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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

統一教会党=自民党などの宗教政権でほんとうにいいのですか?

2023-04-13 22:06:05 | 政治

 これは今日のニュース。 

健康保険法改正案が衆院通過 75歳保険料引き上げ

 

 今度は年金収入が153万円以上の高齢者に対して保険料を増額する法案が衆議院を通過した。このままでは成立  してしまう。年金収入153万円以上という数字は、長年働いていた勤労者は、ほとんどが該当する。

 この前、年収200万円程度の75歳以上の高齢者の窓口負担を2倍にしたばかり。

 消費税は、社会保障につかうという嘘に、いつまで選挙民は騙され続けるのか。


【本】松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる』(NHK出版)

2023-04-13 08:35:54 | 

 100ページほどの薄い本である。人類学者の松村が、人類学を研究していて考えたこと、発見したことを、現在の社会状況を思い浮かべながら書いたものである。

 文化人類学は、一般的に言えば、「わたし」と異なる生活をしている「人類」を対象にして研究する学問だ。しかし、ではその「わたし」とはなんであるのか。それについて考えた本である。

 といっても、私には既知のものが多かった。「わたし」とは様々な関係性の集積であること、「わたし」とは関係のなかで様々に変容する存在であること、「わたし」とは固定的なものではなく、流動的で開放的で柔軟な存在であること。

 しかしその「わたし」が、境界線を引くことによって、自らと異なる存在と認めたものに対して「敵対」したりする。しかしその境界線とは固定的なものではなく、様々に境界線は引くことができるものだし、また消し去る(消える)ものでもある・・・・・そういうことが記されている。

 ほんとうは統一教会党=自民党の政治家やネトウヨという方々が読むべき本だと思うが、そういう人こそ読まない。みずからを固定的にとらえ、また自己の認識も不動のものとする。なんとまあ、貧しき精神の持ち主だこと、と私は呆れてしまうのだが・・・

 松村は、こう書いている。なるほどである。

周囲の変化に身体を開き、その外側に広がる差異に満ちた世界と交わりながら、みずからが変化することを楽しむ。いきあたりばったりの歩みのなかで「わたし」に起きる変化を肯定的にとらえる。そういう姿勢は、まさにさまざまに異なる他者と共に生きる方法です。そしてそれは変化がいっそう激しくなるこれからの時代にこそ必要とされるのだと思います。


「ノー」を言う勇気

2023-04-12 20:45:37 | 社会

 内田樹さんの文。

内田樹「間違った教育行政には『それは違う』と立ち上がる勇気が必要」

 おかしいことはおかしい!という人が減っているのは確実だと思う。かつての私の職場(もう退職して長いが・・・)でも、これはおかしい、という人は、私以外にはほとんどいなかった。私がいなくなって、おそらく平穏な職場になっただろうと思う。

 言うべきことを言い続けたら、もちろん「昇進」はない。しかし、給料は保証されているのだから、それでいいじゃないか。これは言わなければならないと思いながら黙っていることは、精神衛生上よくない、ストレスになる。健康のためにはストレスをつくらないことだ。言ってしまえばスッキリする。

 私のモットーは「出過ぎた杭は打たれない」であった。


大阪の方々

2023-04-12 19:44:50 | 社会

 大阪の方々は、立派な方が多いようで、新型コロナで亡くなる方の比率がもっとも高いといわれ、さらに65歳以上の介護保険料も大阪市はダントツに高い。それでも、なぜか「維新」による政治がお好きのようだ。

 65歳以上の介護保険料、大阪市は全国12位、6758円から7927円に上がる。これよりも高い自治体はあるが、人口が極めて少なく老人が多いところばかりである。いずれにしても市ではトップを飾る。それだけ負担が大きいということだ。

 ほかの自治体を見てみると、東京都でもっとも高い足立区が6580円、次いで墨田区の6480円となる。名古屋市は6391円、京都市は6600円、横浜市は6200円、川崎市は5825円、神戸市は6260円、浜松市は5534円である。

 「維新」の「身を切る改革」というのは、市民が身を切るのであって、市当局が身を切るわけではない。

 こんなところには住みたくない!

 

 


「共通の価値」?

