毎月1回、某紙に書いている原稿、今日付で公表されたので、それを貼り付ける。
田中正造と静岡
天竜川にダムがない頃、天竜川の水運はとても盛んであった。木材はいうまでもなく、人や鉱石も運ばれた。鉱石は、旧佐久間町にあった久根鉱山や旧龍山村にあった峰の沢鉱山からのものであった。久根鉱山は、古河鉱業の経営であった。
久根鉱山が古河鉱業に買収される前、精錬時に排出される有毒ガスによって樹木が枯れたり、鉱毒が天竜川に流されたりした。地域の住民は、県議会議員河合重蔵(現在の掛川市選出)らと共に反対運動を行って勝利した。そのために久根鉱山は古河鉱業に売り渡されたのである。1899年のことであった。
古河鉱業は、久根鉱山の銅鉱を「∧一」と記された帆掛け船で運び、材木町の天龍河畔で陸揚げし、鉄道で東京に運んで亜硫酸ガスを除去し、さらに足尾銅山で精錬をした。古河は、久根では精錬をしなかった。地域住民の反対運動を無視できなかったのである。
さて、久根鉱山の鉱毒事件を契機に、河合重蔵と田中正造は、強い絆で結びつくようになった。正造は、しばしば掛川・河井家を訪問し、また書簡で連絡をとりあっていた(『静岡県近代史研究』39号で、それらを紹介した)。ちなみに、正造が非戦論を唱えたことは知られているが、それは1903年、掛川での演説であった。そこで正造は、軍備を全廃し、「平和への闘争」を呼びかけたのである。
正造の「谷中学」
田中正造の思想や生き方を知ろうとするとき、手に入りやすいのは『真の文明は人を殺さず』(小学館)、『田中正造』(岩波現代文庫)である。いずれも小松裕(熊本大学教授)によるものである。正造研究の第一人者である小松は、しかしこの3月25日に還らぬ人となった。小松は、東日本大震災と福島原発事故に遭って、日本近代に強い憤りをもつと同時に、正造の思想を伝える努力が足りなかったと自省した。正造の「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」ということばは、近代日本の「文明」に対する根底的な抗議であったのだが、しかしその思想は日本国民のなかに行き渡っているわけではない。
現代に生きる私たちは、非戦論をはじめ、正造から学ぶべきことが大いにあると思う。
晩年の正造(1913・9・4没)は、「谷中学」を提唱した。遊水池とされることになり立ち退きを命令された谷中村住民、その中には家屋が強制破壊された後も残留する者がいた。そんなとき、渡良瀬川が洪水となった。救援に向かった正造の眼に、ずぶ濡れになりながらも案外平然としてる人々の姿が映った。正造は、そのとき、今まで「教えん教えん」とばかりしてきたが、そうではなくこの人々からもっと学ぶべきだったのだと気付く。強靱とも見える谷中残留民から学び、自省し、自己変革を遂げるのだ、と。
正造のように
長い闘いを経るなかで、正造が身をもって示したこと、それは人を信じ、謙虚に人々から学ぶこと、そして「一身もって公共に尽くす」ことであった。
智識あるものは智識を他人に恵ぐめよ。足手あるものは足手を寄付せよ。金銭あるもまた同じ。かく互いに長短補足して一致漸くなる。また人は金のみで動くものにあらず。人は心、人は精神、人は道理、人は大義名分、人は誠実。高く信じ、厚く信じ、深く信じ、互いに信と信との結合に限るべし。
すぐに統一地方選挙が始まる。正造も、県会議員、国会議員であったが、正造にとって議会は、人々の権利を守り、権力の暴挙を批判する場であった。正造のような、「一身もって公共に尽くす」議員こそが、いま求められている。
田中正造と静岡
天竜川にダムがない頃、天竜川の水運はとても盛んであった。木材はいうまでもなく、人や鉱石も運ばれた。鉱石は、旧佐久間町にあった久根鉱山や旧龍山村にあった峰の沢鉱山からのものであった。久根鉱山は、古河鉱業の経営であった。
久根鉱山が古河鉱業に買収される前、精錬時に排出される有毒ガスによって樹木が枯れたり、鉱毒が天竜川に流されたりした。地域の住民は、県議会議員河合重蔵(現在の掛川市選出)らと共に反対運動を行って勝利した。そのために久根鉱山は古河鉱業に売り渡されたのである。1899年のことであった。
古河鉱業は、久根鉱山の銅鉱を「∧一」と記された帆掛け船で運び、材木町の天龍河畔で陸揚げし、鉄道で東京に運んで亜硫酸ガスを除去し、さらに足尾銅山で精錬をした。古河は、久根では精錬をしなかった。地域住民の反対運動を無視できなかったのである。
さて、久根鉱山の鉱毒事件を契機に、河合重蔵と田中正造は、強い絆で結びつくようになった。正造は、しばしば掛川・河井家を訪問し、また書簡で連絡をとりあっていた(『静岡県近代史研究』39号で、それらを紹介した)。ちなみに、正造が非戦論を唱えたことは知られているが、それは1903年、掛川での演説であった。そこで正造は、軍備を全廃し、「平和への闘争」を呼びかけたのである。
正造の「谷中学」
田中正造の思想や生き方を知ろうとするとき、手に入りやすいのは『真の文明は人を殺さず』(小学館)、『田中正造』(岩波現代文庫)である。いずれも小松裕(熊本大学教授)によるものである。正造研究の第一人者である小松は、しかしこの3月25日に還らぬ人となった。小松は、東日本大震災と福島原発事故に遭って、日本近代に強い憤りをもつと同時に、正造の思想を伝える努力が足りなかったと自省した。正造の「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」ということばは、近代日本の「文明」に対する根底的な抗議であったのだが、しかしその思想は日本国民のなかに行き渡っているわけではない。
現代に生きる私たちは、非戦論をはじめ、正造から学ぶべきことが大いにあると思う。
晩年の正造(1913・9・4没)は、「谷中学」を提唱した。遊水池とされることになり立ち退きを命令された谷中村住民、その中には家屋が強制破壊された後も残留する者がいた。そんなとき、渡良瀬川が洪水となった。救援に向かった正造の眼に、ずぶ濡れになりながらも案外平然としてる人々の姿が映った。正造は、そのとき、今まで「教えん教えん」とばかりしてきたが、そうではなくこの人々からもっと学ぶべきだったのだと気付く。強靱とも見える谷中残留民から学び、自省し、自己変革を遂げるのだ、と。
正造のように
長い闘いを経るなかで、正造が身をもって示したこと、それは人を信じ、謙虚に人々から学ぶこと、そして「一身もって公共に尽くす」ことであった。
智識あるものは智識を他人に恵ぐめよ。足手あるものは足手を寄付せよ。金銭あるもまた同じ。かく互いに長短補足して一致漸くなる。また人は金のみで動くものにあらず。人は心、人は精神、人は道理、人は大義名分、人は誠実。高く信じ、厚く信じ、深く信じ、互いに信と信との結合に限るべし。
すぐに統一地方選挙が始まる。正造も、県会議員、国会議員であったが、正造にとって議会は、人々の権利を守り、権力の暴挙を批判する場であった。正造のような、「一身もって公共に尽くす」議員こそが、いま求められている。