土木技師 青山士 その3
パナマ運河とは、中学か高校の地理の時間で学んだことはある。
太平洋と大西洋を結ぶ運河で、全長80kmである。
パナマ運河建設により、太平洋と大西洋を船で往来するすることが可能になった。
このパナマ運河には、閘門(こうもん)が3か所採用されている。
太平洋からパナマ運河に入ると、最高地点である海抜26mにガトゥン湖がある。
この人造湖に船を上げるために閘門で水位を調整するのである。
最高地点まで上がった船は、下りの閘門を利用して大西洋に抜けるのである。
太平洋側のガトゥン閘門(3連式)を設計したのが青山士である。
以下、在パナマ日本大使館のHPから引用する。
運河建設に携わった唯一の日本人技師がいた。その名は青山 士(あおやま あきら)。1904年より1911年までの約7年間、パナマ運河建設に携わっている。
同人は静岡県の出身で、1878年、禅宗の僧侶の三男として生まれた。1903年当時26歳の同人は東京帝国大学土木工学科卒業時に恩師廣井教授より米国がパナマ運河建設のために技術者を募集していることを聞き、同教授の知人であるコロンビア大学のバア教授(パナマ運河委員会の理事を兼任)に紹介状を書いてもらい、同年8月単身米国に渡航した。
シアトル、ニューヨーク滞在の後、翌年6月ようやくパナマに到着した。当初は末端測量員として、熱帯ジャングルの中でマラリアに罹患し命を落としそうになりながらもチャグレス川周辺の測量を続け、その後、大西洋側クリストバル港建設事業に参加し、ガツン閘門の側壁の設計にまで携わっている。
同人は、パナマに来た当初は末端測量員(ポール持ち)であったが、短期間の内に昇進を続け、測量技師補、測量技師、設計技師を経て最終的にガツン工区の副技師長となっている。手際よい測量の腕や勤勉さ、有能さからパナマ運河委員会の彼に対する勤務評定は常に”Excellent”であった。
青山氏は、日米関係の悪化を察知し、運河完成を待たず1911年に日本に帰国した(休暇願を出して帰国し、そのまま戻らなかった。)。
帰国後、内務省の内務技師として採用され、当時頻繁に起こっていた河川の氾濫を防ぐため、数々の治水工事(荒川放水路開削、鬼怒川改修、信濃川大河津分水改修等)を手掛け、当時日本では珍しかったコンクリート工法を採り入れるなどパナマ運河で学んだ最新の土木技術を十分に発揮した。
荒川放水路の岩淵水門工事には主任として携わり、パナマでの経験を生かし基礎地盤を20m掘り下げるなど当時としては画期的な工法を採用しているが、その発想の正しさは、完成後に起こった関東大震災の際、ビクともしなかったことで証明されている。
その後、同人は内務技監まで昇りつめている。
信濃川大河津分水記念碑には、青山氏の直筆の文字が日本語と万国共通語であるエスペラント語で刻まれており、「万象に天意を覚える者は幸いなり 人類の為 国の為」と刻まれている。
以上、在パナマ日本大使館のHPより