2023-04-12 08:33:47 | 社会

 統一教会党=自由民主党と創価学会党である公明党による政権は、しばしば外国に関して民主主義や人権を「共通の価値」とする・・・・とか語る。

 しかし、ミャンマーでは、残酷な人権や民主主義を振り返りもしない軍事政権を、ロシアなどとともに支えている。

 

ミャンマー国軍が民主派の式典会場を空爆、50人以上死亡 北西部ザガイン地域


「有事には・・・・・」

2023-04-12 08:11:17 | 政治

 すでに「有事」には、自衛隊の指揮権はアメリカが保有することは決まっている。日本はアメリカの戦略に対応して、あるいはその指揮下に南西諸島への配備を行い、アメリカにとっての対中国の最前線を担わされる。

 共同通信が、「有事」には海保が自衛隊の指揮下に入るという記事を流した。ということは、海保もアメリカの指揮下に置かれるということだ。アメリカの戦争の最前線に立たされることだろう。

 こんなあほらしいことはない。

 アメリカは自らの覇権が揺らいでいる、そのなかで中国が大きく台頭してきていることに危機感を抱き、中国を封じ込めようとしている。

 実際、中国の経済力を背景にして、今までドル決済であったのが、人民元による決済を可能とする国(ブラジル、ケニアなど)、あるいは自国通貨での決済を可能とする国(インドなど)が出現し、いわゆるドル基軸という決済システムが揺らいでいる。

 そうしたアメリカの危機を、なにゆえに日本が支えていかなければならないのか。岸田らは外国に行けば行ったで、そこで多額の資金援助を約束してきている。それも億単位ではなく、兆単位である。その場合、財源がどうのこうのという話は聞かない。日本国民になんらかの施策をするときだけ、財源が、財源が・・・と騒ぐ。メディアも政府の意向通りに騒ぐ。

 もうこうしたあほらしい政権、無能なメディアに左右されることなく、じっくりと日本の在り方を考えるときにきている。正常な判断は、まずテレビメディアからの離脱から始めるべきだ。今までテレビ視聴につかっていた時間を読書で埋めることが肝要だ。

 健全な精神は、テレビの不在からつくられる。

 

 


日本の税制は、決して公平ではない

2023-04-12 08:05:34 | 政治

 デイリー新潮の記事であるが、ここに記されているのは、税の徴収のこと。企業には税負担を軽くするだけではなく、国や自治体から多額の補助金が出されている。日本は企業、とりわけ大企業天国である。

大企業の「優遇措置」を守ろうとする族議員、宗教法人の非課税特権 不公平すぎる日本の税制の実態


「例外状態」

2023-04-11 08:36:08 | 社会

 イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「例外状態」という概念を提起している。近代民主政治の特徴である三権分立を無視して、行政が法を凌駕する事態、それが「例外状態」である。

 私たちは、安倍政権以降、急速に「例外状態」のなかに投げ入れられたことを想起する。そしてその「例外状態」は、容易に全体主義国家へと変容すると、アガンベンはいう。

 日本は、すでに全体主義国家一歩手前まで来ている、というのが私の実感である。

 政治勢力として、統一教会党である自由民主党は、その主要な担い手であり、またその「下駄の雪」である創価学会党・公明党はそもそもから全体主義的傾向を持った宗教団体である。そして関西で伸びる「維新」は、デマゴギーをまき散らしながら全体主義的思考を強める政党である。またメディアに騒がれることによってのみ認知度を高め、話題になることによって票を伸ばす「NHK党」や「参政党」は、何を考えているかわからない目立ちたいだけの烏合の衆によって構成されている。

 『世界』5月号で、松本一哉は「メディアの「罪と罰」」という連載の第一回で、「安倍政権下で起きたこと」を書き、アガンベンの言説を引用している。その文は、「メディアはどうすれば人々の『信頼』を取り戻していけるのか」という問題意識から記されている。松本は朝日新聞出身である。しかし朝日新聞は、新聞購読料を4900円とするという。また朝日新聞社の動きを見ていると、新聞発行会社としては今後引いていくという姿勢がみられる。そして読売、産経はすでに権力の翼賛メディアとしての地位を確保し、毎日は昔からだが腰の据わらない報道を繰り広げている。私が見るところ、一部の地方紙と『東京新聞』だけがジャーナリズム精神をもって新聞を発行している状態でしかない。

