6月7日(金)の観光の続きです。(観光と言うには語弊がありますが。)
アウシュヴィッツⅡビルケナウからアウシュヴィッツⅠまでは、バスで約2kmの距離。無料のシャトルバスで、ほんの数分しかかかりませんでした。
バス(左端)から降りてこの写真を撮ったとき、時刻はすでに午後4時35分。3時半頃までにはここに入るつもりだったのに、予定よりかなり遅くなっていました。
個人で説明版を読みながら保存されている収容所の跡を見て回る、いわば自由見学型のビルケナウとは違って、こちらのアウシュヴィッツⅠはガイド付きツアーもあります。私は思った場所で思っただけ時間をかけられるよう、個人で回りましたが。
アウシュヴィッツはⅠもⅡも、入場料は徴収しません。その保存・維持・修復・教育活動は、ポーランド政府、外国からの資金援助、ユダヤ人組織などからの寄付金ですべてまかなわれています。
下は、出入口を兼ねるビジター・センターを抜けて敷地内に入ったところです。 遮断機つきの有名な門は、奥の黒っぽい建物のすぐ右側にあります。
上の写真で大きな木の横に並んでいた、2枚の説明案内版。
“1940年、司令官ハインリヒ・ヒムラーの命により、ナチス親衛隊はオシフィエンチムのポーランド軍の元駐屯地を徴発した。ナチスがその地に設立した強制収容所は、のちにアウシュヴィッツⅠと呼ばれるようになった。
被収容者は主に男性で、当初は大半がポーランド人であったが、のちにはユダヤ人や他の民族も送られてくるようになった。女性やソ連軍捕虜が収監された時期もあった。
所長を含むナチス親衛隊のオフィスもここに位置し、その後の収容所の拡張命令も、ここから出された。”
黒っぽい建物の脇にあった説明板。毎朝何千人もの囚人たちが、収容所の外部での長時間にわたる重労働へと駆り出されました。夜になり、疲労困憊した身体を引きずるように収容所に戻る囚人たち。労働中に死んだ仲間の遺体を運んで戻ることもありました。
囚人たちの“行進”をスムーズにし、また労働意欲を高めるため、ナチスは囚人によるオーケストラに、ここで音楽を演奏させました。
ARBEIT MACHT FREI (労働は自由をもたらす)という大ウソが掲げられた、あまりにも悪名高い門です。
その右脇のスペースは、説明板によると: “何百に上る囚人やソ連軍捕虜が、収容所拡張のため必要だった採石の重労働によりここで死亡した。極度に悪い栄養状態のため、背に大きな負担がかかる重労働に耐え切れなかったのだ。ナチスの看守や、選ばれた囚人が務めていた見張り役(カポ)の暴力により殺された者もあった。ここではまた、ナチスによる銃殺も行われた。”
門をくぐった先の光景。 門を振り返ってみました。
門を入ってすぐの左手にあった説明版。 “1941年10月7日、アウシュヴィッツにソ連軍捕虜用の収容所が設置された。約一万人の男性捕虜が囚人として登録され、鉄条網で厳重に隔離されていた1‐3、12‐14、22‐24号棟に収容された。その大半は、飢餓、重労働、ナチスによる暴力により死亡した。残った者の多くは、ゲシュタポの命令によりガス殺あるいは銃殺された。労働を拒否した者は、冬の酷寒の屋外に裸で出され、水をかけられ、その結果多くが凍死した。1942年3月までの5ヶ月の間に、約9千人が死亡した。残った者は新たに建設されたビルケナウに移された。”
その先右手にあった説明板です。 “ポーランド人の囚人が逃亡した場合は、その家族は捕えられ、アウシュビッツに収監された。家族は拘束の理由と、逃亡者が再拘束されるまで彼等がアウシュヴィッツに留め置かれるであろう旨を記した掲示板の下に立たされた。ナチスはそうすることにより、他の囚人へのこのポリシーの浸透を図ったのだった。”
上左写真の大木のところで右に折れると、その道は幅広く、すぐ先は広場のようになっていました。
“点呼の責任者だったナチス親衛隊員は、このエリアの中央で、集まった囚人の数に関する報告を受けた。 誰かが欠けていた場合、囚人たちは親衛隊員が満足するまで、天候にかかわらず、時には12時間以上も、その場に立ち続けなければならなかった。
囚人たちに脅威を与えるため、ナチスはここで公開絞首刑も行った。最多数の処刑は、1943年7月19日に執行された。3人の囚人の逃亡を助け、また外部と連絡を取っていたと疑われた12人のポーランド人が、この場で一緒に絞首刑に処された。
絞首台は、戦後博物館によって再建された。”
縦長の小屋は、点呼責任者であるナチス親衛隊員が、荒天の日に身を守るため使用したもの。
最多数の公開処刑で殺害された12人のポーランド人です。
「これは大学構内の建物群」と言われたら、私には信じてしまえそうです。 二重になった鉄条網のフェンスさえなければ・・・・・
高圧電流が流されていたという鉄条網。絶望に駆られて自ら鉄条網に身を投げる囚人もいたそうです。
“死のブロック”11号棟と、 11号棟と10号棟の間の中庭にある“死の壁”。
“11号棟は『死のブロック』として知られていた。その機能はいくつかあり、収容所の中央収監所としての役目が最重要だった。男性も女性も、ここに収監された。ゲシュタポによって彼等にかけられた容疑は、逃亡の企て、暴動の計画、外部との接触などであった。
