ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ゾフィー・ショルと白バラ運動

2014-01-21 22:35:16 | ひと

ドイツ映画 “Sophie Scholl - Die letzten Tage” (邦題『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』)は、2005年製作。何年か前に、テレビで見た覚えがある。

反ナチス運動に身を投じ、自らの信念を貫いて21歳の若さで処刑されたゾフィーの最期の数日間を描いた映画だ。 

 

 

ミュンヘン大学の学生たちと哲学の教授クルト・フーバーを主だったメンバーとする非暴力の反ナチス抵抗組織 “Weiße Rose” (白バラ)。男子学生メンバーの大半は、1942年の夏季に3ヶ月間、東部前線へと派兵されていた。そこでドイツ兵の理不尽な暴力やユダヤ人に対する残虐な迫害を目撃した彼らは、大衆の目を覚まさせたいとの思いから、ビルの壁にスローガンを書いたりナチスを批判するビラを配布するなどの運動を始めた。

1943年2月18日、ゾフィーと兄のハンスは、ミュンヘン大学でビラを撒いているところを目撃され、ゲシュタポに逮捕される。

  

取調官: 「法がなければ秩序はない。もし法がなかったら、何を指針にするというのだ?」  ゾフィー: 「良心です。法律は変わりますが、良心は変わりません。」

  

仲間のクリストフ・プロープストも逮捕され、3人は2月22日に裁判にかけられる。判決は、反逆罪により、3人とも死刑。それも即日に。最後に一言述べることを許されたゾフィーは言う。「私たちが今日立つこの場(被告席)に、あなたも間もなく立つことでしょう。」

  

処刑を待つゾフィーの独房を、両親が訪れる。 「おまえのしたことを誇りに思うよ」と言う二人に、「天国でまた会いましょう」と応えるゾフィー。

処刑のため集められたゾフィーとハンスとクリストフは、最後の抱擁を交わした。処刑の瞬間ハンスは、“Es lebe die Freiheit! (自由よ永遠に!)” と叫ぶのだった。 ・・・

  

 

ゾフィー・ショル(1921-1943)は、6人兄妹の4番目。 下左写真は、左から: 父親ロベルト(下右写真も)、長女インゲ(1917-1998)、長男ハンス(1918-1943)、次女エリザベート(1920-)、ゾフィー、次男ヴェルナー(1922-1944:戦闘中行方不明となり死亡と推定された)。四女のティルデ(1925-1926)は乳児期に死亡。 下中写真は家族の集合写真らしいですが、説明がありませんでした。

                      

 

学友たちとゾフィー                                                          ゾフィーは読書が大好きだったそうである。

 

  

左からハンス、ゾフィーとクリストフ

 

 

下左と下右: ゾフィーの兄のハンス・ショル      下中: ハンス(右)と、友人で白バラ運動仲間のアレックス・シュモレル

  

 

“白バラ”に関して、とても詳しいサイトを見つけました。こちらです。下は、処刑された“白バラ”の主だったメンバーたち。アレックスとフーバー教授は1943年7月13日に、ヴィリーは10月12月に処刑されました。それぞれの人物紹介は、そちらのサイトにリンクさせていただくことにします。

       ゾフィー             クリストフ            ハンス       アレックス・シュモレル       フーバー教授        ヴィリー・グラーフ

  

下左: 処刑された“白バラ”メンバーの遺族たち。撮影年月も出所も不明の写真ですが、「おそらく戦後に遺族が、慰霊のため処刑室を訪れた際のものだろう」とのことです。 

下右: ゾフィーとハンスの両親。第二次世界大戦終結時、二人は6人いた子供のうちすでに4人を亡くしていました。父親ロベルトは1973年に82歳で、夫より10歳年長だった母親マグダレーナは1958年に77歳で没。

ロベルト・ショルはリベラルな考えの持ち主で、すでに戦前に子供たちに「ヒトラーとナチスはドイツを破滅に追い込む」と言っていたそうです。その後「敵のラジオ放送を聞いた」罪で18ヶ月禁固され、1942年にも秘書に向かって「この戦争ってやつは!もう敗けているというのに。ヒトラーは人類に対する神の懲らしめだ。すぐに戦争が終わらなければ、ベルリンはロシア人に征服される。」と言ったかどでふたたび投獄されました。何という先見の明・・・!