 そんな状態の中で、メディアは「信頼」を獲得できるかという問いに対しては、悲観的ならざるを得ない。テレビをはじめ、主要メディアは、「例外状態」を支える、ある種の国家機関と化しているように思える。

 松本は、現状の日本について、「「安倍一強」体制が揺らぎを見せない中にあって、政治に「真実」を求めようとする姿勢や、何が本当で何がうそかを見極めようとする感覚が少なからぬ人々の間で「鈍化」し、すべてを「やむをえないこと」として受け容れていく、そんな事態が進んでいたのではないか。」と書く。

 こういう状況を、私は思う。日本人だけではないかもしれないが、庶民は有名人が好きだ。有名人、テレビに出たりしている人がどこそこに来る、というと、なぜか見に行く。私にはなぜ?という気持ちしかないのだが、政治家でもテレビに出ている人が来るというとき、庶民はそこに足を運ぶ。テレビは、政治家を有名人にする。とりわけ、関西のテレビは、「維新」の政治家を出演させる。庶民は、テレビに出ているということで「有名人」として認定し、一定の信頼を寄せる。

 政治に「真実」を求めるという行動が、日本にあるのだろうか。それはきわめて少数の人たちの営みでしかない。

 それはメディア関係者も同様だ。松本は「政治や権力との距離を厳格に保持」する、「市民の側に立つ・市民のための公共メディアとして生まれ変わる」というが、しかし日々の紙面を見ていれば、たとえば『東京新聞』と同じ中日新聞社が出している東海本社の『中日新聞』は、ジャーナリズム精神のひとかけらもない記事で埋まっている。行政が垂れ流すことを記事として批評抜きに載せる。スズキにべったりの記事を載せる。

 『週刊金曜日』は、メディアで働こうという意思を持った学生たちに塾を開いている。そういうところに参加する若者は、ジャーナリズム精神を持つのだろうが、しかしそれとて持続するかどうか。社内には、そんなことを考えもしない人たちが働いている。一定の年齢になると、たとえば組合活動をしていたものが急におとなしくなり、管理職の階段を昇り始める者を、私は何人も見てきた。社会のなかの価値観、「いい年をしていい加減に丸くなれよ」という価値観は、今も存在している。

 それは、現行の体制に馴化するということだ。この「例外状態」に馴染め、ということでもある。それに抗うことができる者はどれほどいるのか。

 松本は、「「例外状態」を手にした行政権力が暴走した時の恐ろしさを、過去を振り返って押さえておくとともに、その怖さを自覚しておく必要は充分にあるだろう。」という。だが、メディア関係者は、どれほどこうした意識をもっているのか。

 


日銀総裁

2023-04-10 12:57:24 | 政治

 本来は内閣から独立して業務を行うべき国家機関が、アベ政権の時代に政権の下僕と化すようになった。内閣法制局はいうまでもなく、日本銀行までも、である。日本銀行は、アベの倒錯した「アベノミクス」という政策の重要な担い手として存在した。アベ政権から期待されて総裁となったのが、黒田東彦である。彼がやっと退任した。

 その記者会見でも、反省はなかった。アベ政権に関わった者たちは、すべからく厚顔無恥の輩であった。

 『東京新聞』の社説が、この黒田退任を取り上げている。ここに記されているように、彼がおこなったことは実現していない。2%の物価上昇も、彼の方針の結果ではなく、ウクライナ戦争の結果である。

 『選択』4月号の巻頭で、経済ジャーナリストのウィリアム・ベセックは、「黒田日銀が遺した「金融の罠」」で、こう語っている。

 「黒田氏はデフレを終わらせることができなかった。日本のデフレを終わらせたのはウラジミール・プーチン大統領だ。しかも日本は、エネルギーや食糧価格の高騰によって「悪いインフレ」に陥っている。」と。

 実際、あらゆる物価が上昇し、わたしを含めて生活不安が大きくなっている。

 ベセックは、こうも語る。

「日本は量的緩和の沼にはまっている。日銀は国債発行残高の半分以上を保有し、日本企業の最大株主だ。この状況から脱するには過激な巻き添え被害は避けられない。国債利回りが上がるほど、日本は先進国最大の債務負担を処理するのが難しくなる。仮に日本の国債利回りが2%になれば、銀行や企業、地方自治体、年金・保険基金といった、あらゆるものが痛みを味わう。この罠から逃れるのは困難であり、日本は追い詰められている。」

