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立川銅山(8) 金子村山師 弥一左衛門こと眞鍋八郎右衛門

2022-04-10 08:09:07 | 趣味歴史推論
 立川銅山の山師を勤めた真鍋氏は、抜合事件で記録に残っている。しかし文献により、その名前は、弥一左衛門、弥市左衛門、彌一左衛門、彌一右衛門、弥一右衛門、与一右衛門、間鍋彌一左衛門、真鍋八郎右衛門 といろいろある。庄屋真鍋家にも中村大庄屋の真鍋家と金子村庄屋の真鍋家があり、筆者には、実在したどの人が、山師を勤めたかが、よくわからなかった。住友史料では、その当時の「別子銅山公用帳一番」に書かれているので、一貫して弥一左衛門であるが、それがどの真鍋家当主のことなのかを筆者は、知りたかった。
眞木孝「中村大庄屋真鍋氏墓地調査」1)を見ると、初代から元禄の当主の名前として、与右衛門、興右衛門が襲名されており、「よ」えもん の発音なので、豫右衛門と書かれるかもしれないと筆者は、思った。「豫」と「彌」の崩し字は似ているので、別子銅山公用帳では、「豫一右衛門」と書かれていて、解読で「弥一左衛門」に誤読した可能性はないのかと考えた。
すなわち「別子銅山公用帳一番」には、
① 元禄8年8月付の抜合に付いての訴状に、 「立川銅山士 金子村 弥一左衛門」3ヶ所あり、
② 元禄10年閏2月4日の銅山境についての評定所の裁定書に 「山師 弥市左衛門」2ヶ所ある。2)
住友史料館に、上記5ヶ所の「弥一左衛門」表記について 原本を確認していただいたところ、全て「弥一(または市)左衛門」と読めるとの見解であった。筆者も、送っていただいた原本の複写で「弥一左衛門」であることを確認できた。
 よって、「弥一左衛門」は、訴状や裁定書に書かれた名前であり、間違いなく、「やいちざえもん」と呼ぶ人がいて、金子村の山師であった。
 
 次に金子村庄屋の真鍋当主の資料を探したら、小野清恒「近世の庄屋役変遷記(新居浜市)(1)」が見つかった。3)それには、金子村庄屋についてまとめた年譜が記されているので、以下に 6代までの当主名と没年月日と事績を抜き書きした。

(五)金子村庄屋
 真鍋氏の系譜によると、徳川時代初期慶長年間(1596~1614)加藤嘉明公の治下、中村組大庄屋役真鍋与右ヱ門の弟久右衛門忠俊は、金子村の庄屋役を仰付らる。以後子孫代々世襲して庄屋役を勤む。
初代 真鍋久右ヱ門忠俊 (寛文9年5月21日没)   元和7年庄屋役仰付、寛文8年一宮大明神楼門一宇成就
2代 真鍋甚右ヱ門正忠 (延宝8年5月26没)     万治2年洪水番水一札指入れの事  
                         寛文9年洪水井堰番水にかかわる。
                         延宝元年一宮大明神正殿一宇成就
3代 真鍋八郎右ヱ門友重 (元禄16年10月8日没) 元禄8年立川銅山と別子銅山との境界問題で幕府裁定の間江戸にて2年間の入牢
4代 真鍋与次左ヱ門吉親 (享保6年4月6日没)   八郎右ヱ門入牢中の庄屋役を勤む                       
                         元禄15年一宮大明神一之鳥居一基寄進
                         享保3年一宮大明神楼門一宇再建
5代 真鍋甚右ヱ門                 宝永元年洪水井堰番水にかかわる
6代 真鍋八郎右ヱ門繁総              正徳4年二代藩主頼致公一宮大明神参拝に随行 
                           享保元年磯浦名古城塩田を開発 
                           享保8年林香庵に大般若経奉納
                          享保18年一宮大明神にて蝗(いなご)除祈願に参列
                           享保19年金子備後守150年祭に参列

 小野清恒は、3代 真鍋八郎右ヱ門友重は、「元禄8年立川銅山と別子銅山との境界問題で幕府裁定の間江戸にて2年間の入牢」、4代 与次左ヱ門は、「八郎右ヱ門入牢中の庄屋役を勤む」と記載している。この記述は何に基づいているのか。真鍋家の過去帳、あるいはその当時の古文書であればよいのであるが。金子村、年代、年令、没年からみて、この八郎右ヱ門が抜合事件の当事者であるとしてよいと思われる。なお、「裁定の間2年間入牢」は間違いで、「裁定の後、2年間」である。(八郎右衛門は早く牢を抜け出したという伝説があるが)
次の4代は与次左ヱ門 なので、3代八郎右ヱ門は、 与一左ヱ門とも呼ばれたことがあったかもしれない。

 真鍋八郎右ヱ門の墓石を探し存在を確認することにした。
新居浜市西の土居にある御茶屋観音堂は、金子村庄屋真鍋家の持庵であり、真鍋家の菩提寺である曹洞宗慈眼寺の末庵である。御茶屋観音堂の墓地に、金子村庄屋真鍋家の墓石群があり、その中に真鍋八郎右衛門の墓石があった。本人と妻は、同じ大きさの個別の棹石を一つの台に載せている。棹石 高さ108cm、上台、中台、下台合わせて高さ100cm、花崗岩で刻字もかなり読める状態の立派な墓石である。→写真1,2

本人と妻の墓石刻字を示す。

  自證院無覺了端居士
   (右) 元禄十六未十月八日
   (左) 俗名 眞鍋八郎右衛門

  大椿院量屋貞壽大姉
   (右) 享保十巳三月二日
   (左) 同室


 眞鍋は、「眞」を使っていた。没年が元禄16年(1703)ということは、出牢して数年足らずして亡くなっているということである。心労が影響したのであろうか。先代の没年延宝8年(1680)に庄屋役を20才で継いだとすると、享年43才となる。
この墓所には、2代甚右衛門、7代八郎右衛門、10代久右衛門、13代救右衛門、14代久右衛門と妻たちの墓石があった。→写真3
年譜には、甚右衛門と称する人も二人いることから、入牢した3人の内の一人の甚右衛門は、やはり金子村庄屋真鍋家の一人なのであろう。
眞鍋八郎右衛門は、小野清恒作成の年譜と墓石により、事件当時の金子村庄屋当主として存在が確認できた。
以上のことから、金子村弥一左衛門と眞鍋八郎右衛門とは、同一人物であると結論した。出牢して故郷に帰り、心機一転して、弥一左衛門を止め、八郎右衛門を名乗ったのではないか。

まとめ
 抜合事件の金子村山師 弥一左衛門こと眞鍋八郎右衛門である。

住友史料館には、弥一左衛門の表記について調べていただきました。お礼申し上げます。
 
注 引用文献
1. 眞木孝「中村大庄屋真鍋氏墓地調査」『新居浜史談』407号p32(新居浜郷土史談会 2022.4)
2. 住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p39,40,44,60,61(思文閣 昭和62 1987)
3. 小野清恒「近世の庄屋役変遷記(新居浜市)(1)」『新居浜史談』228号p10(新居浜郷土史談会 1994.7)

写真1. 眞鍋八郎右衛門と同室の墓石


写真2. 俗名 眞鍋八郎右衛門


写真3. 御茶屋観音堂墓地の金子村庄屋真鍋家の墓石群