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ヨハネの黙示録17章

2021年09月21日 07時02分15秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録17章 享楽主義の崩壊
1.大淫婦(17:1-6)
今日の17章から特別編となります。先の本編(6~16章)とでは、いささか異なる性質の内容なのです。ともあれ解説しましょう。
旧約聖書では、神の選びの民とされたイスラエルが、その契約を破って偶像礼拝をすることは、しばしば姦淫と表現されています。それはイスラエルが神の花嫁とされているからです。他方異邦人は神の花嫁ではないので、彼らの偶像礼拝は、無節操な遊女の淫行、あるいは不品行と表現されます。そこで2節「地の王たちは」は、イスラエルではなく、異邦人たちのことを言っていますが、「この女(大淫婦)と不品行のぶどう酒に酔っていた」というのは、まことの神に背き、偶像礼拝と罪の世界に耽っている様を言いたいのでしょう。
そこで「この女(大淫婦)の正体について、もう少し理解を深めたいのですが、まずこの大淫婦は、「大水の上」に座しています。「大水の上」は、15節に、「もろもろの民族、群衆、国民、言語」と説明されています。つまり地上の全世界という意味でしょう。そして「大淫婦」は、5節「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」また18節「地の王たちを支配する大きな都」と説明されています。当時、ローマはその豊かな富によって大バビロンと呼ばれていました。ですからこの大淫婦、緋色の獣に乗っているのです。当時、紫や緋色は、その染料が高価であったので、贅沢を象徴する色でした。また預言者イザヤは、罪を緋色(イザヤ書1:18)に例えています。享楽の富みに奢り高ぶった諸都市が想定されているのです。
2.これまでの流れでの位置づけ
6~16章までは、封印、ラッパ、鉢によって引き起こされる恐ろしい災いのたとえ話によって、終末へ向かう人類の歴史と裁きが要約されていました。そして迫害の試練に会い、苦しむキリスト者への励ましと希望が描かれていました。しかしこの17章からは、同じ終末的状況であっても、別のテーマ、つまり、苦難とは別の形の試練にさらされているキリスト者への警告が描かれています。それは、ローマ帝国などのような大都市の富と豊かさに与り、その平和と豊かさの中で、信仰的にぼけてしまったキリスト者に対する警告です。終末状況の中にあっても、すべてのキリスト者が苦しむわけではありません。信教の自由や民主化が蹂躙される国々がある一方で、それらはTVの向こう側の世界で、全く関わりもなく贅をつくした日々を謳歌する国々もあるのです。他人の痛みに無関心なサルディスの教会(3:1-6)や富みや豊かさの中に浸りきっていたラオデキヤの教会(3:13-22)は、まさにそのような誘惑の中にあったと言えるでしょう(3章)。ヨハネはローマ帝国に蔓延した豊かさに毒されていくキリスト者に警告を発しているのです。。
3.享楽主義の滅亡(17:7-18)
心すべきは、享楽主義はいつの時代も人の心を支配してきたことです。神に逆らう権力者たちは、富を巡って争いを続けてきました。しかしその結果は、自ら内部分裂を起こし、利害に対立し、崩壊してきたのです。彼らは昔はいたが、今はいない、けれども、また自然発生的に、女にまとわりつきながら共に繰り返し現れてくる存在です。またその権力者たちは、子羊に戦いを挑むが、子羊に勝つことはできない、と言います(14節)。獣と女は、滅ぶ定めにあるということでしょう(16節)。ヨハネの時代には、ローマが世界の征服者でした。その支配下にはローマに従属する国々とそれぞれの王たちがいました。この大帝国もその内部分裂から滅びていきました。それ以降の歴史も、世界を制覇した支配者たちが、出現しまた消え去る事の繰り返しでした。富が、人心を惑わし、国を滅ぼしていくのです。
