それは、サタンの断末魔の反逆であって、天ではもはやそうではない、ということです。7節、「天には、もはや彼らのいる場所がなくなった」とあります。また10節、「昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が投げ落とされた」とあります。なぜか?それは、十字架のキリストが、昇天し、天に戻られて、十字架による罪の赦しが完全であることを宣言されたからです。もはやだれも天において私たちを告発できる者はいないのです。告発者は天においては居場所を失い、今地にあって、自分の時の短いことを知り、最後の反撃をしている、というわけです。そのような意味で、神を信じ、神の側に立って生きようとする者にとって、この地上は生きにくい世界、戦いを覚悟しなくてはならない世界ということでしょう。けれども、天においてすでに勝負はついている、先も見えているというわけですね。では今日もよき一日となるように祈ります。


<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「11章の二人の証人のストーリーは、旧約聖書のどんなストーリーを踏まえて書かれていましたか?」答えは、ゼカリヤ書4章でした。ゼルバベルと大祭司ヨシュアに重ねられる、モーセとエリヤ、真のイスラエルの代表とされる人々です。では、今日の聖書クイズを一つ。一人の女と赤い竜の戦いは、旧約聖書のどんなストーリーを踏まえて書かれていますか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録10章

2021年09月14日 07時05分25秒 | ヨハネの黙示録
1.もはや時は残されていない(10:1-7)
黙示録の一つの特徴は、著者ヨハネの視線が、天と地、交互に向けられながら、神の啓示を解き明かしていくことです。この10章では、再び視線は天に向けられ、そこで起こっている事柄が語られます。
1節、「もう一人の強い御使い」は5章2節では、「巻物を開き、封印を解くのにふさわしいものは誰か」と大声で告げています。ここでこの御使いは、一方の足を海に、他方を地に下ろしています。それは、全世界を支配し、そのすべてにかかわるメッセージを持っていたことを象徴しているのでしょう。そして何か意味あることを叫ぶのですが、それを書き留めることは禁じられます。ただ一つ許されたことは、「もはや時が残されていない」ことを私たちに伝えることでした。ここで「時」と訳されたギリシア語はクロノス。経過する時間としての時です。つまりこれ以上、時間、クロノスは存在しない、終わりが来たということでしょう。侵略、戦争、飢饉、疫病、様々繰り返されてきた人類史の危機的状況の中で、人類には、悔い改める機会が十分与えられてきて、もはやこれ以上の延期はないというわけです。そして6章10節で聖徒たちが「聖なるまことの主よ。いつまで裁きを行わず」と叫ぶのですが、その問いに答える時が来た、と言うわけです。
7節、神は、いよいよ奥義を実現されます。奥義は、ギリシア語でムステリオン、いわゆるミステリー、隠された秘儀を意味します。それは一般的な意味では、ごく限られた人しか達することのできない知識を指しています。しかし聖書ではそうではありません。確かに、それは代々に渡って長い間隠されてきたことですが、今や、イエスによってすべての国の人々に知らされたものとされます。使徒パウロは、それを福音であるとし、その中身は、キリストにある罪の赦しのみならず、キリストにあって異邦人とユダヤ人が一つとされることであると語りました(エペソ3:1-5)。つまり、ヨハネの黙示録では、7章9節で述べられたあらゆる民族、国語、部族の者がキリストにあって一つにされるという、教会の完成について語っているのです。どうでしょう。もはや時が延ばされていないというのは、地球を滅ぼすカウントダウンが始まったというのではなくて、教会の完成がもう間近だ、と言うのです。黙示録のメッセージを完成ではなく、滅びを伝えることが中心、と真逆に受け止めている人は多いのではないでしょうか。黙示録は1章で述べたように、基本的に、読者に幸いを語ろうとしているのです。
2.とって食べよ(10:8-11)
