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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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申命記29章

2022年03月27日 07時03分05秒 | 申命記
申命記29章 モーセの第四の説教
モーセの最後の説教に入っていきます。それは、モアブの野で、新しい世代の民に語られたものでした。古い世代と交わされた契約は有効であって、今度は新しい民とその契約を更新しようというわけです。その新しい民の中には、現代の私たちも含まれていることを覚えて読み進めたい箇所です。
1.恵みの更新(29章)
1)歴史的回顧(2-9)
1節「これは」は、4-28章までのことを言っています。それが、ホレブではなく、ここモアブで新しく更新された契約であると言います。その効力を確かめるかのように、29章の前半1-9節は、過去の歴史を振り返るのです。つまり、主がイスラエルをエジプトから助け出し、勝利させてくださった、あの時のように、この契約も新しい未来を創るものである、と、締結を促すのです。
2)契約の更新(10-15) 
この契約の対象とされたのは、おそらく、集められた民の中でも50歳代以上のもの、エジプトの大きな御業を目撃し、40年間の荒野の生活を経験した者たちでした。神の御業を経験してきた者たちに対して、神はさらに契約を交わそうとするのです。しかし同時に、この契約は、今そこでこの契約を耳にしている者、さらには、今そこにいない者に対しても結ばれる(14、15節)普遍的な契約です。神は契約を守らないならば、燃える怒りを注がれる、と言います。ただしその逆は必ずしも真とは言えません。つまり、神の燃える怒りを受けたとみえる者は、神との契約を守らない者、神に背いた者、罪を犯している者というわけではないのです。
実際に、かつてヨブが、家を失い、家族を失い、健康を損ね、灰の中で土器の欠片で自分の身をかくほどに卑しめられた時、ヨブの友人たちは、ヨブが神の激しい燃える怒りを受けていること、つまり隠された罪の故に苦しめられていると断罪しました。しかし、そうではありませんでした。彼の惨状は、あたかも神の激しい燃える怒りを受けているように見えていながら、実際にはそうではなく、神の深いみこころによるものであって、悪魔の激しい試練にさらされたものであったのです。
3)不従順に対する警告(16-28節)
しばし、神が自分の味方になってくれているとは思えないことがあるものです。なぜこのような災いが次から次へと下るのか。承伏できない屈辱感を覚えさせられることもあるでしょう。しかし、もしそこで、私たちが罪を示されるのであれば、まずその罪を告白し、主の赦しを願うことでしょう。神はその罪を赦し、私たちを回復させてくださるからです(1ヨハネ1:9)。神は正しい方であり、愛をもって、私たちを罪の深みの中から救いだし、もはや、その罪を思い出されることはないのです。神は私たちの罪を忘れてくださるのです。それは希望です。
他方、ヨブのように、自分の内に何ら神に対するうしろめたさがないのなら、神にそのすべてをゆだねるとよいのです。神の深いみこころの中にすべてが起こっていることです。神が、ヨブにそうしてくださったように、やがて、私たちのすべての損失を償ってくださるでしょう。神は抜け道のないトンネルをくぐらせることはありません。忍耐をもって神の時を待つことでしょう。大切なのは、神は私たちと契約を交わされたという事実です。契約は実行されるのです。神を信頼しましょう。では、今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。イスラエルではオリーブ油はどのような用途に最もよく用いられたでしょうか?①食用、②灯油などの燃料用、③ボディオイルなど保湿用、答えは、①食用でした。エリヤが貧しいやもめ女に与えた祝福は、この食用の油が尽きないというものでした。では、今日の聖書クイズを一つ、ホレブとシナイ、これは、同じものを言っているのでしょうか?それとも違うものでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

*二子玉川聖書学院聖書通信講座開講中、本ブログを合わせて学ぶことで、旧約概論、新約概論によって聖書を体系的に全体的に理解できるようになります。偏りのないしっかりとした信仰を持ってまいりましょう!➡詳しくはこちら

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申命記28章 祝福があなたについていく

2022年03月26日 06時59分18秒 | 申命記