人間の心には、もっとしゃれた家に住みたい、おしゃれをしたい、あるいは高学歴を身につけて、よい地位を得たいという気持ちがあるものでしょう。それは汚い欲望かというと、そうでもなくて、人間を向上させる大切な欲求でもあります。けれども、人は分を超えてそれを求めだす弱さがあるのです。向上心をどん欲な欲望に変えてしまう罪の心があるのです。楽しむだけではなく、虜にされてしまう弱さがあります。その弱さに、サタンはつけ込んでくるのです。世にあるものは、神が与えてくださったもの。それを楽しむことは神も喜ばれることでしょう。しかし、世の富や豊かさが私たちの感覚を狂わし、いずれまことの神に代わって、それに支配されてしまうことが問題です。すべてを与えてくださるのは神である、その神を恐れて歩む、これが人のあり様なのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「16章でぶちまけられた鉢の中身、これは何であると考えられますか?」答えは5:8によると、聖徒たちの祈りです(5:8)。では、今日の聖書クイズを一つ。「17章に出てくる大淫婦、これは、何の象徴と説明されているでしょうか」答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録16章

2021年09月20日 06時58分15秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録16章 ハルマゲドン
1.最後の審判(16:1-12)
先に、黙示録の本体の部分は、予告編、本編、おさらい編の三部で構成されることをお話しました。16章はおさらい編です。テレビドラマであれば、主題歌と共に、ドラマの印象的なシーンが再び流されている部分に当たります。ただ内容を見てみると、状態はさらに激しくなっています。予告編での災いは地の4分の1、本編では3分の1と限定的でしたが(8:10)、このおさらい編では、その災いはすべてに及んでいます。つまり、火事に例えると、家が盛んに燃え上がっているシーンが本編、おさらい編では、焼け跡を見せられているようなものです。
ともあれヨハネが強調するのは、こうなってしまったのは、繰り返し求められた悔い改めが起こらなかったためであると言います(9節、11節、21節)。また、この災いは、キリスト者の祈りに答えるものであったことが語られます。香として神の下に蓄えられた祈りは、ここですべて神によって清算されたということになるのです(ローマ12:20)。
このように語られる、神の最後の審判、皆さんはどのように考えられるでしょうか。人が死ぬことについては、誰も異論はないでしょう。誰も死を経験した者はいないにも関わらず、人はいずれ自分も死ぬと理解しています。しかし、神の裁きがあるということについては、半信半疑でいる、あるいは信じない人も多いでしょう。けれども裁きがないとしたら、この世の人生はあまりにも不条理というべきではないでしょうか。旧約聖書の詩篇や箴言では、悪者が栄える事に対して、やりきれない思いのあることが率直に語られています。古い時代の哲学者ですが、イマヌエル・カントは、「もし神と来生の希望がなければ、道徳的な理念は、どんなに立派なことを言っても、人々はそれに同意と賛嘆は示すけれども、だから自分もそう生きようという意図と実行の動機にはなり得ない」と言いました。神の絶対的な正義や裁きがなければ、道徳そのものが成り立たないというわけです。ヨハネは、7節、神の裁きは、キリスト者の願望なのではなく、真実であり、確信されることだと語ります。
2.ハルマゲドン(16:13-21)
さて、16節、ハルマゲドンという言葉が出てきます。かつて、このことばがメディアで盛んに取り上げられた時代がありました。一般的、この箇所は、「メギドの山」と解釈されています。ハルは、ヘブル語で山を意味し、マゲドンは、ヘブル語のメギドの音訳です。そこからハルマゲドンの意味は「メギドの山」と理解されるのです。ところが、イスラエルにメギドの山は実在しません。そこでこれを少し読み替えて、イルマゲドンとする解釈があります。イルになると「メギドの町」という意味になります。そしてメギドの町は実在します。そこはフェニキヤからエジプトへ至る幹線道路のつなぎの部分で、通商や軍事の重要な拠点です。また、戦争の勝敗を決める重要な戦略的拠点です。こうして、ハルマゲドンは、世界最終戦争が起こる場所だ、と解釈されることが多かったのです。けれどもよく読むと、ここに軍隊は集結しても、戦闘は起こっていません。しかも20節、「島は全て逃げ去り、山々は見えなくなった」と直ぐにファイナルシーンのカットに移っています。こうしてこれまでの流れで考えると16章はおさらい篇ですから、終結後の戦闘は、本篇の方に詳しい、つまり12章あたりに語られているものだと考えられます。となるとこのハルマゲドンは集結の場所で、戦いはここではない可能性もあります。そしておさらい篇であるとすれば、ハルマゲドンは軍隊集結のワンシーン、そしてファイナルシーンが続くわけですからその間のことは、本編に詳しいと考えるべきでしょう。となると連想されるのは、本編の12章にある目に見えない世界で繰り広げられた、竜と女の戦い、竜が負けて地に投げ落とされことが思い浮かべられます。
