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からみ・鍰の由来(29) まとめ

2021-08-29 08:32:33 | 趣味歴史推論
 からみ・鍰の由来(1)~(28)をまとめる。
当初、「からみ」とは、「製錬の際、鉱石中の脈石(シリカなど)と不要な金属分(鉄分など)を、反応させ流動性のよい熔融物として分離したもの」を指していた。「目的金属分が大半であるものが「正味」と云われたことに対し、目的金属分がない、「から」のものだから、「空味」(からみ)を意味したのが、「からみ」の語源ではないかという説があった。それは妥当なのか、また「鍰」の漢字をあてたのは、いつ、誰なのかという疑問の答えを探ることにした。

1. からみの由来
 そこでまず「からみ」の初出をたどると、秋田藩院内銀山の「梅津政景日記」慶長18年(1613)に「からミ」が記録されており、銅吹きより以前に銀吹きに使われていたことがわかった。それを参考にして探すと、慶長7年(1602)石見銀山の大久保長安書状に「からミ」があり、これが、「からみ」の初出であることがわかった。
「からみ」の当て字は、「柄実」「辛味」「殻実」などいろいろあるが、「空味」と書いたものは、一つも見つからなかった。
正味鏈にしたものを処理して、そこから「空味 何もないもの」が生成するというのは、論理的にもおかしい。そこで「何もない から」を意味するものでないところに筆者は、語源を探した。「からミ」初出の石見銀山では、間歩中で銀掘がどんどん打ち削っていく石のうち、銀を含んだ値打ちのある石を「鏈(くさり)」と呼び、たいした値打ちのない素石を「柄山(がらやま)」と呼んだ。「がらやま」と発音されたことから、「柄」の字をあてたと思う。山は岩石を表すが、なぜ「がら ガラ」と発音されたのか。この素石を分けてポイッと放り出した時や、集める時に生じる音が「ガラ」「ガラガラ」と聞こえるので、大した値打ちのない岩石を「がらやま」と言ったと筆者は思う。オノマトペによる柄(がら)である。
 そこで、正味鏈を吹きて生成した(実になった)たいした値打ちのないものを、「ガラの実」と言い、これが「ガラ実」→「柄実」(がらみ)となったのではないか。「柄実」は、たいした値打ちのないものである。しかしよく調べると、銀や銅が残っていたり、焼鉑を熔かしやすくしたり、有用であることがわかってきた。そこで、有用感を出すために、濁音の「ガラ」を静音の「カラ」に変え「カラミ」と呼び、「からミ」とかなで書いたのではないか。現場の大久保長安が率先して使ったので(あるいは指示して)、それ以降、皆が「からミ・からみ」を使ったのではないか。
 しかし、石見銀山の文書では一貫して「からみ」が使われ、「柄実」はなかった。江戸期の鉱山関連の書籍や文書で、「柄実」を多く使っているのは、佐渡金銀山である。佐渡では、文禄4年(1595)、石見国から来た山師により、鶴子銀山が稼行された。その頃に、「柄実」が伝わったのではないか。そして、この「柄実」は、石見では使わなくなったが、佐渡では生き残り使われたのではないか。見つけた最も古い「柄実」は、寛永20年(1643)「未6,7両月、相川上下組小役銀高」(佐渡国略記)である。「柄実買」は、柄実には銀分が含まれているので、回収して商売にしていた。この頃には、「柄実」は、「からみ」とも発音されていたかもしれない。「柄実」が最も古い「からみ」の当て字であることがわかった。
 発音「がらみ」→文字「柄実」→発音「からみ」と変化したとする「柄実」説を提案した。

2. 鍰の由来
 「からみ」は、不要な金属成分と脈石を一体ものとして除く操作でできるものであり、有用な金属がまだ含まれていること、焼鉑を熔かしやすくすること、等有用なものである。そこで、銅や鉛と同じように1字の漢字で、表記したいと考えた人が「鍰」を仮借したのであろう。「鍰」は、もともと中国の漢字で、①貨幣の目方、6両(約100g)②輪、環 を意味する。
 石見銀山、生野銀銅山、多田銀銅山、吉岡銅山、別子銅山では、幕末まで主に「からみ」が使われてきて、「鍰」はなかった。
秋田藩の黒澤元重著「鉱山至宝要録」(元禄4年)(1691)は、「からミ」であった。秋田藩阿仁鉱山の「山要録」(1840)では、「カラミ」18か所に対して「鍰」は、1ヶ所だけであった。秋田藩では「鍰」はほとんど使われていなかったといえる。
 一方、南部藩(盛岡藩)では、文化9年(1812)の南部藩家老日誌に、「捨鍰」と記されており、これが「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである。赤穂満矩「鉱山聞書」(1785)の明治初年に筆写された写本には、「鍰」が使われていた。南部藩四角岳銅山、不老倉銅山の山師であった赤穂の原本も「鍰」を使っていた可能性は高いが、不確定である。本の場合には、筆写された時期や人により、元の字が変えられている可能性がある。尾去沢銅山の「銅山記」(1797以降)に「鍰」が使われているが、原書の書かれた年が確定できない。尾去沢銅山「御銅山傳書」(1849)には多くの「鍰」が使われている。
以上、南部藩関連の古文書、書籍に早くから「鍰」が見られることから、「鍰」を使い始めたのは、南部藩であると結論した。