申命記28章 祝福とのろい
1.祝福とのろい
1)恵の故の警告(28:1-14)
主の契約に従順であるならば祝福(1-14)が、不従順であるならばのろい(15-68)が、下される。28章は、これまでの言明をもとに、契約に対する態度表明を迫るものです。
 まず、神に従順な者たちに対する祝福は、あらゆる生活の領域に及ぶと言います。自身から生まれる者も、地の産物も、家畜が産むものも、さらにはかごもこね鉢までも祝福される。入る時も出ていく時も祝福される。私たちのあらゆる手の業と労働は祝され、私たちに敵が立ちはだかることはなく、周囲の人々に、私たちには祝福の神がおられることを明らかにするのだ、と言います(9、10節)。
注目したいのは、この従順への勧めが、個人に対してではなく、民全体に語られている点です。民がこの契約に忠実であるなら、神は民を祝福される。そして、その民は、神を信じない民に、まことに生きておられる神を覚えさせ、恐れとおののきを与えることになるというのです(9-10節)。神の民が一丸となって、神のことばに従順になる、これがポイントです。個人主義的な考え方に慣れた私たちは、まず、個人の幸せの追求のために信仰を求めるのです。しかし、聖書は、皆が心を合わせて幸せを追求するところに、神の祝福もあり、と言うのでしょう。共に祝福に与る、共に恵みに与り、右にも左にもそれず、神に従っていく、そのようにしっかりとスクラムを組んだ信仰の歩みが勧められています。一人の独りよがりな願望が満たされて幸せになればよいという問題ではないのです。これだけ神様に私は従っているのに、あの人よりも従っているのに、あの人は祝福されて、私は祝されないというそのような問題ではありません。
2.のろい(28:15-68)
他方、不従順は、神のさばきとのろいをもたらすと言います。15節からの最初の4節は、祝福に対応します。私たちは低くされ(33、43、44節)、貧しくなり(30、38-42節)、脅かされる(48-68節)。そののろいは実に様々です。最悪と思われるのは、神に捨てられるだけではない、「奴隷として敵に身売りしようとしても、買ってくれる者はいない」(68節)とあるように、この世からも見捨てられる、ことです。
実際これ等は皆、イスラエルの歴史に起こったことです。イスラエルが神に従順であろうとして、神に心を向けた時に、イスラエルはエジプトを脱出し、カナンの地を征服し、王国を築き、神殿を建設し、神の祝福の恵みに与りました。確かに彼らは祝福を得たのです。しかし、イスラエルが分裂し、神を認めず、神に背を向ける王が現れてきた時に、イスラエルは弱体化していき、貧しくなり、脅かされていきました。教会も同じでしょう。神の民が心から、神の戒めを覚え、皆でこれに仕えようとするならば、その教会は神の祝福を受けます。しかし、そうでないならば、弱められていくことが起こるのです。いやいや、神を信じる人が集まるのがキリスト教会ではないか、そんなことが起こるのか、と思われる方もいるかもしれません。しかし、イザヤやエレミヤが警告し、神に立ち返るように求めたのは、異邦人ではなく、神の御名を呼び求めるユダヤ人でした。信仰というのは、表面上のことではない、形だけ整っていればよい、というのではない、心を見られる神の前で、心からの従順が問われているのです。
28章は、第三の説教の締めくくりであり、これまでの一連の文書の締めくくりです。神との関係が、人生において全てであることを教えるものです。イエスも神の国と義をまず第一に求めよと語られましたが、私たちも、第一にしているようでありながら、そうではない、そんな部分に気づきを与えられ、心からの神への従順の歩みを進めてまいりたいものです。そして皆で神の祝福に与りたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズですイスラエルは、祝福とのろいのことばを宣言するために、ゲリジム山とエバル山に分かれましたが、次の中で、祝福のことばを宣言する部族に入っていない部族はどれでしょうか。①ルベン、②シメオン、③レビ、答えは、ルベンでした(申命記27:12)では、今日の聖書クイズを一つ、イスラエルではオリーブ油はどのような用途に最もよく用いられたでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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申命記27章 乳と蜜の流れる地

2022年03月25日 06時56分47秒 | 申命記
申命記27章 モーセの第三の説教 契約更新の命令
1.律法についての三重の命令
1)律法を銘刻する(1ー8)
