1983年9月16日、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一墓前祭が開かれた。その時の講師は瀬戸内寂聴さん。
私は主宰者の市原正恵さんから車を出すように言われ、瀬戸内さんが静岡にいるあいだ、ずっとご一緒させていただいた。静岡駅から大杉栄らの墓がある沓谷霊園へ。墓前祭は午後だった。その頃は大杉・野枝の遺児たちもご存命で参加されていた。瀬戸内さんの読経の中、献花が行われたりした。
夕方から静岡教育会館ホールで瀬戸内さんの講演が予定されていた。墓前祭のあと、瀬戸内さんは体調が思わしくないので休ませて欲しいというので、中島屋ホテルで休憩をとられた。
講演会の時刻が迫ってきたので中島屋ホテルから瀬戸内さんを乗せて教育会館ホールへ。17時半から記念集会が行われ、約170人が参加した。まず福岡RKB制作のドキュメンタリー「ルイズ その絆は」が上映された。そして瀬戸内さんが「関東大震災から60年目の今日」という題で講演された。1時間30分の熱のこもったお話しであった。
集会後、静岡駅まで送ったが、とてもお元気で帰っていかれた。
車の中で、いろいろ話をした。覚えているのは二つ。一つは、私が学生時代から伊藤野枝のファンで、全集などを読んでいて、野枝のような女性と暮らしたいというと、「あなた、野枝と一緒に暮らすなんてたいへんよ」と応えられたこと、もう一つは講演の報酬のこと。「私が出版社の講演を引き受けると高額の報酬が払われるの。でもそんなおカネないでしょ。だから無報酬でいいから」。
その頃、瀬戸内さんはすでに『美は乱調にあり』を出され、この集会のあとに『諧調は偽りなり』を出された。
講演では、発見された検死の調書をもとに、大杉らの虐殺のもようが語られたと記憶している。『諧調は偽りなり』に書かれた内容を主に話されたと、その後同書を読んで感じた。
私はその後も瀬戸内さんの動向や出版物を注視してきた。だから瀬戸内さんが亡くなられたことに、ある種の感慨がある。
人は必ずこの世を去って行く。瀬戸内さんは、熱い人生を生きた。
今日は、この文を読んだので、書く気になった。