囚人の逃亡を幇助しようとした外部のポーランド人も拘束され、ここに収監された。拷問による尋問のあと、多くは銃殺刑を宣告された。収容所の開設当初、ここには刑罰部と再教育部もあった。その頃ここに送られて来たほとんどのユダヤ人男性とポーランド人聖職者は、到着と同時にこの刑罰部に送られ、最も苛酷な重労働を課され、大多数が死亡した。
1943年以降は警察官も収監されるようになった。カトヴィツェのゲシュタポの管轄下にあったポーランド人警察官たちで、抵抗運動に加わったとの容疑をかけられたのだ。彼等は刑が確定するまでここに収監されたが、ほとんどが死刑を宣告された。
『バンカー』として知られる地下には、収容所の規律を乱したとされる囚人が収監された処罰牢があった。1941年に飢餓による死を宣告された囚人は、ここに収監された。
1941年9月3日から5日にかけ、ユダヤ人の大量虐殺の準備として、ナチスはこの地下でチクロンBによる実験を行った。600人のソ連軍捕虜と250人のポーランド政治犯が収容所内の病院から人間モルモットとして選び出され、ガス殺された。”
地下の構造: 1‐28号牢-処罰牢 18号牢-コルベ神父が他の囚人と共に1941年に収監された牢。ポーランド人のフランシスコ会修道僧だったコルベ神父は、他の囚人の身代わりとして飢餓による死刑を自らすすんで受けた。 (コルベ神父については、別の独立した記事にします。) 8・20号牢-“暗闇牢”(空気や光がほとんど入らない牢) 22号牢-横になれないほど狭い“立ち牢”(一部は再建されたもの) (4人まで収監できた立ち牢のそれぞれの大きさは、一平方メートル。囚人は数日間から数週間にわたって、昼間は重労働を課され、夜は立ち牢に戻されました。)
1階と2階: A-親衛隊員の執務部屋 B-カトヴィツェのドイツ簡易裁判所の出張執務室 C-囚人が収容された部屋 D-銃殺される前に囚人が脱衣した部屋。ここで処刑が行われることもあった。 X-銃殺や拷問のため囚人が中庭へと連れ出されたドア
展示: I-処罰と処刑 Ⅱ-囚人と収監された警察官の矯正 Ⅲ-抵抗運動
(11号棟内部の写真は、こちらでご覧ください。私は撮影する気になれませんでした・・・。)
“1941年から1943年にかけ、10号棟と11号棟の間にある中庭のこの壁の前で、ナチスは数千人の囚人を射殺した。犠牲者の大半はポーランド人政治犯で、とりわけ多かったのが逃亡者を助けたり外部と連絡を取ったりした秘密組織のリーダーやメンバーたちだった。近隣の町で死刑を宣告されたポーランド人の男性、女性、子供までもがここに収監され、銃殺された。彼等は抵抗組織の活動に対する仕返しとして捕えられた。時にはユダヤ人、ソ連軍捕虜、他国からの、あるいは他民族の囚人も、この壁の前で銃殺された。
ここでは残酷な体罰も与えられた。鞭打ちと、『ポスト』として知られた拷問である。ポストは、囚人の腕を背中の後ろで曲げ、手首をくくってポスト(柱)から宙吊りにするというものであった。 (耐え難い苦痛により意識を失った囚人の肩の腱は破裂し、その結果腕を動かせなくなった囚人は、『労働不能』としてほとんどがガス室送りになったそうです。)
収容所の管理部によって処刑の壁は1944年に解体された。その結果処刑は他の場所、主としてビルケナウのガス室で遂行されるようになった。
戦後、銃殺刑の壁は博物館によって部分的に再建された。
この中庭では、ナチス親衛隊により何千もの人々が殺害されました。どうかお静かに願います: 彼等の苦難を心に刻み、彼等の記憶に敬意をお払い下さい。”
下左は、人体実験に使われた10号棟です。異物の塗布によって皮膚のアレルギー反応を試験するといったような比較的害の少ない実験から、すぐさま解剖するため心臓に直接フェノールを注射するといった獰猛な実験までありました。10号棟は男性の収容棟だったものの、ここで行われた実験は主に女性を対象としたものでした。
“10号棟の上階の2部屋には数百人の女囚(主としてユダヤ人)が収容された。彼女達は1943年4月から1944年5月にかけて、ドイツ人婦人科医クラウベルク医師(Carl Clauberg、1898-1957)による不妊化実験の人間モルモットとして使われた。実験中に死ぬ者もあれば、解剖のため殺害された者もあった。生き残った者には、不治の後遺症が残った。他の親衛隊医師も、10号棟で人体実験を行った。”
原則として10号棟は立ち入り禁止ですが、特例が認められることもあります。例えば2012年7月には、ヨーゼフ・メンゲレの双子実験を生き延びた女性が、90人の同行者とともに内部に入ることを許可されたそうです。
下左写真、左手最奥の建物が“死のブロック”11号棟、その手前が10号棟です。 防火用水。
囚人から取り上げた義手・義足・松葉杖など。 ホーローの食器類。
囚人たちは、「後で返却されたときのために」住所氏名を鞄に書くよう言われました。 そうして持ち主を、行き場をなくした鞄の山と、・・・
・・・靴の山。
外の日差しと緑を目にすると、ほっとします。
≪ つづく ≫