 モーセとイスラエルの長老たちが、民に命じて言いました。ヨルダンを渡る日に、大きな石を立て、そこに、このみおしえのすべてのことばを書き記しなさい」と。みおしえとは、具体的に、申命記12-26章に記されている内容、つまりモーセが教えた律法と戒めの全てでした。そのように命じたのは、主の御教えを読み確認し、聞き従い、神が語られたとおりに約束の地に入るためでした。
また全焼のささげ物を献げるための石の祭壇を築くように命じられています。全焼のささげ物は、ささげ物を焼き尽くすことが特徴で、それは全き献身を意味するものです。つまり、そのささげ物を通して、自分は、神の民として完全に献げられたものであることを覚える意味があったのです。
彼らが与えられたのは、石の板と祭壇、今日の私たちに与えられているのは、聖書と十字架です。共通しているのは、従えば必ず約束の地を手にする永遠に変わらぬ神のことばである律法と聖書、そしてそのように語り掛ける永遠に変わらぬ神の愛を覚える手段である祭壇と十字架です。
ただし、重要な相違は、石の板と紙の聖書ではなく、石の板と「人の心の板」です。パウロは「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」(2コリント3:3)と言います。つまり、神のことばは、私たちの心に書き記された、イエスの十字架のインパクトはそれほど強いものだったということでしょう。そしてイエスの愛に捕らえられた私たちの心は、ちょうどエバル山に建てられた白い石が遠くからでも、はっきりと見えたように、誰の目にも留まるものだということです。イエスも、「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:14)と言われました。私たちが、イエスの十字架愛をどれほど深く味わっているかが、世にあって光り輝く存在となるのであって、宣教というのは、私たちのことばではなく、存在の問題なのです。
2)従順の命令(9、10)
そこで9節後半、「静まって聞きなさい」と命じられます。「あなたは、あなたの神、主の民となった」主の民として自覚することが、すべての変化を引き起こすわけですが、その自覚は静まることによって得られるのです。しかし問題は、あれこれ慌ただしい毎日を過ごし、静まって聞く時がほとんどない、ということかもしれません。静まって聞くところに、主の民としての自覚と行動も形づくられるのです。意識してそのような時間を取りたいところではないでしょうか。
(3)厳粛なのろい(11ー26)
14節以降ののろいの宣言と応唱は、モーセの十戒を基礎とし、個人的な生活に関わる内容を確認するものとなっています。ゲリジム山とエバル山に12部族が分かれて集まりました。ゲリジム山に集められたのは、ヤコブの妻レアとラケルの子孫である6部族、エバル山に集められたのは、レアとラケルの女奴隷の子孫の6部族です。そこで、レビ人が12ののろいの言葉を大声で宣言するたびに、民はアーメンと応唱しました。
これらの戒めに従うことが、彼らをエジプトから救い出し、約束の地カナンに導いたわけではありません。しかし、これらの戒めに従うことは、彼らが共に平和に過ごし、神の祝福を楽しむことを可能にするものでした。確かに、私たちの救いは、神の恵みと力によってもたらされたものですが、救われた生活の祝福は、神の戒めへの従順を求めています。救いはただ神のあわれみにより、イエスの十字架の恵みと聖霊の働きによるものです。そして、救いの完成は、私たち自身の献身を求めているのです。それは、神を生活の隅に押しのけていて実現するようなものではありません。自ら祈り、聖書に親しむ中で完成されていくのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。乳と蜜(デバシュ)の流れる地の蜜は、一般に何の蜜と考えられているでしょうか?ヘブル語でデバシュ、蜜と訳されることばは、蜂蜜とも考えられますが、たとえばヤコブは、エジプトへの贈り物として蜜を選んでおり、エジプトでは蜂蜜は多く産するので、ここはおそらく果汁を煮詰めて作った果蜜ではないかと考えられています。では、今日の聖書クイズを一つ、イスラエルは、祝福とのろいのことばを宣言するために、ゲリジム山とエバル山に分かれましたが、次の中で、祝福のことばを宣言する部族に入っていない部族はどれでしょうか。①ルベン、②シメオン、③レビ、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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申命記26章 あなた方からの民となること

2022年03月24日 07時03分02秒 | 申命記
申命記26章、初物と10分の1の奉献
これまでは、新しい神の民がいかなる人間関係に生きるべきかを語ってきました。この26章は、新しい神の民が、神に対してどうあるべきかを語っています。