 要するに、「アベノミクス」という空疎なことばで展開された施策は、格差を拡大し、貧しき者をより貧しくし、経済の好転もできずにことばだけが踊っていたのだ。

 失政の尻拭いは、必ず庶民にのしかかってくる。すでに大いに「痛み」を味わっているのに、さらに痛みが押しつけられる。


沖縄のこと

2023-04-09 20:16:46 | 現在社会

 『世界』5月号を読み進めているが、田仲康博さんの「「戦後ゼロ年」の沖縄から」は、きわめて刺激的な論考であった。

 沖縄は、日本の対米隷属の最前線。アメリカに何らかの脅威が起きたときには、アメリカ本国と同じように対応する。田仲さんは、2001年9月11日のことを記す。その日、沖縄は、平時から戦時へと変わったことを記す。私たちは、9・11を他国のこととしてみていた。しかし沖縄はそうではなかった。沖縄はアメリカそのものであったのだ。

 アメリカがどこかで戦争するとき、沖縄も戦争をする。アメリカは四六時中どこかで戦闘をしているから、沖縄はいつでも「戦時」なのである。だから、沖縄には「戦後」はなかった。だから「戦後ゼロ年」なのだ。

 日本では、現在の自民党・公明党政権はアメリカへの隷属を主体的にすすめているが、それを私たちは「戦後から戦前へ」という認識で捉えている。ところが、沖縄には「戦後」はなく、あの戦争と続く歴史を刻んでいるのだ。

 だから、田仲さんが学生を辺野古に連れて行ったとき、次のような問答がなされた。

 あなたたちは何をしにここに来たの?

 これに対して、学生たちは「沖縄の声を聞くために」、「平和を学ぶために」と答えた。すると、質問者はこう語った。

 そう。君たちは平和を学びに来たんだね。平和を学べるっていいよね。ここではね、平和は闘いとらねばいけないんだよ。

 沖縄の住民と、本土に住む者たちの「絶望的なまでの〈距離〉」を、田仲さんは指摘する。さらに沖縄の平和運動は、「平和運動」と呼ばれる概念をこえて、日本国憲法13条、25条にかかわる、「人として生きるための、あたりまえの〈日常〉を取り戻すための運動」であり続けてきたことを示す。

 そして最後の方で、こう記す。

 国家権力は知らず知らずのうちにわたしたちの風景に忍び寄り、わたしたちの言葉と身体を萎縮させる。異議申し立ての声がどこにも届かないという空気が醸成され、人々の間に拡散されていくとき、失われるのはまず言葉だ。

 権力は言葉本来の意味で「聞く耳」をもたない。なにをしても無駄だと思わせる「尋問空間」においては、圧倒的な受動性が状況を支配していく。

 さしあたって言葉を鍛えるしかない。まずは、自分の言葉をチェックする必要があるだろう。いつの間にか、それが権力者の言葉を内在化したものになっていないかどうか。一人でやるのはシンドイ作業だが、まずは他者に向けて発話してみると相互チェックが可能になる。

 ・・・・「世界は暫定的」なものであるということだ。そこには希望がある。暫定的、つまり、変えることができるということだ。

 わたしたちはもうとっくに「戦前」へと続く道を転げ落ちている。こんなときこそ振り返ってみよう。まずは自分が立つ位置を確認すること。すべてはそこからーそこから始めるしかない。

 私たちが生きる世界は「暫定的」、その通りだと思う。田仲さんが言うように、だから希望はある。

 

 


「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」

2023-04-09 13:32:20 | 歴史

 『世界』5月号には、秀逸な論文が並ぶ。さすが『世界』である。

 論文ではないが、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチへのインタビューが掲載されている。これはTBSの「報道特集」でも放映されたものだ。『世界』では、ロシア文学者の沼野恭子さんのインタビューが付け加わっている。

 スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの発言のなかに、「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」ということばがある。この文は、こういう脈絡から発せられている。それを引用しよう。

 ロシア国民は、ここ何年もの間、虐げられ、騙され、盗まれてきたので、プーチンが国民を焚きつけるためにプロパガンダとして用いたスローガンを内心、待ち望んでいたのです。それは、「ロシアはこんなにも長い間屈辱を味わっていてはいけない」「 ロシアはうつむいていてはいけない」という言葉でした。