 8節、ヨハネはその大声で語るみ使いに近その手にある巻物を受け取るように語られます。するとみ使いは、それを与えて「取って食べよ」と命じるのです。古い文語訳の聖書では「食い尽くせ」つまり完全に消化して自分のものとせよ、と言っています。「腹には苦いが口には甘い」というのは、エゼキエル書に出てくる表現(3:1-3)を使ったもので、旧約聖書のエレミヤも同じ経験をしています。もちろん、エレミヤの経験は文字通りというわけではなく、聖書を読み味わうというものでしょうが、エレミヤは、神のことばを食べるとそれは楽しみとなり喜びとなったと語っています(エレミヤ15:16)。しかし、この黙示録では、それは単に甘いだけではなく、苦さもあるのです。よく言われることは、悔い改めない人々に対する神の怒りと裁きのメッセージが同時に語られているからだというものです。罪の赦しを信じ受け入れる人にとって、それは甘い優しいことばですが(詩篇19:9-10)が、拒否する人には、厳しい罪の告発であり、その報いを明らかにするものだからだ、と(2コリント4:1)。けれども、注意すべきは罪の赦しを信じ受け入れているヨハネのお腹の中で苦くなっていることです。ですからこれは、福音そのものの作用というよりも、福音を語る人の経験を語っているのです。つまり、人に向けて罪の悔い改めを語ることは、それほど用意ではないこと、そしりを受け、嘲りを受ける、そんな苦みを味わうことだ、と言っているのです(エレミヤ9章)。確かに、罪の赦し、そんなものはいらないよ、死んだら終わり、それでいいじゃない、と耳を貸そうとしない人はいくらでもいます。それは、福音を語る者にとって、本当に残念で、悲しく、苦い経験です。けれども聖書は語るのです。たとえ皆が嘲って、聞こうとしない、そうであっても、福音の完成は近づいている、と。滅びが近づいているというのではなく、キリストにあって一つとなる祝福の時が近づいている、というのです。だからこそ、福音の恵みを語らなくてはならない、ということでしょう。では今日も良い一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「9章の背景となるいなごの災い、そこには、旧約聖書の何書を背景としたパロディがありますか?」答えは①ヨエル書でした。ヨハネは、旧約聖書にある様々なモチーフを使いながら、黙示録を書き進めているといえます。では、今日の聖書クイズを一つ。神のみ言葉を食べて、「それが楽しみとなり、心の喜びとなった」と語っている旧約の預言者は誰でしょうか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録9章

2021年09月13日 07時01分06秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録9章 主の解放、償い
1.食い荒らすいなご(9:1-11)
第五のラッパが吹き流されると、一つの星が天から落ちたと言います。しかもそれは、無機質な物体ではなく、生き物です。鍵を手にしていて、底知れぬ穴を開くとあります。古代のユダヤ人は、死人や悪霊の住む場所として、底知れぬ穴があると考えていました。ですからそこから出て来たいなごは、悪霊のようなものなのでしょう。何とも不気味です。彼らは、さそりが持つような力を持っていて、人間を食い荒らすのです。しかも彼らが苦しめるのは、神を信じない人々です。ただ、それは、5ヶ月という限定的な苦しみです(5節)。生命を奪うまでには至りませんが、死を願っても死ぬことのできない苦痛です(6節)。
 さて「そのいなごたちの姿は、出陣の用意が整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものをかぶり、顔は人間の顔のようであった。」「女の髪のような毛があり」歯は獅子のようで、鉄の胸当てをつけていると言います。なんとも、いただけない姿、形ですね。そして、底知れぬところの使いを王としている。一つ統制のとれた大群です。彼らの名はヘブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオン、どちらも、滅びとか破壊を意味することばです。なんだろう。ヨハネは、映画、新世紀エヴァンゲリオンに出てくるような怪物を見ているのでしょうか?