1.初物を献げること(1:1-12)
 そこでまず教えられることは、地の産物の初物を携えて礼拝することです。イスラエルの民は、荒野の40年というもの、神が天から下すマナによって奇跡的に養われてきました。それが約束の地に入ってからは、農耕によって生活が成り立っていくのです。彼らは神の奇跡に依存していた生活から、自分たちの手で耕し、実を得る生活へと移行していくのです。しかし、それは、もはや神の業を必要としなくなったということではありません。実際、彼らの生活は、神が恵みの雨を降らせないのなら成り立ちえないものでした。今日のビジネス社会といえども同じで、神が様々な商取引の人間関係を守り、導いてくださるからこそ、私たちの生活は支えられているのです。私たちは戦略的にあれこれ考え、物事を進めますが、それを祝される神がおられるのでなければ、戦略も成り立たない、そのような遜った思いがなければ、仕事上の失敗は避けられないでしょう。神の恵みに守られて、今月も守られている、収穫を得ている、仕事が進んだ、という思いを、しっかり初物を携えて礼拝することによって表明することは大切なのです。
ですから教会の献金も、漫然と献げるのではなくて、入学、進級、出産、就職、転職、病気回復、という人生の節目、節目で、しっかり神の恵みを感じ取りながら応答する形で献げていくことです。献げられる金額も、献げようとするお金そのものを気持ちで表すように準備して、祈りを持って献げる、これが応答の一つの形です。献げ物は、人格を持った神に対してなされるものなのですから、それなりの心遣いをもってしたいものです。
2.三年毎の10分の1(12-15)
次に、三年毎の10分の1のささげ物が教えられます。それは、収穫物をレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに分かちあうものです。人への心遣い、ことに、要援護者のみならず、神に仕える者への心遣いが教えられます。貧しい者、困窮した者に対する配慮というものは誰もが考えるものです。しかし、要援護者ではないレビ人、つまり彼らの礼拝を成り立たせる働きをする者への心遣い、これが意外と忘れられているのです。彼らは土地を持たず、収入の術を持たない、否、皆が神を礼拝することができるように、ただそのために働いているのですから、その働きから収入を得るように考えられる必要があるのです。今日で言えば、牧師・伝道師の生活を考えることでしょう。彼らはまさに、皆が神に礼拝を献げ、神に心を向けるための働きに専心しているのですから、彼らあって神を礼拝することも成り立っているのですから、神を礼拝する者は、彼らの必要を考えなくてはなりません。彼らは日々の献げものから必要を受けていましたから、この三年毎の10分の1というのは、それでは足りない必要をまかなう工夫であったと考えられます。
3.モーセの第二の説教の結び(16ー19)
最後に、神の恵みの契約の更新が確認されています(16-19節)。神にとって、私たちは「宝の民」であり、主の命令を守る者は、すべての国々の上に高くあげられるとされます。ただ現実は「傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない」(ヨブ24:12)と思わされることが多いものでしょう。しかし出エジプトが現実であるとするならカナン入国の恵みもそうです。神は私たちを、窮状と労苦と圧迫の中にあっても、必ずや力強く導き出されます。ですからさらに勝利を重ねる祝福を注いでくださることを信じていきたいものです。では、今日もよき一日となるように祈ります。
 
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。旧約聖書の中で、実際に履物を脱いで、家名存続の権利を放棄した出来事が描かれているのは、何の書でしょうか?答えは、ルツ記です。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から絶やさないために、ボアズは、ルツと結婚しますが、ボアズの先にその権利がある人が、これを放棄したというエピソードがあります(ルツ4:10)では、今日の聖書クイズを一つ、乳と蜜(デバシュ)の流れる地の蜜は、一般に何の蜜と考えられているでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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申命記25章 主はあなたに約束したとおり

2022年03月23日 07時06分46秒 | 申命記
申命記25章 人の魂と心へ配慮する
1.むち打ちの刑についての規定(25:1-3)