大切なのは、聖書の世界観は、二元的なことです。普通の人は、一元的に世界を見ています。目に見える世界がすべてだと考えています。しかし、聖書は、あなたの知らないもう一つの世界があること、つまり、目に見えない神がおられて、悪魔やサタンという存在がいて、死んだ人々も眠った霊として存在する二元的な世界観を前提としています。今の目に見える世界は、やがて終わるものですが、神がおられる世界は永遠です。しかも、その世界からサタンとも、悪魔とも呼ばれる存在は永遠に追放されて、イエスの罪の赦しを受け、変えられた者が招かれることを伝えています。世は滅びて終わりではなく、すべての人間に神の正義がもたらされる、帳尻が合わせられて、安息の恵みの日が来ると聖書は語っているのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「15章に出てくるガラスの海が、黙示録の中で最初に出てくるのはどこでしょうか?またそれはどのような場所を語るものでしょうか?」答えは、黙示録4:6で、それは、神の御座の前であると説明されています。では、今日の聖書クイズを一つ。「16章でぶちまけられた鉢の中身、これは何であると考えられますか?」答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録15章

2021年09月19日 06時58分13秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録15章 子羊の勝利の歌
1.出エジプトと黙示録(15:1-2)
15章は、14章の続きで、七つのラッパによる災いの締めくくり、激しく迫害を受けた信仰者が、解放され、天で勝利の歌を歌っている場面です。そしてここは、明らかに、出エジプト記の15章を下敷きにしたパロディですね。出エジプト記には、かつてエジプトの奴隷であったイスラエル人が、神の超自然的な助けにより助け出され、紅海のほとりで神の救いを賛美している場面が描かれています。ここでは、世の迫害から解放されたキリスト者が、ガラスの海のほとり、つまり神の御座の前で神を賛美しているのです。しかもその歌、モーセの歌に子羊の歌を加えたもの、要するに、出エジプトの際に歌われたモーセの歌の替え歌です。
2.モーセの歌と子羊の歌(15:3-4)
そこでその歌の中身に注目してみましょう。出エジプト記のモーセの歌では、神が苦しみから解放してくださった、神は悪い者を裁いてくださった、と歌われています。そしてイスラエル人の神は何と素晴らしいことかと、自分たちの民族の神を誇っているのです。ところが黙示録の替え歌は、もっと積極的です。苦しみから解放してくださった神様は素晴らしい、神は実に正しいことをなさる、と讃えているところは同じですが、さらに「ただあなただけが聖なる方です」(4節)と宣言しています。つまり他の神との比較ではなく、この世に神はただお一人としているのです。聖なる方、これはヘブル語ではカドーシュ。区別するという意味を持っていますが、「あなただけが区別され、抜きんでた唯一の神です」と言っています。ですからそのお方の前に「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します」と言っているのです。
また、黙示録では、モーセの歌と言わず、モーセの歌と子羊の歌と、子羊の歌を加えています。その意図はなんえしょうか?出エジプト記ではイスラエル人たちは、エジプトで奴隷状態にあり、虐げられ苦しんでいました。そして神がその呻き、叫びを聞いてくださって、解放してくださいました。それで彼らは、神の正しい裁きをたたえ、感謝する歌を歌いました。それがモーセの歌です。他方黙示録では、キリスト者は、ローマ帝国の迫害に苦しめられていましたが、彼らはただそこで救い出されたわけではないのです。彼らは、その迫害と積極的に戦って、最後までキリスト者として、忠実に生き抜いて、勝利を勝ち取っているのです。それは、イエスの十字架の勝利に重ねられて、単なる解放、救いではなく、勝利を歌うので、子羊の歌と加えられているのです。
