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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ヨハネの黙示録6章

2021年09月10日 07時04分47秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録6章 封印の災い
1.解かれる七つの封印(6:1-7) 
黙示録は、黙示文学という文学ジャンルに入るものです。それは簡単に言えば、たとえ話の一種で、イメージで物事を伝えようとする文学的な手法です。ですからあまり細かなことに拘らず、全体的なイメージで理解していくのが大切です。
そこで今日の箇所ですが、イエスが、巻物の封印を解いていくことで、次々と不思議な出来事が起こります。第一の封印を解くと白い馬が表れ、第二の封印では赤い馬、第三の封印では黒い馬、第四の封印では青ざめた馬、そして第五の封印では、殉教者が、最後に第六の封印が解かれると、世界の終わりと思われるような壊滅的なイメージが語られます。そして全てが断ち切られた後に、舞台は天に移り、天上の光景が語られます。つまり最初の四つは地上で起こっていること、そして後の二つは天上で起こっていること、というわけです。これら一連の映像が全体として、何を語っているのか、それが私たちにとってどのような意味があるのかを考えるのが、黙示文学の読み方です。
で、簡単に言うと、7つの封印が解かれるたびに起こることは、これまでの、そしてこれからの時代の流れを印象的に示している、と言うべきでしょう。たとえば、第一の白い馬、注目すべきは乗り手です。第一の馬の乗り手は、弓を持ち、冠を与えられ、勝利に勝利を重ねようとして出ていくのです。これは、おそらく当時の読者に、弓を強力な武器とし馬に乗ってローマ帝国を脅かしたパルテヤ人をイメージさせたことでしょう。ローマ軍は、AD62年、東の国境地帯でパルテヤ人ボロギス率いる軍勢と衝突し、敗北を帰す屈辱を味わっています。人類の歴史には、昔も今も変わらず侵略の出来事があるというわけです。
次の「赤い」馬は、地上から平和を奪い取り、互いに殺し合う、戦乱をイメージさせます。「赤」に使われたギリシア語は、赤い葡萄酒の赤を意味するコッキノスではなく、燃える火の色を意味するブッロスです。「殺す」は、「虐殺する」「する」です。確かに人類の歴史には、近年に至るまで、激しい殺戮の歴史でした。黒はユダヤでは飢饉の象徴。騎手は「秤」を手に持っています。旧約聖書では、パンをはかって食べるのは極端な食糧難を意味します。つまり人類史に繰り返されてきたもう一つの現実「飢饉」が語られています。当時、小麦1コイニクス、約1リットルが男性1日分の食料でした。1デナリは1日分の労賃、つまり1日一生懸命働いて自分が食べる分しか食料が得られない。大麦は、家畜用の飼料ですが、これだと3リットル買えるので、家族3人が食べられる。いずれにせよ、毎日ただ食いつないでいくのがやっとという状況があることを語っています。他方、オリーブ油と葡萄酒の解釈は様々ですが、これをぜいたく品と理解すれば、日本のように「おむすびころりん1億個」と言う国もあれば、他方で、石ころを口にして飢饉に苦しんでいる国もある、世界の矛盾した貧富の差の激しさが語られているのです。「青ざめた馬」の「青ざめた」は、ギリシア語ではクロロース、病人の青白い顔色、血の気のない色を意味することばです。騎手は死であり、よみを従えていた、とあります。それは、死病、つまり流行伝染病が拡大するイメージ、先のスペイン風邪、今回のコロナ、人類史は、この繰り返しであったというわけです。けれども、それは、まだ限定的です。恐ろしいことですが最終的な滅びの段階には至っていないわけです。
2.天上で起こること(6:9-17)
さて、第五の封印が解かれると、視点は地上から天上へと変わります。そして非常に不思議な光景が繰り広げ得られる。天上では信仰に立って殺された殉教者たちが、苛立って、叫んでいるのです。その彼らが天から地の様子を見下ろし、なお一層地上の混乱が続き、犠牲者が加えられていく状況にもう我慢しきれないでいるのです。「聖なるまことの主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」世の不正を正して欲しいと、神に、激しく抗議しているのですね(10節)。確かに、古い映画ですが、クォ・バディスやベンハー等を見ると、信教の自由を奪われて不条理に殺されたキリスト者の無念な状況がよくわかります。