今日の『東京新聞』特報欄、今では東洋大学の教授先生になっている、政府に規制緩和させそこに参入して金もうけに走る竹中平蔵、かれを批判した東洋大学生が「退学処分」を示唆された事件を書いている。
私が行っていた頃の大学は、自由が溢れていた。タテカンは所狭しと並べられていたし、教授の批判も自由、表現の自由は大学当局に干渉されることはいっさいなかった。唯一干渉してきたのは、大学内にはびこっていた革マル派であった。だから私は、今でも革マル派は信用しない。
さて、この件について内田樹さんのコメントがあった。今の大学は、経営陣に主導権があり(戦前から日本の大学は教授会が権限を持っていた。今は1930年代よりも悪くなっている)株式会社化している、学生が高い授業料を払っているのに学生を「社員」とみなすのは問題だ、と。教員達はすでに「社員」化している。
内田氏は「イエスマンシップがはびこって、かつてならトップになれなかったような人がトップになっている。物言う人は疎まれる」という。
要するに小学校~高校は、ずっと「イエスマンシップがはびこって」、イエスマンしかトップになれない構造がずっと存在し、「物言う人は疎まれる」どころか差別される、そのようなありかたが大学にまで達したということなのだろう。
こういうところで、自主性とか主体性とかは生まれないだろう。もちろん、主体的に「イエスマンシップ」を発揮する人は増えていく。つまり体制に順応する人間はいっぱいいる。中国で、共産党員がいっぱいいることと同じである。
私が行っていた頃の大学は、自由が溢れていた。タテカンは所狭しと並べられていたし、教授の批判も自由、表現の自由は大学当局に干渉されることはいっさいなかった。唯一干渉してきたのは、大学内にはびこっていた革マル派であった。だから私は、今でも革マル派は信用しない。
さて、この件について内田樹さんのコメントがあった。今の大学は、経営陣に主導権があり(戦前から日本の大学は教授会が権限を持っていた。今は1930年代よりも悪くなっている)株式会社化している、学生が高い授業料を払っているのに学生を「社員」とみなすのは問題だ、と。教員達はすでに「社員」化している。
内田氏は「イエスマンシップがはびこって、かつてならトップになれなかったような人がトップになっている。物言う人は疎まれる」という。
要するに小学校~高校は、ずっと「イエスマンシップがはびこって」、イエスマンしかトップになれない構造がずっと存在し、「物言う人は疎まれる」どころか差別される、そのようなありかたが大学にまで達したということなのだろう。
こういうところで、自主性とか主体性とかは生まれないだろう。もちろん、主体的に「イエスマンシップ」を発揮する人は増えていく。つまり体制に順応する人間はいっぱいいる。中国で、共産党員がいっぱいいることと同じである。