歴史とドラマをめぐる冒険

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「偶発的な日本史」と歴史の法則

2020-11-01 | 戦争ドラマ
歴史に法則はあるのか。ない、という人も多いでしょう。でも「あるように見える」のは何故でしょう。中国もインドも、世界の国々は次々と「近代化」していきます。この「近代化」というトレンドは「法則じゃない」のでしょうか。

日本では戦前皇国史観が主流だったようです。今でもその傾向は存在します。朝廷への尊皇度が「法則」になります。朝敵だったから滅んだ。尊皇の度が低いから駄目だったという法則です。

戦後建前上はこの法則は否定されました。否定は、あくまで建前で、今でも同じようなことを主張する人はウヨウヨいます。

しかし形式的には否定され、そして唯物史観が主流になりました。封建制を経て、近代化し、資本主義になり、その資本主義が最高点に達したところで社会矛盾が解決できなくなり、共産主義に向かうという「法則」です。

「共産主義に向かう」ところは日本にとっては未来ですから、そこはあまり言われません。むしろ経済から社会の動きを見るという形になりました。唯物史観も建前上は否定されましたが、経済や民衆の生産性から歴史を見る事自体は、方法の問題なので、これも当然生き残っています。

どっちにせよある程度の「法則はある」ということで進んできたわけです。

ところが「建前上であっても」、2つとも否定されてしまいました。とどのつまり、法則はないということになっていきます。すると歴史の叙述が難しくなります。事件だけを並べるわけにはいかないからです。で、法則に変わって、権門体制論とか2つの王権論とかが言われているようです。それについては叙述しません。叙述する力がありません。

「法則がない」にしては、世界の国々はグローバル経済によって「同じような国」に向かって進んでいるように見えます。伝統や宗教を乗り越えて、進んでいるように見えるのです。その反動として、日本でも各国でも、伝統主義の復活は一部見られます。しかし大きな流れとしては、効率的な経済システムを目指して進んでいます。

しかし日本史学者の記述は、どんどん「法則を見つけない」という方向に向かって進んでいるように見えます。「偶発的だった」「たまたまだ」「そんな劇的なことはないよ」「突発的でしょう」と言うと、なんだかトレンドに乗っているように見える。そしてそういう叙述をする学者が増えている。

ただでさえ「専門を絞りに絞って」、通史を書かず、非常に細かいところにこだわって研究をする学者が存在する。それに加えて「偶発的だった」という叙述が増える。これでは歴史というものを「つかむ」ことができなくなっていくのではないか。そんな危惧を抱きます。

浅井長政が「あさい」か「あざい」かなんてことがそんなに問題なんでしょうか。日本史の核心なんでしょうか。どーでもいい問題に思えてなりません。

いまこそ通史を、と思いますね。学者さんには、もっと大きく歴史をみて、日本史全体の中で、どう位置づけられるかの叙述をしてほしい。素人としてはそう思います。

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