これに対して、神は殉教者に白い衣を与え、もう少し休んでいるようにと語ります。つまり、白い衣は正義と勝利の象徴、神は、単純に怒りの鉄槌を振り下ろして、復讐するようなお方ではなく、正義を行うお方。正義が執行される時までお待ちなさいというわけですね。そして第6の封印。太陽が黒くなる。月が血のようになる。星が天から落ちる、つまり、あり得ない状況が繰り広げられます。要するにこれは世界のファイナル・シーンを描いていると理解すべきでしょうね。実にそれは大変な事態で、地の王たち、官僚、軍隊の長、金持ち、勇士、奴隷、誰もかれもが恐れをなし、怯え、逃げまどうとされます。しかも、神と子羊の御怒りの日。本来、柔和で優しい子羊が怒るのですから、それは本当にただならぬ事態です。けれども、神を覚え、その前に正しい人生を心掛けて生きている人には、恐れることのない結末です。では今日も良い一日となるように祈ります。


<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「黙示録の四つの生き物の原型は、旧約聖書のどこから来たと考えられているでしょうか?」答えは③エゼキエル書でした。エゼキエルも、同じような幻を見ています。やがて来る天上の様子についての二つの証言なのでしょうね(1:4-14)。では今日の聖書クイズを一つ。黙示録は大きく三つの部分からなっています。1-3章の七つの教会へのススメ、そして4章から始まる七つのしるしによる終末への喚起、そして最後の七つの教会の約束ですが、それは何章から始まるでしょうか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録4章

2021年09月08日 07時04分54秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録4章 天上の礼拝
1. 天上の光景(4:1-5)
 黙示録は、いよいよ4章から難しくなってきたような気がしますね。何やらこの地上を離れたこと、荒唐無稽な生き物が出てきて、象徴的に描かれるものばかりで、不思議に満ちています。しかしそれらは、あくまでも当時のユダヤ人の文化や文学的な伝統を踏まえて書かれています。ですからそこを押さえておけば、あまり難しいものではありません。
まず、ヨハネは新しい幻を見ています。どうやら地上ではなく天上のお話で、ヨハネは、天上を覗き見ているのですね。彼は、天に昇り、天で繰り広げられている光景に目を開いているのです。そこで見えたものは、まず、天に神がおられて「その方は碧玉や赤めのように見えた」(3節)ことです。当時、イスラエルの大祭司は、祭司服を着ましたが、その胸当てに、碧玉や赤めのうといった石の飾りがついていました。それは、神の栄光と尊厳を表す象徴です。つまり、ここでヨハネは間違いなく栄光と尊厳に満ちた神を見ているのです。エメラルドに見える虹も同じに考えてよいでしょう。ただ虹は、神の神性を意味するのみならず、ユダヤの伝統的な理解では永遠に変わらない神の契約の象徴です(創世記9:12-16)。つまり神の永遠の真実さ、不変さがそこにあった、ということでしょう。さらに神の御座の周りには24の座があり24人の長老たちが座っていたと言います(4節)。これらは種々の説明されていて、定説はありません。これらをみ使いとする説と、旧約の12部族、新約の12使徒に象徴される全聖徒とする説があります。
ともあれ、黙示録を読む際に心得えておきたいことは、黙示録は、人類がまだ経験していない、天上の未来を描いていることです。ですからそこには当然、現代人の知性をもっても把握できないことが書かれています。しかもそれは、AD1世紀のユダヤ人の知識的前提と、さらに、当時流行した黙示文学という形式で書かれています。つまりそれはイメージでメッセージを伝える手法ですから、細かなことを深く考えすぎて謎解きをするような読み方をしてはわからないもので、大筋の印象でメッセージを受け止めていくべきものですね。
となるとこの4章も、細かなことはわからないけれども、どうやら天上のことを描いているらしい。そこには栄光と尊厳に満ち、昔も今も変わることのない真実の神がいた、という印象を得ることが重要なのです。
2.礼拝されている神(4:6-11)