 そして「つまり」のあとに、前記の文が続く。

 一度「大国」として自他共に認識していた国家とその民は、「大国」ということばの呪縛から離れられないのである。

 ソヴィエト連邦時代、強制収容所などに象徴されるスターリン体制があっても、ロシア国民はかつての「大国」時代を回想するのだ。みずからがみじめであればあるほど、自分とは直接関係はないが、しかし自分自身が属していたそれに、みずからの栄光を投映するのだ。

 ソヴィエト連邦時代、そしてその後のロシアによる、国民に対する権威主義的な支配、また同時に周辺の国々に対する圧迫と抑圧、それを学んだ私は、ロシアという国家の、そしてまたプーチン政権がやることの「狂気」を客観的に見つめることができるのだが、それを知らずにいると、プーチンによるウクライナ侵攻が周辺の国々にどれほどの脅威を与えているのかを理解できない。

 「偉大な大国」に属するロシア国民は、「偉大な大国」に依拠すればするほど、周辺の国々にとってのロシアの脅威を想像することができないし、他方ロシアによる他国への圧迫をも支持してしまうのだ。

 自らが属する国家を「大国」だと認識するとき、国家と国民は一体化され、国家が他国に行う施策を、支持してしまう。とりわけ、かつては「大国」であったけれども今はそうでないという国家に属する人びとが、「大国」であった時のことを懐かしく想起するとき、過去の加害行為を忘れ去り、過去の周辺の国々への圧迫や侵略を正当化し、現在行われている周辺の国々に対する強硬な姿勢を支持し、国民も煽る。

 ロシアの民も、日本国の民も、その点で共通するのではないかと思う。

 日本において「私たちは再び偉大な大国になるべきだ」ということばは、対中国関係で露わになる。かつての大日本帝国の時代、中国人を「チャンコロ」と呼び、中華民国を蔑み、日本よりはるかに劣る国家として、大日本帝国の国民は認識していた。しかしその中国が、はるかに巨大な経済力をもち、またそれに応じた軍事力、外交力を発揮するとき、日本人のなかには、日本は「再び偉大な大国になるべきだ」という意識が生まれ大きくなっているのではないか。

 長い歴史を振り返れば、世界でいつも「帝国」として存在し続けたのは、中国の王朝であった。あの兵馬俑、台湾の故宮博物館に所蔵されている品々をみるにつけ、中国が過去一貫して大国として存在していたことを思う。たかが近代化で中国より一歩進んでいたことを唯一のよりどころとして中国を蔑視するのは、歴史の無知をさらけだす。

 今日本国は、中国を仮想敵として、南西諸島に自衛隊を派遣して、アメリカの尻馬にのって「臨戦態勢」を構築しようとしている。愚かというしかない。

 『世界』5月号には、宮城大藏さんの「失われたバランス」という論攷がある。戦後日本国家は、憲法の平和主義を掲げながら、基本的にバランスをとりながら外交の舵取りを行ってきた。しかし今は、アメリカ一辺倒の、バランスを欠いた外交政策を展開している。

 その論文のなかに、「アメリカの対外姿勢はしばしば急激に大きく変化し、その際には、他国を気にせずアメリカの都合で動くことがある」という指摘がある。その通りである。アメリカは、きわめて独善的な国家であって、それは一貫していて、アメリカの外交史を少しでもみればすぐわかることである。

 現在のようにアメリカ一辺倒で終始することはきわめて危険である。「意思疎通と信頼醸成」を、中国始め多くの国々と築いていくべきである。

 『世界』の論文を読みながら、いろいろなことを考えている。こうした刺激があってこそ、平和を志向することばは生きてくる。学ぶことは、ほんとうに大切だと思う。

 


【映画】「マルモイ(ことばあつめ)」

2023-04-08 20:25:34 | 近現代史

 大日本帝国の植民地となった朝鮮半島では、朝鮮総督府により日本語を強制され、創氏改名を命じられた。朝鮮のことばが奪われようとしていた。

 しかし、朝鮮民族のことば、文字をきちんと残し、伝えていこうという人びとが、「朝鮮語大辞典」をつくろうと結集した。もちろんそうした動きは、朝鮮総督府によって禁じられた。それでも、朝鮮語学会の人びとは、ことばあつめを行った。