3.一連の流れを振り返る
そこで少しこれまでの流れを振り返ってみましょう。11章には二人の証人が出てきていました。彼らはキリスト者としてしっかり生きる者の代表です。12章では、天で居場所を失った赤い竜、つまりサタンがその二人の証人を迫害し、痛めつけている様が描かれています。13章も同様、「海の獣」「地の獣」が演じるドラマによって、キリスト者に皇帝礼拝を強要するローマ帝国の迫害の厳しさが語られています。14章は、その迫害下で信仰を守り抜き、戦い抜いたキリスト者たちが天に凱旋しているイメージが描かれています。そして15章はその完全な勝利を、神の御前で歌い上げているのです。
 これら一連のドラマを通じて言えることは、簡単に言えば、ローマ帝国の迫害下にあって苦しめられていたオリジナルリーダーへの励ましですね。キリストを信じ、キリストにある旗印を明らかにして、苦しめられる者に、新しい出エジプトがあり、十字架の勝利がある、だから、勇気を持とうというわけでしょう。「寒さに震えた者ほど太陽を暖かく感じる」と語ったのはホイットマンですが、まことに十字架の苦難を通り抜けた者こそ、キリストの復活の恵みの素晴らしさも深く味わい知ることができるのであり、これを讃えずにはいられないのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「黙示録の本体6章から16章は、予告編、本篇、おさらいと三部構成になっていますが、予告編の天上に関する物語(7章)をさらに詳しく述べる本編は、どの部分になるでしょうか?」答えは、14章、15章になります。では、今日の聖書クイズを一つ。「15章に出てくるガラスの海が、黙示録の中で最初に出てくるのはどこでしょうか?またそれはどのような場所を語るものでしょうか?」答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。


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ヨハネの黙示録14章

2021年09月18日 06時52分23秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録14章 新しい歌
1.新しい歌を歌う戦士&殉教者(14:1-5)
1節、「また私は見た」場面転換が起こっています。視線は再び地上から天上の144,000人に向けられています。彼らの額には、「子羊の名と、子羊の父の名が記されていた」と言います。これは、9節、それから先の13章で、額に「獣の刻印を押された」獣の支配下にある人たちと対比した表現です。文字通り額に刻印がある、と劇画的に考えず、はっきりとそうわかる、程度に理解すべきところです。144,000人は、12の二乗に完全数10の三乗を加えたもので、これも文字通りの144,000人ではなく、一定数の限られた数の人々を指しています。
 彼らは、神の前で特別な新しい歌を歌うのです。どんな歌か、それは明日の15章でお話するモーセの歌と子羊の歌です。それは、神による贖いと、いよいよ明らかになる神の正しい裁きを賛美しています。気になるのは4節、その歌を歌う者の資格として「童貞」があげられていることです。しかしこれも、文字通りではなく、意味を理解することでしょう。旧約聖書では、しばしば偶像礼拝の罪が不品行や姦淫に例えられました。ですからこの人たちも、偶像礼拝に関わったことがないという意味での「童貞」です。実際、「子羊が行く所、どこにでもついて行く」とあるように、救い主イエスに忠実な人々のことを言っています。
また押さえておきたいことは、黙示録には、イエスやキリスト者を二つのイメージで描いていることです。つまり戦士と殉教者、二つのイメージです。たとえば5:4-6。イエスは「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」と呼ばれますが、これは戦士のイメージです。しかし「屠られた姿で子羊が」と殉教者のイメージでも語られるのです。同じようにここでも、キリスト者について144,000人は、地上での信仰の戦いを終えて天に凱旋したキリスト者が、神の御前に整列しているイメージを語っています。彼らは戦士だった、と。他方、「子羊が行く所、どこにでもついて行く」は殉教者のイメージです。5節「彼らの口には偽りが見出されなかった。彼らは傷のない者たちである」も、単にキリスト者は正しいと言っているのではありません。当時のユダヤ人は神殿へのささげ物として、傷のない動物を用意しました。つまりこれも殉教者のイメージなのです。