となると、5節以降の、いささか不思議なイメージも、印象で理解していけばよいとなります。つまり、そこでは、神がお一人でぽつねんとして存在しておられるというのではなく、神が礼拝されていた、というメッセージをつかみ取るのです。そして6節「四つのいきもの」については、具体的に何なのかはわからないし、わからなくてもよい、ということです。様々な説は説で受け止めて置けばよいでしょう。大事なのは9節、ありとあらゆる生きとし生けるものが、神の前にひれ伏して礼拝をしているイメージです。当時の読者は、皇帝礼拝を強いられる状況にありました。しかし、まことに礼拝されるべきものは、栄光と尊厳に満ち、永遠に変わらない真実さを持った、天上の神お一人である、というわけです。
私たちがこの地上の生涯を終えて、やがて行くとされる天においては、神が礼拝されています。しかもその神は、お一人でぽつんとしていらっしゃる、というのではなく、あるいは、蓮の池の間を、のどかに散歩されていらっしゃるというのでもなく、礼拝されているのです。しかも注目すべきは、礼拝者が「自分たちの冠を投げ出して」礼拝している姿です。冠は、ギリシア語でステパノス。つまり王冠ではなく勝利の冠です。つまり皇帝礼拝を強いられる迫害の中で、信仰を全うした勝利者たちが、天上で礼拝する姿は、自分たちのその忍耐と勇敢さを誇る姿ではありません。神がその勇気と力を認め勝利の冠を授けてくださったにも関わらず、それを神の前に投げ出して、ただ主の守りがあったからこそここまで来られたのだと告白し、拝する、実に謙虚な信仰者の姿なのです。なるほど、自分を誇るところを一切もたない、このような謙遜で柔和な人々が天国に入るとしたら、そこはまさに天国というべきでしょう。死後そのような天国が私たちに用意されているというのは、実に楽しみなことですね。では、今日もよき一日となりますように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「黙示録を書いたヨハネは、これらの神のことばを書き留める情報を、どこで得たのでしょうか?答えは①パトモス島です。ヨハネは流刑地のパトモス島で、主からの幻を見て、それを書き留めて伝えているのです。では今日の聖書クイズを一つ。聖書で虹が最初に出てくるのは、どの箇所でどんな意味を持ったでしょうか?答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

創世記9:13で、大水で人類が滅ぼされたノアの箱舟の出来事の後、神がノアと結ばれた永遠の契約のしるしとして出てきます。それは、天においても存続、まさに神の約束は永遠であるというメッセージですね。

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ヨハネの黙示録3章

2021年09月07日 07時00分49秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録3章 七つの教会への手紙後半
1.サルディスの教会へ=霊的に死んでいることの危険性(3:1-6)
今日は、ヨハネが書き送った教会の5番目の教会サルディスから見ていきます。サルディスの教会に、イエスは、ご自身を「神の七つの御霊、および、七つの星を持つ方」として表しています。ユダヤ人の文化で、七は完全数ですから完全な神、すべての教会の指導者に支配を及ぼす神を語るものでしょう。その神が、ご自身の教会にこう語られるのです。「あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる(1節)」これはどうしたことか。綺麗で立派な教会なのに、中にいる人々はアンドロイド、人間と思いきや、何か心が通わない、人間のいのちがない、と言うのです。なんともそんな教会にはなりたくないと思うものですが、実は、信仰は建前だけというキリスト者、教会はあるものでしょう。イエスは、そのような教会に、新しい命を燃やすように命じています。目を覚ましなさい。霊的にまどろんではならない、そして、死にかけている他の人を力づけなさい、と。また、命を取り戻すために、あなたがどのように信仰に入ったのか、その初めを思い出しなさい(3節)、と言います。必死に罪の泥沼の中で救いを求めていて、そこから救い出された、滅びなくてよかったね、で終わりではありません。あなたは神のいのちとその聖さに与るように、信仰によって新しい人生を形作り、それを完成するように救われたのです。もし本当に神のいのちを大事にして生きるなら、三つの祝福があると言います。白い衣を与えられ、いのちの書の名前は確約され、さらに神が公の前でその人の名を呼ばれます。象徴的な言い方ですが、神がご自身との関係を永遠に保障し、死後の安息といのちも守られることを言っているのでしょう。