黒人奴隷をテーマにした映画で、むち打ち刑の残虐さについては知っておられる方も多いでしょう。背中の皮膚が裂け、肉が潰れ、どうして人間はこうも残酷になれるものなのかと心痛むものがあります。神は、そのような人間の仕打ちに歯止めを設けられました。たとえ、人がむち打ちで罰せられなければならないとしても、それによって、人が過剰に痛めつけられてはならない、人間としての尊厳に対する配慮を失ってはならない、というわけです。むち打ちそのものが、廃止されるべきであった、という考えもありますが、当時の時代的な制約の中で、物事が適正になされることを教えたものと言えるでしょう。ちなみに、イエスの味わった苦しみは、まさにその人間の尊厳を無視した辱めでした。
2.脱穀する牛に対する規定(4節)
そして興味深いのは、人だけではない動物への配慮が語られるところです。神の民は、神が見ておられるように世界を見る。世界は人間を中心としてはできていません。神がお造りになった世界です。世界の支配者は、神なのであり、神の意向にそって一つ一つ大事にされなくてはなりません。けれども人は、まるで自分がすべての支配者であるかのように勘違いし、自分を中心に物事を考え、物の優劣をつけ、あるものには無関心となり、ぞんざいに扱ってしまうのです。使徒パウロはこの聖句を引用して(1コリント9:9)、霊的な奉仕者に対する心遣いを持つように、勧めました。確かに受けようとする者は、受けることに思いが集中するあまり、与えてくれる人の必要は考えなかったりするものです。自分中心に物事を考えたら、すべてはうまく回らないのも当たり前です。細やかな心遣いをもって必要に気づく、これが神の民の在り方なのです。
3.レビラート婚の規定(5-10)
 次に寡婦となった兄弟の妻の結婚について(5-10)。兄弟が死に、寡婦となった妻に子がない場合、その夫の兄弟が彼女を妻とし、家系を存続する義務があるとします。その義務を果たさない者は、「兄弟の家を建てない男」(9)もしくは「くつを脱がされた者の家」(10)と呼ばれるのです。靴を脱いで裸足で歩くことは奴隷にされることを意味し(イザヤ20:2)、つばきをすることは、屈辱と軽蔑のしるしでした。つまり、靴を脱がされ、つばきをされるなど、恥ずべき存在です。家系を守る、それはユダヤ人には、人生をかけるような問題でした。現代の日本人には、そのような感覚はわかりにくいかもしれません。しかし、日本人も伝統的には「○○家結婚式場」などと書くように、結婚は家のものであって個人のものではありません。日本人にとっても、お家存続、子孫の繁栄は大事なことでした。しかしそれが今崩れてしまっている、子孫を残すというだけではなく、家族そのものを大事にしていく、その精神は大切にしたいものです。
4.妻のはしたない行為に対する刑罰の規定(11-12節)
男同士が争っている場に、どちらかの妻が出て来て自分の夫を打とうとしている男の急所をつかんでしまった場合、彼女の手を切り落さなければならないとされます。急所をつかむ恥知らずな行為が問題ですが、言いたいことは、事情もわからず、ただ自分の夫を守ろうとして、相手の男性を危険にさらしてはならない、ということです。
5.正しい度量衡についての規定(13-16節)
 不当に利益を得ようとして、二つの升を使い分けるなど、そのような不誠実な者は、神に忌み嫌われる、とします。人間、誠実さが一番です。信用を失ったら終わりです。だったら信用を失うようなことは初めからしないことです(15節)。そのような誠実な人が集まった社会は、確かに誰もが求める新しい社会ではないでしょうか。
6.アマレクに対する報復(17-19節)
最後に、アマレクに対する報復が語られます。これは、弱者へのあわれみを忘れたアマレク、そのような者のいない社会を目指す、ということでしょう。弱者に対する配慮、人の名誉を守ること、これは義務ではなく、私たちの心の内に刻み込まれるべき人間としての大事な精神であり、新しい神の民の大原則です。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。律法で死に値すると言った場合、ユダヤ人の間で最も一般的な死刑の方法はなんであったでしょうか?①石打ち、②火刑、③十字架刑、答えは①石打ちでした。(出エジプト19:13、ヨハネ8:5)。火刑は、祭司の娘の淫行の場合(レビ21:9)と特別な場合で、剣や槍を用いて殺す方法もありましたが(出エジプト19:13)十字架刑は使われませんでした。では、今日の聖書クイズを一つ、旧約聖書の中で、実際に履物を脱いで、家名存続の権利を放棄した出来事が描かれているのは、何の書でしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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