 1942年におこった「朝鮮語学会事件」をモデルにしたフィクション、それが映画「マルモイ」である。「マル」はことば、「モイ」は集める。

 浜松にあるシネマイーラで上映されたが見逃してしまった。そしたら、AmazonPrimeで見ることができた。

 植民地支配下を舞台にしているため、残酷な場面もあるが、しかし最後は心温まる場面で終わる。 

映画「マルモイ」が描く 禁じられた朝鮮語の辞書作り

 


【演劇】無名塾「バリモア」

2023-04-08 16:46:52 | 演劇

 舞台装置は、ふつう、観客が入る前に完成しているはずだ。しかし、なぜか開幕前にスタッフが舞台装置を組み立てている。これは演出なのか、それとも・・・

 バリモアは有名な俳優。といっても、私はまったく知らなかった。シェイクスピア俳優として有名だとのこと。

 脚光を浴びたバリモア、しかしこの世界には浮沈はつきもの、老いてきてさらに体も精神も弱っていく。バリモアは、みずからの人生を振り返る。栄光のとき、喝采を浴びたとき、しかし妻と別れたとき、アル中で苦しんだとき・・・・・・いろいろなことを回想する。回想しながらことばを絞り出していく。そのことばのなかには、シェイクスピアの作品、自らが上演したときの台詞がある。

 なるほどシェイクスピアの数々の台詞は、そのままバリモアの人生を表現する。過去の栄光と挫折が台詞に投影される。

 さて仲代達矢は90歳だという。老いて尚元気である。台詞も覚えることができ、体もシャンとしている。バリモアとは等号で結べない。

 この脚本を書いたウィリアム・ルースという人は、おそらく絶望に沈むバリモアを描こうとしたのではないだろうか。

 だが仲代のバリモアは、老いてはいるが元気である。バリモアをどう演じきるか、仲代は考えたのだろう。仲代のバリモアは絶望に沈んでなんかいない。老いてさらに円熟し、余裕さえ見せる。その余裕が、笑いを生む。

 見ていて、仲代達矢のための「バリモア」であったと思う。

 私は往年の俳優でもっとも好きなのは、民藝の滝沢修である。もちろん滝沢はもういない。その滝沢は沈黙していても存在感があった。沈黙が支配していても、舞台は進んで行った。ひとつひとつの動作(演技)が、何ごとかを示していた。

 仲代達矢は、そうではなく、やはり台詞をことばにすることによって、仲代らしさが表現される。

 名優というのは、様々なのだ。その様々が、舞台上で火花を散らす。その火花を、私たちは見つめるのだ。

 


昔の「戦前」、今の「戦前」

2023-04-08 12:28:40 | 近現代史

 昨今の政治情勢をみていると、1945年の大日本帝国の崩壊へと進んで行った歴史と同じように、現在の日本国も崩壊へと向かっているようなきがしてならない。

 日本国は、アメリカ主導下、中国を「仮想帝国」として、中国との戦闘を前提として南西諸島方面に自衛隊を展開させている。しかし少し考えるだけで、中国ともし戦争になれば、日本国はまさに崩壊することは確実である。第一に、大日本帝国でさえ、中華民国に勝てなかった歴史がある。広大な土地とばく大な人口を支配することはそもそも無理であったのに、日本軍は中国大陸に派兵して戦争を展開したが、日本軍の支配は「点と線」だけであった。その頃の中国は、軍隊を日本に派遣して、あるいは様々な兵器を駆使して日本を攻撃することはできなかった。それでも結局、大日本帝国は中華民国・蒋介石に白旗を掲げた。

 そして今。中国は核兵器を始め、多くの武器を持ち、日本を攻撃することなんか容易にできる状態だ。とりわけ、日本海側に並んでいる原発にミサイルを打ち込めば、それは同時に核爆発となり、日本はあっという間に破壊される。

 1930年代からの大日本帝国の戦争政策は拡大の一途をたどったが、それに対して無謀であるという批判・評価は当時もあった。しかし大日本帝国は、にもかかわらず、破滅への途を進んで行った。

 現代の支配層も、おなじ途を歩もうとしているようだ。中国との戦争は、日本にとってあまりに危険で無謀である。