2.フィラデルフィアの教会へ=霊的水準を保持しないことの危険性(3:7-13)
次にフィラデルフィアにある教会。フィラデルフィアの教会は小さなものであったようですね。けれども、主にあって大きな可能性を秘めている教会でした。彼らは神の言葉を忠実に守り、迫害の中でキリストに堅く立つ者たちでした。教会の価値は、人数の多さや外観の華やかさによりません。どんなに小さな群れであろうと、そこにいのちがあればそれは賞賛に値するのです。そして神は、そのような教会にチャンスを与えられます。実際フィラデルフィアは、地理的に東の玄関口として知られ、ギリシアの文化と言語を、トルコの東側に伝える重要な拠点でした。神は、そのようにこの教会を用いられるし、守られる、と約束します。だから、自分の冠をだれにも奪われないように、持っている者をしっかり保ちなさいと言うのです。大切なのは自分のペースを守り、着実に神の祝福に留まり、それを自分のものとしていくことでしょう。
3.ラオディキアの教会へ=無関心にあることの危険性(3:14-22)
最後にラオディキアにある教会。ラオディキアは、経済的に豊かな町でした。AD60年の大地震において町が崩壊した時も、ローマ帝国の援助を一切受けず、市民だけの経済力で町を復興出来たと言います。その有り余る豊かさの中で、燃えるような熱心さを持って戦うことを忘れた教会、ひとりよがりで自己満足的に生きるだけの教会、それがラオディキアの教会でしたた。そこでキリストは、彼らの豊かさが、どこから来ているのかを思い起こさせています。神の守り無くして、その豊かさはないのです。ラオディキアのなまぬるい状況に、神は吐き気を催しながら、懲らしめを与える前に悔い改め立ち返るように勧めています。神は叱責しますが見捨てるお方ではありません。霊的な炎を再び燃やすように勧めるのです(18章参照)。
 以上イエスは、7つの教会それぞれに特定の私信を送り、最後に至りもう一度、全ての教会が自身と対面することの重要さを繰り返しています。初めの愛に冷えたエペソの教会は、新鮮なキリストの愛に触れる必要がありました。苦難を恐れていたスミルナの教会は、復活し勝利した力あるキリストに触れる必要がありました。教理的に妥協し、いい加減な生活を送っていたペルガモンの教会は、忠実なキリストと交わる必要がありました。道徳的に妥協し、堕落の一途をたどっていたティアティラの教会は、キリストの聖さに触れる必要が、そして霊的に無関心の状態にあったラオディキアの教会は、熱いキリストの熱意に触れる必要がありました。心の戸を叩き続け、信仰と命を燃やすように語られるキリストに、応答するのは私たち自身です。私たちが心を開かぬ限りそこに新しい歩みは起こらないでしょう。信仰の前進のために、私たち自らが心を開いて、一歩踏み出すこととしましょう。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヨハネの黙示録は、七分形式で地上に起こる災いが三度繰り返されて描かれていますが、それは、巻物が開かれることによるものと、ラッパが吹き鳴らされることによるもの、そして何でしょうか?」答えは、鉢がぶちまけられるものでした。これらは同じことを違う角度から繰り返し語るたとえになっています。では、今日の聖書クイズを一つ。
「黙示録を書いたヨハネは、これらの神のことばを書き留める情報を、どこで得たのでしょうか?①パトモス島、②クレタ島、③マルタ島」答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録1章

2021年09月05日 06時59分04秒 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録1章 七つの教会への序言
1. 七つの教会へ(1:1-6)
 今日からヨハネの黙示録を学びます。コロナパンデミック、このような時にこそ、ヨハネの黙示録を読むことは、タイムリーなことかもしれませんね。一般に黙示録は難解な書と思われています。しかし、ユダヤ人の文化や旧約聖書に親しんでいれば、それほど難しいものではありません。まず、冒頭に「イエス・キリストの黙示」とあります。つまりその内容はヨハネの創作ではなく、キリストが明らかにしたもの、そして黙示とは、今まで隠されていた霊的な真理のことを言います。それをヨハネは耳からではなく、目を通して、幻という形式で伝達されているのです。
