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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】坂本義和『人間と国家 ある政治学徒の回想』上(岩波新書)

2014-11-24 20:30:50 | 
 『世界』12月号で、最上敏樹氏の「「醒めた規範的リアリズム」に寄せて」を読んだ。副題は「坂本義和先生を追悼する」である。

 坂本義和氏は政治学者。高校生の頃から『世界』を購読しているボクにとっては、坂本氏の論考は近しいものであった。坂本氏の主張は、表題のように「醒めた規範的リアリズム」、現実をきちっと認識し、そこからどのようにあるべき状況にしていくかを、論理的に詰めていく。「あるべき状況」というのは、当然ある種の理想へ現実を向けていくということだ。
 そうした論文が、『世界』という雑誌にしばしば登場していた。

 最上氏の文を読み、坂本氏の自叙伝たる本書は読むべき価値があると思い購入して読んでみた。まだ上巻しか読んでいないが、まず気付いたのは、坂本氏の周辺にいたきら星のような、その筋では一流の学者たちとの交流である。その交流も、みずからの主張をぶつけていくなかで(妥協することなく)つくられてきたもので、坂本氏の主張に合わないと思った人たちは遠ざかっていったようだが、坂本氏から遠ざかるということはなかったようだ。

 「まえがき」の最初の頁で、坂本氏は「国家と国家の間の戦争の時代は終わったとよく言われています。しかし、国家の名のもとに、ひとを殺すことが正当化されることは、過去のものとなったわけではありません。」と鋭いことを指摘する。そしてその後にも、みずからの来歴を記しながら、ときに鋭い警句を発する。

 「時代がひとの目を狂わせ、時代が読み方を拘束するのです」(71頁)、そして「ゲッペルスは権力の美学によって国民を酔わせる力を計算しつくしていたのですが、それは非力な知性を圧倒する魔力を持っていました」。
  
 ボクは、「非力な知性」が「権力の美学」によって圧倒される、ということばに、今を重ね合わせる。

 「戦中は国家主義的・右翼的だった人が、にわかに左翼的言辞を弄する例などを見ると、そこに思想的な弱さを感知せざるをえなかった」(111頁)

 ここを読んで、今は逆だと思う。かつては「左翼的」だった労働法学者が、今は「新自由主義的」な言辞を弄し、反労働者的なことを半ば強引に推し進める。そこに「思想的な弱さ」を坂本氏は見るが、ボクはそこに「思想」を見ない。ただ“時流”に乗っているに過ぎない。そこには「思想」はない。

 また坂本氏は、ベンジャミン・フランクリンの

 There never was a good war or a bad peace.

を引用し、「半面の真理」だという。よい「戦争」なんてないし、「平和」が悪いなんてことはないのだ。どんな状態であろうとも、戦争がないということはそれだけですばらしいことだ。平和のもとで、悪しき状態をよくしていくことが求められるのである。

 それと関わって、「武力による「民族解放戦争」が、どこまで正当化できるか」という問題を、坂本氏は提起する(208頁)

 北ヴェトナムの指導者は、「もしこれほどの犠牲を払うことがはじめから分かっていたら、われわれはこのような戦争をしなかっただろう」と語ったという。

 この問題は、現時点でも考えるべき重要なテーマである。坂本氏は、「戦争そのものを否定する」立場であるのだろうが、この問題はボクたちが考えるべきものである。

 上巻だけ読んだ。いろいろ示唆されることが多い本だ。「非力な知性」であっても、そこに力を与えることはできるだろう。