 

 

ゾフィーにはフリッツ・ハルトナーゲル(1917-2001)という婚約者がいました。スターリングラード前線で戦っていた彼は、ゾフィーが処刑されたとき安否が不明でしたが、のちに生還。1945年にゾフィーの姉のエリザベートと結婚し、4人の息子に恵まれました。

21歳の時のフリッツ・ハルトナーゲル(1938年撮影)      晩年のフリッツ                       のちにフリッツと結婚した、ゾフィーの姉のエリザベート

   

 

ミュンヘンの Friedhof am Perlacher Forst (ペルラッハ森林霊園)にある、ゾフィー、ハンス、クリストフのお墓。アレックスのお墓も同霊園にあります。

  

 

下はミュンヘンのルートヴィヒ・マクシミリアン大学構内にある、地面に埋め込まれた“白バラ”の記念碑。現在のドイツには、ショル兄妹にちなんで名づけられた通り・広場・学校が多数あるそうです。

  

 

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≪ 追記 ‐ 1月22日 ≫

ショル兄妹と同日に処刑されたクリストフ・プロープスト(1919-1943)についてその後知ったことを書き足します。彼が6歳になる年に、医者だった父親と教師だった母親が離婚。最初彼はムルナウ(Murnau)で母親と暮らし、1932年にニュルンベルクに引越しました。その間母親は再婚し、父親も1928年にユダヤ人女性エリーゼと再婚します。父親と継母はルーポルディンク(Ruhpolding)に住んでいましたが、1936年に父親が急死。ユダヤ人の母親は困難に陥るところでしたが、奇跡的に地域コミュニティーが結束して口を閉ざし、戦争が終わるまで彼女を守ってくれたそうです。

      下左: クリストフ・プロープストが1925年から1928年まで母親・継父・異父弟妹と暮らしたムルナウの家、 下右: 大学でのプロープスト、1939年

                                

プロープストは21歳で結婚し、逮捕されたときにはすでに三人の子供の父親でした。家族のため裁判で助命を乞い、ショル兄妹も懸命に彼を救おうと試みたものの、一蹴されてしまいました。彼の死後、妻子を援助しようとした仲間たちも逮捕され、実刑判決を受けて投獄されたそうです。プロープストの写真をネットで見つけました。

  妻のヘルタと。                                                              長男のミヒャエルと。

   

プロープストの子供たちは、長男ミヒャエル(1940-2010)、次男ヴィンセント(1941-)、長女カトリーナ(1943-1959)。妻のヘルタは1943年1月にカトリーナを出産しましたが、その頃プロープストはインスブルックで勉学中でした。忙しい中何とか時間を作って生まれた長女や家族に会いに行こうとしていた矢先に彼は逮捕され、長女にひと目会うことすら叶いませんでした。病気がちだったヘルタはプロープストが逮捕・処刑されたときは産後熱で病床にあったそうです。

下右は、ドイツ語サイトで見つけた晩年のヘルタさんの写真。 Herta Siebler-Probst と姓が増えているので、その後再婚されたようです。

  

ヘルタさんが近年ドキュメンタリー番組で語ったところによると、プロープストのユダヤ人の継母を、ルーポルディンクの住民は保護してくれました。町長は「この町にはユダヤ人はいない」と虚偽の報告をし、勇敢なカルテンバッハという家族は継母を匿いました。ナチス親衛隊が宿屋も経営していたこの家族の家を野戦病院として使おうと乗り込んできたときも、危機を回避。継母はその後、家から一歩も外に出ることなく、カルテンバッハ家に保護されて終戦を迎えることができたそうです。「町の誰一人としてエリーゼを裏切らなかったことは、今でも奇跡としか思えません。」と、ヘルタさん。

そう言うヘルタさんと子供たちの戦後のドイツでの生活も、安泰であったことを祈るのみです。 ・・・・・         

≪ 追記 おわり ≫

 

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そして、来月22日にゾフィーたち三人の処刑の71周年を迎える現在。ある議論が巻き起こっている。ミュンヘンにあるバイエルン国立博物館で、彼等を処刑したギロチンが発見されたからだ。

“白バラ”のメンバーは全員が、ミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(Stadelheim Prison)でギロチンにより斬首された。同刑務所は、ナチス時代はギロチンによる斬首刑に多く使われた。博物館関係者によるとギロチンは、「陳列には不適切」としてずっと前にしまい込まれ錠をかけられたらしい。

ギロチンの発見を受け、議論は白熱している。

「このような歴史的意義の深い品は、“白バラ”のメンバーたちの勇気を讃えるため展示されるべき」と言う博物館側。しかし生存する“白バラ”の最後のメンバーのフランツ・ヨセフ・ミュラー(89歳)は反対する。「彼らの暴力的な死を大衆の好奇の目にさらすべきではない。私がゾフィーとハンスのことを思わない日はない。」

ショル兄妹の弟のヴェルナーは戦時中に東部前線で行方不明になり、長姉のインゲは1998年に死没した。現在シュトゥットガルトに一人で暮らすエリザベート・ハルトナーゲル=ショル(93歳)は、ゾフィーとハンスの兄弟姉妹のうち残る最後の一人だ。彼女は兄と妹がギロチンで処刑されたことを知ったときのことを、今でもよく覚えている。

                                       

