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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

正造のように

2015-04-01 21:38:40 | 政治
 毎月1回、某紙に書いている原稿、今日付で公表されたので、それを貼り付ける。

田中正造と静岡 
 
天竜川にダムがない頃、天竜川の水運はとても盛んであった。木材はいうまでもなく、人や鉱石も運ばれた。鉱石は、旧佐久間町にあった久根鉱山や旧龍山村にあった峰の沢鉱山からのものであった。久根鉱山は、古河鉱業の経営であった。
 久根鉱山が古河鉱業に買収される前、精錬時に排出される有毒ガスによって樹木が枯れたり、鉱毒が天竜川に流されたりした。地域の住民は、県議会議員河合重蔵(現在の掛川市選出)らと共に反対運動を行って勝利した。そのために久根鉱山は古河鉱業に売り渡されたのである。1899年のことであった。
 古河鉱業は、久根鉱山の銅鉱を「∧一」と記された帆掛け船で運び、材木町の天龍河畔で陸揚げし、鉄道で東京に運んで亜硫酸ガスを除去し、さらに足尾銅山で精錬をした。古河は、久根では精錬をしなかった。地域住民の反対運動を無視できなかったのである。 
 さて、久根鉱山の鉱毒事件を契機に、河合重蔵と田中正造は、強い絆で結びつくようになった。正造は、しばしば掛川・河井家を訪問し、また書簡で連絡をとりあっていた(『静岡県近代史研究』39号で、それらを紹介した)。ちなみに、正造が非戦論を唱えたことは知られているが、それは1903年、掛川での演説であった。そこで正造は、軍備を全廃し、「平和への闘争」を呼びかけたのである。

正造の「谷中学」 

 田中正造の思想や生き方を知ろうとするとき、手に入りやすいのは『真の文明は人を殺さず』(小学館)、『田中正造』(岩波現代文庫)である。いずれも小松裕(熊本大学教授)によるものである。正造研究の第一人者である小松は、しかしこの3月25日に還らぬ人となった。小松は、東日本大震災と福島原発事故に遭って、日本近代に強い憤りをもつと同時に、正造の思想を伝える努力が足りなかったと自省した。正造の「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」ということばは、近代日本の「文明」に対する根底的な抗議であったのだが、しかしその思想は日本国民のなかに行き渡っているわけではない。 
現代に生きる私たちは、非戦論をはじめ、正造から学ぶべきことが大いにあると思う。
 晩年の正造(1913・9・4没)は、「谷中学」を提唱した。遊水池とされることになり立ち退きを命令された谷中村住民、その中には家屋が強制破壊された後も残留する者がいた。そんなとき、渡良瀬川が洪水となった。救援に向かった正造の眼に、ずぶ濡れになりながらも案外平然としてる人々の姿が映った。正造は、そのとき、今まで「教えん教えん」とばかりしてきたが、そうではなくこの人々からもっと学ぶべきだったのだと気付く。強靱とも見える谷中残留民から学び、自省し、自己変革を遂げるのだ、と。

正造のように

 長い闘いを経るなかで、正造が身をもって示したこと、それは人を信じ、謙虚に人々から学ぶこと、そして「一身もって公共に尽くす」ことであった。

智識あるものは智識を他人に恵ぐめよ。足手あるものは足手を寄付せよ。金銭あるもまた同じ。かく互いに長短補足して一致漸くなる。また人は金のみで動くものにあらず。人は心、人は精神、人は道理、人は大義名分、人は誠実。高く信じ、厚く信じ、深く信じ、互いに信と信との結合に限るべし。

 すぐに統一地方選挙が始まる。正造も、県会議員、国会議員であったが、正造にとって議会は、人々の権利を守り、権力の暴挙を批判する場であった。正造のような、「一身もって公共に尽くす」議員こそが、いま求められている。


安倍強権政治

2015-04-01 07:18:21 | 政治
 安倍政権の強権ぶりには驚く。みずからの妄想と米国への貢献策だけ、ひたすら強行していく。まさに戦後政治の典型、「国益」をかなぐり捨てて、ひたすら米国に忠誠を誓う。そのために、日本には矛盾が激流のようにほとばしる。