これもユダヤ人の知識的前提を抑えたいところでしょう。旧約聖書のヨエル書(1:1-5)には、食い荒らすいなごのイメージが出てきます。それはいなごの大軍勢によって農作物が被害を受け飢饉となって人々が苦しんだ時代に書かれたものですが、そこにはイスラエルを略奪するアッシリア軍が象徴的に語られています。ですから、黙示録のこの記述も、文字通り不気味な怪物が現れる、というのではなく、歴史上に繰り返される自然災害や侵略、戦乱のイメージを語っているに過ぎません。ただ、ここで大切なのは、苦しめられている対象です。つまり、この時代苦しめられていたのはキリスト者でしたが、その立場が逆転すると言っているのです。時代が変わって弾圧する者が弾圧される、これは確かに歴史的に起こってきたことですね。大戦中、宮城遥拝や従軍慰安婦、強制労働など他国の自由を踏み躙った日本や、民族的な弾圧を加えたドイツが、戦後いまだにその賠償を求められているようなものでしょう。
 ともあれ、七つのラッパに伴うしるしの細かな意味はわからなくても、全体の印象でとらえていくと、あれやこれやと思い当たることがあって、ああ、これも人類史の衝撃的で破壊的なシーンの数々であると理解することができるのです。
2.ヨエル書のメッセージを思い起こす(9:12-21)
ただ、注意すべきは、こうして封印に伴う災いの記事の後に、さらに詳しくラッパに伴う災いの記事を重ねて書いたのは、同じことを冗長に繰り返しているだけではないことです。ヨハネは先の8章で出エジプトのイメージを借りて、地上に起こる災いを詳しく描きました。旧約聖書の知識のない日本人にとって、それは恐怖感を与えるだけかもしれません。しかし聖書に通じたユダヤ人であるなら、その記事から出エジプト記を思い起こすことができますし、そうなれば、イスラエルの叫びに応じた、神の解放がもうそこまで来ているというメッセージとして受け止められるのです。同じように、この第五のラッパの災いも、旧約聖書の理解があれば、ヨエル書の預言を思い起こさせる内容になっています。そしてそこには、主が苦しみに償いを与え、繁栄を取り戻す恵みのメッセージがあります。つまり、さらに強い励ましのメッセージがあるのです。実に、日々の聖書通読の成果が問われるところですね。
6章では、正しく生きることが決して報われない、愛することが報われない、無駄死にだと思われる状況が続き、殉教者たちが我慢できなくなって叫んでいます。これに答えて、神は、7章で、約束の出エジプトが、もうすぐそこまでやってきていると語りかけています。そして、この8章からは、殉教者の苦しみが報われることを、ヨエル書を思い起こさせることで、語りかけているのです。ヨエルは言います。「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。あなたがたは食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。主があなたがたに、不思議なことをするのだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。」(ヨエル2:25-26)では今日もよい一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「黙示録のオリジナルリーダーは誰で、それはどんな意図を持って書かれましたか?」答えは1世紀のキリスト者であり、迫害の困難の中にあって信仰に立つことを促すためでした。では今日の聖書クイズを一つ。9章の背景となるいなごの災い、そこには、旧約聖書の何書を背景としたパロディがありますか?①ヨエル書、②イザヤ書、③エレミヤ書、答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。


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ヨハネの黙示録8章

2021年09月12日 07時03分12秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録8章 七つのラッパのしるし
1.黙示録の構造
黙示録は、よく整った構造を持っています。6章以降様々なしるしが出てきますが、そこには一定のパターンがあります。一つ目は7つの封印のしるし。二つ目にラッパのしるし、三つ目にぶちまけられた鉢のしるし、三種類のしるしが7度繰り返される7部形式のパターンがあります。8章を理解する鍵は、このパターンを理解することでしょう。