「バスを待つ間にカフェに入り、新聞を取り上げたのです。第一面の見出しが目に入り、そこには前日私の兄と妹が、反逆罪により斬首刑になったとありました。友人のクリストフ・プロープストも同様に処刑されたと。その時その場で、この事実を理解しなくていいよう気が狂ったらどんなにいいかと思いました。4日後が私の23歳の誕生日でしたが、まるで全世界が破壊されたように感じました。」

ゾフィーとハンスの両親も兄弟姉妹も、二人の反ナチス運動には気づいていなかった。それは、家族を巻き込まないようにとの配慮から、メンバーの間で合意があったためだった。 「でも覚えていることがひとつあります。ゾフィーと英国庭園を散歩していたとき、ゾフィーは突然鉛筆を取り出して『壁に何か書かなきゃ』と言ったのです。私はそれは危険すぎると警告しました。もし捕まったら首を失うからと。でもゾフィーは、『夜が私の味方になってくれるわ』と言いました。」

当時ゾフィーの婚約者だったフリッツ(エリザベートの未来の夫)が後年エリザベートに語ったところによると、1942年5月、ゾフィーは彼に1000マルクを借りた。彼女は理由を明らかにしなかったが、おそらく違法な抵抗活動のためと察したフリッツは、それが命にかかわる危険な行為であると彼女に警告した。ゾフィーの返事は「わかっているわ」だった。その後ゾフィーはその金を、ビラを印刷するための設備に使ったことがわかった。

ゾフィーとハンスの両親は、二人の裁判中何度も法廷に入ろうと試みた。しかし母親マグダレーナが守衛に「告発されているのは私の子供たちなんですよ」と訴えると、守衛はこう言ったという。「もっとまともに育てるべきだったな。」

処刑の翌日、エリザベートは兄と妹の墓の前に立った。ゲシュタポのメンバーが監視する中、“反逆者”に弔意を示すため少数の人々が集まっていた。ハンスの恋人も、エリザベートの近くに立っていた。数日後ショル兄妹の家族は連行され、エリザベートは水差しと聖書があるだけの牢に入れられた。その後2ヶ月間そこに監禁され、腎臓炎と膀胱炎を発症したためようやく解放された。

「私たちは追放人でした。税理士だった父の顧客の多くは、私たち家族との関係を断ちました。道行く人は、道の反対側を歩きました。ある時外国人の女性が私のアパートメントの玄関に立っていて、私にこう言いました。『首を切られた二人の姉(妹)がどんな風か見たかったの。』」 フリッツは監禁中のショル家の家族を訪れ、解放されたエリザベートが仕事を探すのを助けた。やがて二人の間に愛が芽生え、結婚した二人は4人の息子を授かった。

ハンスとゾフィーに深い愛情と敬意を抱くエリザベートだが、“白バラ”はあの二人がすべてではなかったと強く認識している。「二人のことしか話題にならないのは不公平だと、常々思ってきました。フーバー教授もアレクザンダー・シュモレルもヴィリー・グラーフもクリストフ・プロープストも、同様に命を奪われたのですから。」

裁判中、ゾフィーは政治犯のエルゼ・ゲーベルと同じ牢に入っていた。彼女によると、処刑の前日ゾフィーはこう言ったそうである。 「なんて素晴らしく晴れた日かしら。なのに私はこの世を去らなきゃならない。でも今この瞬間も、戦場では多くの若い、未来ある命が失われている。私たちの運動によって何千もの人々が目覚めてくれるなら、私の死なんて何でもないことだわ。学生たちはきっと、反乱を起こしてくれる。」 残念ながら反乱は起こらなかったが、ゾフィーは歴史に名を印した。ゾフィー・ショルと白バラ運動に関する本や映画が多く出版・製作され、ショル兄妹の名を冠した通りや広場や学校やショッピング・センターがドイツ中に存在する。

                   

 

・・・ 映画を見たとき一番印象的だったのは、処刑前のゾフィーさんに会いに来た両親の態度でした。二人とも「余計なことをしなければ死なずに済んだものを・・・」と娘の悲運を嘆いて泣き崩れるものと思っていたのですが、代わりに取り乱すことなく娘を抱擁し、「私たちはおまえを誇りに思う」と・・・。 なるほど、この親にしてこの子あり。 ゾフィーさんの不屈の精神は、この両親の教育の賜物と納得したものです。

それにしてもギロチンで斬首って、フランス革命の時代じゃあるまいし、野蛮もいいところ。銃殺できるところをわざわざ恐ろしい手段で死刑にするというのは、恐怖による人民支配計画の一環だったのでしょう。人生始まったばかりの21歳の若さで命を奪われたゾフィーさん。斬首刑にも屈しなかったその勇気に、心から感服します。

例のギロチンは、公開の運びとなるのでしょうか・・・? もし続報が入ったら、また記事に書きますね。

 

《 関連記事: ゾフィー・ショルを偲ぶミュンヘン  / /  》

 

 

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