『琉球新報』社説。

<社説>農相効力停止決定 まるで中世の専制国家 民意無視する政府の野蛮
2015年3月31日

 いったい今はいつの時代なのか。歴然と民意を踏みにじり恬(てん)として恥じぬ政府の姿は、中世の専制国家もかくや、と思わせる。
 まして民主主義の国とは到底思えない。もっと根源的にいえば、この政府が人権意識をかけらでも持っているか疑わしい。
 言うまでもなく林芳正農相が翁長雄志知事の発した作業停止指示の効力停止を決めたからだ。これで民主国家を称するとは度し難い。理は沖縄側にある。県は堂々と国際社会に訴えればいい。民主制に程遠いこの国の実相を知れば、国際社会は耳を疑うだろう。

「法治」の機能不全

 この肩書は悪い冗談としか思えないが、菅義偉官房長官は「沖縄基地負担軽減担当相」である。この人物の常套句(じょうとうく)は「法治国家」だが、農相の決定は、この国が「法治国家」としても機能不全であることを示している。
 ここまでを振り返る。仲井真弘多前知事は米軍普天間飛行場の県外移設を掲げて2010年に再選されたが、13年末に突然、公約を翻し、辺野古移設を認める埋め立て承認をした。国は沖縄の反対の民意を無視し、14年夏から辺野古沖の海底掘削調査を強行した。
 掘削に先立ち、沖縄防衛局は県から岩礁破砕の許可を得たが、その際は錨(いかり)(アンカー)投下と説明していた。だがことし1月に10~45トンもの巨大なコンクリートを投下し始め、サンゴ礁を壊しているのが海中写真と共に報じられた。
 県は実態調査のため、制限区域内への立ち入り許可を米軍から得ようと防衛局に調整を求めたが、防衛局は拒否した。現に環境破壊が進行中なのに、環境保全を管轄する県が調査すらできない。そんな「法治国家」がどこにあるか。
 県は今月23日に防衛局に作業停止を指示した。翌日、防衛省は農相に不服申し立てをして県の指示の効力停止を求めた。県は27日、却下を求め農相に意見書を出したが、県の要求は退けられた。
 そもそも行政不服審査法は国民に行政庁への不服申し立ての道を開くのが目的だ。行政庁が自らの行為の温存に使うのは本末転倒である。
 しかも審査は第三者機関がするのではない。農相は閣僚で、防衛省に停止を求めれば閣内不一致となる。停止指示できるはずがない。「法治」の根源である客観性の欠落は明らかだ。
 国は、県が許可したことを掘削強行の根拠とする。だが、数十トンもの巨大なコンクリートを「錨」と呼ぶのは詐称に等しい。しかもサンゴ破壊は県の許可区域外にも及んでいることがはっきりしている。どんな観点から見ても国の掘削は違法性が濃厚なのだ。これで「法治国家」といえるのか。

基地集中は限界

 国は、工事停止で作業が遅れれば「日米の信頼関係に悪影響し、外交・防衛上の損害が生じる」と主張する。サンゴ破壊の有無を調べるだけで「信頼」が失われるような二国間関係とは何なのか。
 まして「日米関係が悪化するから」という理由で、国内法に基づく許可を得ないまま作業を続けていいと言うのなら、県の言う通り、もはや独立国家ではない。
 辺野古移設は、地元では反対を掲げる市長が再選され、市議会も反対が多数を占め、反対の翁長氏が知事に当選し、衆院選は反対派が全小選挙区で勝利した。民主主義の観点から沖縄はこれ以上ない明確さで意思表示している。
 国は前知事の承認を大義名分とするが、公約破りに民主主義上の正当性はない。昨年の知事選で、前知事が現職としては前代未聞の大差で敗れたことからもそれは明らかだ。その民意を踏みにじり、度重なる知事の面会要求すら拒み続けて移設を強行する政府の姿は、何と野蛮であろうか。
 常識的に考えて、国土のわずか0・6%の沖縄に米軍専用基地を74%も押し込め、戦後70年を経てもなお続けようとするのは人道上も許されない。それが限界に来ている事実を政府は直視すべきだ。


 そして佐賀空港の問題。こちらは『日刊ゲンダイ』記事。

安倍政権の地方無視 辺野古の次は「佐賀空港オスプレイ配備」

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/158524