まず、7つの封印が開かれるたびに起こるしるしですが、これは6章から8章の5節まで続きます。封印が開かれるたびにしるしが現れます。それは、6章でも触れましたが、侵略、戦争、飢饉、疫病、そして終末のファイナル・シーン、様々な衝撃的なシーンの組み合わせで、人類の歴史を要約しています。続いてラッパに伴う七つのしるしが8:6-15:8まで、そして鉢に伴う七つのしるしが16:1-19まで。これらは、同じことを三つの角度から描いているものです。テレビドラマに例えて言うと、最初に、主題歌と共に番組の要所となる予告編があります。そして本篇が始まり、ドラマ終了後、もう一度主題歌とともに印象的なシーンが繰り返される、そのような流れと似ているのです。ですから一つ目の七つの封印のしるしは、人類史を簡単になぞる予告編のようなものです。二つ目の8章からのしるしは、本篇で、先のものよりも内容的に詳しくなっています。そして最後の、七つの鉢のしるし、これは要約です。一番印象的なシーンが繰り返されて、短い一章でまとめられるというわけです。
2.無駄な祈りはない(8:1-13)
 では、大きな流れを理解したということで1節から見ていきましょう。「子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ほどの静けさがあった。」最後の封印が解かれました。ここからは本編ですが、その最初に、聖徒の祈りに応える形で、ラッパが吹き鳴らされ神の裁きが開始される、という筋書きに注目されます。使徒パウロはローマ書の中で、「復讐はわたしのもの、私が報復する(12:19)」と神の言葉を引用しています、そして「悪に負けてはいけない、むしろ善をもって悪に打ち勝ちなさい」と勧めています。その際に、善を行うなら、「(悪者)の頭上に燃える炭火を積むことになる」と語っています。まさに、神を信じ、神の裁きに委ね、為すべき正しいことを行ってきた者によって、神のもとに積み重ねられる燃える炭火がある。そしてそれが神によって地に投げつけられる時が来る、ということです。長らく応えられない祈り、空しく消え去っていくような祈りがあるものです。しかし神が祈りを聞き洩らすことは決してありません。神はそれを金の鉢に蓄え続け(5:8)、この祈りに報いる相応しい時を待っておられるのです。
7節、第一の御使いがラッパを吹きならすと「血の混じった雹と火が現れた」と言います。黙示録を解釈する時には、ユダヤ人が持っていた知識的な前提を押さえることが重要です。それを欠いてしまうと実に荒唐無稽な解釈になりがちです。結局、普段の聖書通読の成果が問われるのが黙示録の解釈です。そこでこの箇所を読み、出エジプトの十の災害を思い起こした人は、かなり聖書を読む力の付いた人というべきでしょう。第1のラッパに伴うしるし、これは出エジプトの雹のしるし(9:13-35)。第2は、ナイル川が血に変わり魚が死んだしるし(7:14-25)、第3は、同じことを別の角度から述べていて、第4のしるしは、エジプト全土が暗闇で覆われたしるし(10:21-29)に一致します。第5のしるしは、出エジプト10:12-15のしるしに一致します。そしてしるしの程度は、6章の4分の1から3分の1と変化し、だんだん強くなっているのです。そして天からの警告が加えられています。
大切なことは、この部分がエジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルが解放される出エジプトの物語のパロディとなっていることです。そして読者は、ローマ帝国に苦しめられていたキリスト者だということです。となれば、そのメッセージは、最初の読者には、終末の恐怖を語るものというよりも、解放の時が近いことを語るものとして受け止められたことでしょう。誰の視点で読むか、まずはオリジナルリーダーの視点ですね。そうすれば、黙示録が基本的に解放の恵みを告げ知らせる書としての性質を持っていることがわかるはずです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「黙示録は大きく三つの部分からなっています。1-3章の七つの教会へのススメ、そして4章から始まる七つのしるしによる終末への喚起、そして最後の七つの教会の約束ですが、それは何章から始まるでしょうか?」答えは19章からです。天上での大賛歌と呼ばれる歌の部分から始まり新天新地のビジョンが語られる部分です。では今日の聖書クイズを一つ。黙示録のオリジナルリーダーは誰で、それはどんな意図を持って書かれましたか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録7章

2021年09月11日 07時07分35秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録7章 勝利の凱旋
1.印を押された者(7:1-9)