3. もう一つの「からみ」の由来
 「至宝要録」(1691)には、「銅の石鉑に、鉑にてなき石交りたるは、打ちくだき捨て、鉑ばかりにする、是をからめると云う事」とある。「鹿角」(発行編輯人大里周蔵)(1921)には、「尾去沢元山の古老がいうには、金鉱を見出して尾去沢繁栄の基を作ったのは、慶長10年(1605)南部十左衛門という人と伝えているけれど、それ以前に元山方面において、銅を吹き出した。当時、石を台として鉱石を上げ(載せ)、鎚をもって打ち砕くことを「からむ」といった」とある。大里武八郎「鹿角方言考」(1953)によれば、「からむ・絡む」は、南部藩鹿角では、「打つ、たたく、殴るの意に常用す。けだし、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるより、転用するに至りたるなるべし」とある。
 尾去沢銅山発祥の「からめ節」は、鉱石を鉄鎚にて叩き砕くときの唄である。万延元年(1860)南部藩主利剛に尾去沢銅山の金場(かなば)で働く女性たちが、唄いながら「からめ」作業を披露した様子を、随行者の上山守古が、「両鹿角扈従(こしょう)日記」(1860)に「石からみ節」として記している。「石からみ節」は、「からめ節」の元とされている。鉑を打ち砕くことに由来する「からみ」という語があったのである。南部藩の人にとっては、「め」と「み」は、似た発音なので、「からめ」、「からみ」のどちらでもよかったのかもしれない。
 佐渡でも「からめ」「からみ」で同じような状況が確認された。「元和2年 諸間歩出鏈高」(1616)には、「からめ鏈」があり、これは砕いて小さくした鏈や砕いて脈石部分を捨て去った鏈を指すものと推定される。佐渡金銀山の技術書「ひとりあるき」上(1830~1843)には、「鏈を石撰(いしより)する際、白石が多いものを「からみ石」とて除き置いて、鏈を撰仕舞した後に、白石を鎚にて打落して、上中下と撰り分けることを「からむ」という。白石を打ち落とした鏈を、からみ鏈という。」とある。「ひとりあるき」には、「からめ鏈」はなく、時代とともに「からめ鏈」→「からみ鏈」へ変化したのか、或いは、「め」と「み」は発音が似ているので、どちらの発音でも意味が通じればよかったのかもしれない。
以上のことから、南部藩、および佐渡では、「打ち砕く」を意味する「からむ・絡む」「からめる・絡める」という方言があり、そこから「からみ」という語が生まれたと推定できる。この「からみ」は、いわゆる鉱滓の「鍰」とは、異なるものを指し、もう一つの「からみ」である。
 寛政2年(1790)備中吉岡銅山では、山困窮につき、「捨てカラミ」と「出カラミ」を拾って吹立て銅を作る願書がある。「出カラミ」は、鉑のからめ作業(砕いて選鉱)で出た、まだ銅分が残る脈石であろう。すなわちもう一つの「からみ」である。奥羽の「からみ」の語が備中に伝わっていたと考えられる。「捨てカラミ」は、鉱滓の「鍰」が山に捨てられたものである。「捨鍰」の吹立願は、南部藩家老席日誌(1812)に記されているが、それよりも吉岡銅山のこの願書は、22年ほど古いものであった。

4. かなめ・砕女の由来
 「かなめ」の初出は、寛文6年(1665)の多田銀銅山の「かなめ搥」である。この「かなめ」の初出は、奥羽の「からめ」より古いが、佐渡の「からめ」(1616)より50年も後である。鉱山開発は関西が古いにもかかわらず、「かなめ」の古い記録がない。このことから、鉑石を砕くという意味の「かなめ」は、「からめ」が訛ってできたと筆者は考える。「かなむ」「かなめる」という動詞語は、辞典に載っておらず、普通に使われる語ではない。「ナ」と「ラ」は、発音が似ており、「から」を「かな」と聞き間違いから出来たとも考えられる。
以上のことから、「かなめ」は、「からめ」の転訛した言葉であると推定した。
 住友(泉屋)は、吉岡銅山の第一次経営にあたり、貞享元年(1684)に出した「願書」には、「かなめ女」が使われている。このことから「かなめ」は作業名を表していることが分かる。住友は、元禄4年に別子銅山を開坑した。「砕女」の初出は、「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)の「砕女小屋」である。これは、「かなめ」作業をする小屋を意味する。この「砕女」の「女」は、「め」の音を表す字で、「おんな」を表しているのではない。仮名文字「め」の元の漢字「女」である。「砕女」は、センスのある当て字である。これを考案したのは、貞享から元禄期の泉屋の手代であると推定した。泉屋は、同時期に、しぼり→鍰、間歩→間符と独自の漢字をあてている。砕女も同じ人が考案した可能性がある。泉屋は、別子銅山で一貫して「砕女」を使っていることも、自ら考案したことの裏付けになろう。
 「砕女」作業を受け持ったのは、女たちで、いうならば「砕女女」が、女のかなめ作業者なのであるが、これが、いつしか「砕女」だけで、かなめ女を意味する様になったと思われる。「砕女」は、センスが良かったこと、泉屋が使ったことなどから広く使われるようになり、明治以降現代でも生きており、歴史を記す際に、一般的に使われる当て字となった。