大切なのは3節、この書が書かれた目的です。黙示録というと、なんとなく怖いと思う人もいるでしょう。けれども、この書は、手にして読む人々の幸せのために書かれたのだ、と言います。ぜひ礼拝で取り上げて読んで、皆で心に留めなさい、と言います。
4節、宛先は、アジアにある七つの教会です。アジアは、当時のローマの行政区のアジア州で、今日ではトルコ、そこに点在する七つの教会へ宛てたものでした。それらの教会に、「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」から挨拶が送られます。簡単に言えば、永遠に変わらぬ父なる神について語るものでしょう。神は歴史を始め、歴史を終わらせる、永遠のお方です。また「その御座の前におられる七つの御霊から」は七は、ユダヤ人の文化では完全数、完全な神である聖霊ご自身からということでしょう。そして5節、復活の主イエスキリストから、と三拍子揃えられていますから、ここにも三位一体の教理は明確、三位一体の神からの挨拶があった、というわけです(4、5節)。
そして神が私たちに語り掛ける理由が記載されます。6節、つまり神と私たちの関りがはっきり語られます。神は、私たちを愛してくださいました。実際十字架で血を流し、罪の生活から解放してくださいました。また、私たちを王とし、祭司としてくださいました。もはや人間の屑などと呼ばれるような者は誰一人おりません。どんな人も神は最大限に尊重されるべき王として見ておられます。そして、また用無しの人間などありません。神は、全ての人をご自身の尊い器、信頼に値する仲介者として見ておられるのです。まことに神がそのようなお方であるとすれば、神をほめたたえる気持ちにもなります。そしてヨハネは言います。その神は、約束されたとおり、目に言える形で再臨される、と。それは、すべての人が、聖書に書かれたことが正しいことで、まことにこの世には裁き主がおられることを悟る時である、と。
2.イエスとヨハネ(1:9-20)
さてヨハネは、この出来事があった時、パトモス島という島にいました。パトモス島には、銀山がありましたが、人の住むような場所ではありませんでした。彼は、信仰の故に迫害を受け、そこに島流しの刑に処せられていたのです。それはまさに「イエスにある苦難」でしたが、同時に、ヨハネはこれを御国に与る経験であり、忍耐の時だと語ります(9節)。すでに90歳近いヨハネにとってそれはサバイバルとも言うべき環境でしたが、そのような事態にも泰然自若としている姿が印象的ですね(9節)。
実際ヨハネは、そこで幻の内に主イエスとお会いしています。12節イエスは、七つの教会、七つの燭台の真ん中に立っています。7は完全数、全体を表すことば、そして「燭台」は20節で「教会」と言い換えられているので、全世界の教会の中心にイエスが立っておられるイメージが伝えられています。そしてイエスの御姿は7つの直喩(~のような)で比ゆ的に語られています。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く」(14節)は、イエスの完全な純潔さ、「その目は、燃える炎のよう」(14節)は、主の厳しさを語っています。つまり、ヨハネは、イエスの素晴らしさと卓越性を伝えようとしているのです。そしてこの、圧倒的な神の栄光を前に、ヨハネは神の前に深い恐れを抱いていますね。確かに、神がおられるとしたら、その神の前に立つということは、極めて厳粛で、恐れ多い、地に伏す経験でしょう。しかし、神は私たちに友のように語られるのです。17節「恐れることはない」と。
そしてイエスは、ヨハネに、今見ていること、そしてこれから後起こると語られる二つのことを書き記すように語られます。黙示録は、当時のユダヤ人のみならず、現代の私たちにも語り掛ける二重のメッセージを持っています。そしてこれに耳を傾け、心を留めるなら幸いであるとされます。なぜなら時が近づいている。歴史の幕を開かれた神が、もうすぐ歴史の幕引きをしようとしている時が近づいている。黙示録が何を語ろうとしているのか、これから21章、共に読んでまいりましょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ユダの手紙で、聖書以外の書物からの引用があると言われているのは、どの箇所でしょうか?2か所あります。」答えは、9節御使いのかしらミカエルと悪魔の論争、14節エノクの預言です。これらは聖書ではない外典からの引用とされますが、まだ旧約聖書の範囲が定まっていなかった当時の状況を伺い知る部分です。では、今日の聖書クイズを一つ。ヨハネの黙示録の宛先となった七つの教会は、地理的に、今日ではどの国に位置していたでしょうか?①イスラエル、②トルコ、③ギリシア、答えはまた明日、今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨハネの黙示録22章