2.本編との関係をとらえる(14:6-20)
さて、6節「もうひとりの御使い」が、厳しい状況の最中、全世界に救いの福音を宣べ伝えている様が語られます。8節、さらに「第二の別の御使い」がバビロンの倒壊を宣言します。このバビロンも、文字通りの地名ではなく、ローマに代表される煌びやかな都市文明を象徴しています。そして第三の御使いが、偶像崇拝を避け、神に忠実であるために忍耐を働かせるようにと勧めています。そして、実際、忍耐を持って信仰を守り通して死を迎える人は、幸いである(13節)と宣言するのです。というのも14節以降、イエスが福音書の中で語られた、毒麦のたとえ(マタイ13)そのものが語られ、永遠の神の御国に迎えられる人、そうでない人に選別される、最後の審判の時が来るからだ、と言うわけです。
注意すべきは、この14章は、明日語る15章とセットになっていて、本編の最後を飾っていることでしょう。先に、ドラマで言えば6~7章の封印のお話が予告編に当たると言いました。本編は、8から15章までのラッパのストーリー、そして怒りの鉢の16章は、おさらいのエンディングに当たると。ですから、今日の14章と明日の15章は合わせて、予告編で一瞥した7章がさらに詳しく語られている部分なのです。7章では天に凱旋した、信仰の戦士たちが、神の前に整列し、家族の下に帰り新しい日常に戻っていく姿が描かれていました。この14章では、神の前に整列した7章の場面にフィルムを巻き戻し、スロー再生し、ああ、彼らは礼拝をささげていたが、そこではモーセと子羊の勝利の歌を歌っていたのか、一瞬で見えなかったという部分を詳しく見ている、というわけです。彼の苦労が豊かに報われている、そんな光景を私たちは見るのですね。
やはり、どうでしょう。人生どこかで帳尻が合わせられると思えばこそ、今の不条理な人生にも耐えていけるものでしょう。持てる者と持たざる者、貧富の差が益々激しくなり、不本意な人生を強いられた者は、そのまま忘れられ、社会の狭間に消え去っていく、神はそんなことはないのだ、とおっしゃるのです。たとえそのような人生を強いられることがあっても、神は帳尻を合わせてくださる、やがて来る天において、あなたは、勝利の歌、神の正しさを高らかに歌うのだというわけですね。人生投げ出さないことです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「13章に出てくる海の獣は、旧約聖書の何書を背景としているものと考えられるでしょうか」答えは、ダニエル書でした。ヨハネは、ダニエル書に出てくる四つの獣を統合した獣を描き、人間社会を抑圧する帝国主義的な支配者をそこに象徴させているのです。では、今日の聖書クイズを一つ。「黙示録の本体6章から16章は、予告編、本篇、おさらいと三層構造になっていますが、予告編の天上に関する物語(7章)をさらに詳しく述べる本編は、どの部分になるでしょうか?」答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録13章

2021年09月17日 06時59分37秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録13章 二匹の獣
1.海からの獣(13:1-10)
12章から続くドラマの配役として、赤い竜の協力者、二匹の獣が登場します。一匹は海からの獣。もう一匹は地からの獣です。
最初に海の獣。不気味な外観をしています。獣が被る冠のギリシア語は、王位を意味するディアデーマ。12:3では7つの冠。ここでは10の冠です。一説に、すべての統治者を総称する数とされます。ひょうは、荒々しく、素早いことを意味し、熊は強力な破壊力、獅子は脅かし、つまりこれら獰猛な動物の姿を通して、地上を支配する者の圧倒的な力を語っているのでしょう。この獣は竜、つまりサタンに権威を与えられています。それは、神を汚し、キリスト者を迫害し、あらゆる地に支配権を振るうのです。この海の獣については、種々の学説がありますが、昨日も述べたジュイッシュ・トラディション、つまり旧約聖書の象徴的表現と関連して考えると、ダニエル書にある第一の幻に通じる内容です(7章)。ダニエル書では、海から上がってきた四つの獣は、具体的にバビロン、メド・ペルシア、ギリシア、ローマと帝国主義的な支配の象徴でした。ヨハネはそのイメージを統合して一つの獣とし、過去から未来に至る地上のあらゆる横暴な政治的権力者を象徴的に語っているのです。