しばしば聖書の中で、数字の4は全体を意味することばとして使われます。御使いは霊的で、目に見えない存在です。そのみ使いが、四方の風を押さえている。それは恐らく、6章の前半部分に描かれた災いの拡大を押さえているのでしょう。世界が滅亡に向かう状況に、神が一人でも多くの人を救おうと抑止力を働かせている、と理解すべきところです。
そしてそこに2節、もう一人の御使いが登場します。大切なのは生ける神、という言い方。つまり、命のない、造り物の偶像に対比し、いのちあるまことの神、その神の印をもったみ使いが登場します。そしてその御使いは、先の御使いが四方の風を押さえる手を放す前に、神の印を、神のしもべの額に押そうとするのです(3節)。もちろんこれは文字通りに理解するものではなく象徴的な意味です。最も目立つ額に印をつけるというのは、災いから守られるべき人をはっきり区別することを意味します。そしてその人たちの数を数えると144,000人。これも実際の統計的な数ではなくて象徴的な数です。つまりある一定数を意味しているに過ぎません。ですから4節の「イスラエル」これも民族的な意味ではなく、神の民を意味する霊的、象徴的なものです。実際イスラエルの12部族という区分は、この時代には既に失われていました。そしてイスラエルの子孫という表現は、民族的な意味よりも、霊的な意味で使われるようになっていました。事実このイスラエルの部族の筆頭は、ユダ族です。もともと12部族は、ヤコブという人物の、12人の子どもたちに由来し、その長子はルベンですから本来はルベンが最初に来るはずです。それがユダから始まるのは、メシヤが出た部族だからです。つまりメシヤを中心とする霊的イスラエルという意味です。また、旧約時代の部族構成数を見ると、人数の差は歴然としていますから、どの部族からも12,000人もおかしな話です。ですからすべて霊的な意味に解釈していくわけです。というわけで
このイスラエルは、これまでの人類史の中で、神の民とされたすべての人と理解すべきで、神と子羊であるキリストの権威を認めた者たちのようですね。
2.この人たちは誰か(7:10-17)
13節、集められた人々の特徴がさらに語られます。彼らは「大きな患難を経てきた者たちで、子羊の血で聖くされた者たちである」と。つまりあらゆる部族、民族、国民から集められたその人たちは、6章の後半に出てきた迫害の試練を通り抜け、白い衣を着せられた人たちです。まさに目を覚まし、生きた信仰を持てと言われて、信仰を回復したサルディスの教会のような人たちですね。その彼らは聖所に仕えている、とされます(15節)。「聖所」はギリシア語でナオス、外庭を含めた神殿全体ではなくて、神殿本体の中でも神がおられる「至聖所」を意味します。つまり神に最も近い場所で昼も夜も仕えている。そして御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。つまり神も彼らを住まいとする、神が彼らの側で永遠に安らいでくださる、というのです。これは素晴らしい祝福です。迫害にさらされ信仰の忠実さを保っていたスミルナの教会にとっては、実に素晴らしい慰め、迫害の中で妥協し、またまどろんでいたペルガモンなどの教会にとっては、こうしてはおられぬ、神の祝福を逃してはいけない、と姿勢を正すイメージであったのではないでしょうか。
こうしてここは6章の殉教者たちの声に対する答え、21章でさらに詳しく描かれる、新天新地、終わりの祝福を先取りして語っているわけです。ちょうど、戦争映画を見ると、そのラストシーンにはお決まりの場面があって、軍隊が隊列をなして帰還してくる場面、続いて、彼らが家族と再会し、抱き合い、無事を喜び合い、日常に戻っていく場面が描かれることがあります。それと似ていますね。神を信じ、神に従う信仰者にとって、神の前に立つ終末の時は、恐ろしい裁きの座に立たせられることではありません。それは勝利の凱旋の時、戦いが終わって新しい日常へ戻っていく時なのです。では今日も良い一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「黙示録は大きく三つの部分からなっています。1-3章の七つの教会へのススメ、そして4章から始まる七つのしるしによる終末への喚起、そして最後の七つの教会の約束ですが、それは何章から始まるでしょうか?」答えは19章でした。では今日の聖書クイズを一つ。ヨハネは、7章で、信仰を持った者が与る終末の状態をどのようなイメージで描いていますか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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