2018年08月22日 05時49分52秒 | ヨハネの黙示録
天の都について語っている。「水晶のように光るいのちの水の川」(1節)とは、都が命であふれている様を物語っているのだろう。「もはや、のろわれるものは何もない」(3節)「もはや夜がない」(5節)。そこは今の私たちの世とはまったく別世界だ。ヨハネは「これらのことばは、信ずべきものであり、真実です」(6節)と語る。
しかし、自分の心を覗けば、「聖なる者」には程遠い現実を感じるところであり、正直になってみれば、神の期待には、とてもかなわぬ心の現実がある。素晴らしい約束を与えられてはいても、本来、私たちは神の目にかなわず、新しい都に入れるような者ではないだろう。罪人である私たちにふさわしいのは、火と硫黄の燃える池を置いて他にない。しかし、たとえ私たちがどうであれ、キリストにあって、私たちはその恵みに与れる、というのが福音であり、聖書の祝福のことばである。イエスに免じて、新しい都行きを保証されている。それは、全くもって恵みであり、幸運であるが、本当にそのように信じていてよいのだろうか。
第一に、イエスの犠牲の意味をよく理解することである。それはすでにささげられた。日本人には罪を水で洗い流す発想がある。しかし、ユダヤ人は、罪の現実をもっと重くとらえていた。罪が赦され、聖められるためには、命の犠牲が必要だと考えた。動物を殺して、いけにえにし、神にささげることで赦されると考えた。イエス・キリストの十字架の死の意味は、こういうユダヤ人の発想から出ているのである。イエスの十字架の死は、全人類の罪を赦すのみならず、聖めをもたらし、神の御国に入る特権を与える、最終で究極の犠牲、いけにえだった、というわけである。問題は、私たちがこのように語られることを、信ずべきもの、真実なものとして受け入れるかどうかである。
第二に、聖書は法的概念で救いを語っていることであり、医療的な概念ではないことを良く理解することである。法的に、イエスの十字架の業によってあなたの罪は赦され聖なる者とされた、と宣言しているのであって医療的に完治した、というのではない。それは今の私たちの心の状態や変革が追い付いているかどうかの問題ではない。法的概念が医療的概念に先行するのである。まず宣言ありき。内実はこれから整えよ、ということだ。だからこそ、正しい者とされた者はいよいよ正しいことを行い、聖徒とされた者はいよいよ聖なる者とされなさい、ということなのだ(10-12節)」パウロも語っている。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)神は、私たちを法的な意味で救ってくださった。私たちを既に聖なる者、神の国に相応しい者と見てくださっており、さらに医療的な意味で、正真正銘神の御国に相応しい、聖なる者となれるように助け、導いてくださる。始められた救いの業の完成へと導いてくださる。信仰というのは実に前向きな発想だ。神が与えてくださる目標、聖なる者という目標を覚え、そこへ私たちの努力によらず、聖霊によって近づけてくださる神を信頼しつつ、歩むことである。天の御国にふさわしい生き方へと導かれることである。
キリスト教の大きな特徴の一つは、死後のことは予め自分で決めるということだ。仏教の土壌に育った、私たちはせいぜい、自分の墓地をどうするか、自分の墓石をどうするかを決めるのが生前の自分がすることだと考えている。死後のことはわからぬ、あるかもしれないし、ないかもしれない、わからないものを今から考えてもしょうがない、と現実主義的に考えている。しかし、聖書は人間にとって死が確実なように、死後のいのちも確実である、という。そしてその命の在り様を決めるのは、今、私たち自身の問題なのだ、という。素晴らしい新しい都へ向かっていることを覚えて歩むのか、それともそんなことはわからぬ、と否定して生きていくのか。それは、今、私たちが決めることである。
20節「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。信仰は、毎週日曜日の礼拝のことではない。毎日、真実に真心から神様に近づく、そういう時でなくてはならない。御国に近づいている者らしく内実を整えていただく、そのような関心と努力が必要だ。人は永遠に生きる者であることを覚えて、今日の一日を歩ませていただきたい。