5節、「四十二か月の間」これは11章の異邦人が踏みにじる42カ月、つまり二人の証人が証言をする期間の1260日と同じです。8節、地に住むというのは、地上に住んでいるというよりも世俗の価値観に生きている人のことです。そのような人たちが、皆獣を拝むようになる、つまり妄従するというのでしょう。そんなことがあるのかなあと思うかもしれません。けれども、日本人もつい70年ほど前は、そのような時代を過ごしました。
2.地からの獣(13:11-18)
 次に、11節、この海の獣の協力者として地の獣が登場します。12節、この地の獣は海の獣の像を造り、人々に拝ませています。そして拝まない者をみな殺させています。さらに17節、一つの許可書を与え、売買の自由や生活権を奪いながら、海の獣、強いては海の獣に権力を与えた竜、サタンに人々を仕えさせています。これもかつて、キリスト教会の牧師たちを含む神道、佛教、キリスト教のすべての宗教家が、アジアの被支配国の人々に、宮城遥拝を強制するように動員された時代を思い起こすと、あながちありえないことではありません。ちなみに、18節の「666」という数字、これは皇帝ネロのヘブル語名を数字化したものという説、またユダヤの完全数を7とすれば、6は不完全な支配の力を意味するという説があります。
こうして12-13章を通じて、大きな赤い竜=サタン、女と子ども=キリスト教会、海の獣=政治的権力、地の獣=支配的政治体制を支える人々(宗教的存在)、と四つの配役が出そろったことになります。こうして彼らの繰り広げるドラマはと言えば、まず天上で、赤い竜、サタンと呼ばれる存在が神との戦いに負けて、地に投げ落とされること、そして投げ落とされたサタンは地を舞台に激しくそのうっぷん晴らしをしていることの二つになります。そして、サタンは地上の政治的権力者やその体制を支える人々に働いて、神に敵対し、神に従う者を滅ぼそうとしている、というわけです。ただその日数は、42カ月間という限度がある、というわけです。
 そこでヨハネがこのドラマを描く本当の趣旨を考えてみたいのです。大切なのは、当時のオリジナルリーダーがこれをどう読んだか、です。つまりユダヤ人の知識的前提でこれを読んでいく。となると、当時の読者はこの箇所を読みながら、これはダニエル記の象徴的記述と同じ、そうか、ダニエルの時代と同じことが起こっている、と考えたことでしょう。
そして既に8、9章では、旧約の出エジプトのイメージを使いながら世の苦しみはいつまでも続くものではない、もうすぐ新しい出エジプトが始まろうとしている、という慰めが語られました。10、11章では、その苦しみの時から逃げたりせず、証しすべき時には証しすることだ、と勧められます。さらにこの12、13章では、同じように異教的権力の迫害にさらされたダニエルの時代、ダニエルがどのように対応したかに思いを寄せられるのです。つまり、ダニエルが、迫害下にあっても、いつも通り、神に祈り、感謝して生きたことへの気づきです。9節、聖徒は忍耐し、揺るぎのない信仰に立つように、と勧められています。つまり読者は、困難があっても、心を騒がせず、神に信頼し、静かに、自分自身のペースを守って生きることを、ここで教えられるわけです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「一人の女と赤い竜の戦いは、旧約聖書のどんなストーリーを踏まえて書かれていますか?」答えは、創世記3:15。サタンと女の末との闘いが描かれた箇所ですが、サタンとイエスの戦いを預言する箇所です。では、今日の聖書クイズを一つ。「13章に出てくる海の獣は、旧約聖書の何書を背景としているものと考えられるでしょうか」答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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