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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

芭蕉の禅的な俳風の出所

2009年07月19日 | Weblog
正保元年(1644)伊賀上野に生まれた松尾芭蕉は、「おくのほそ道」で不易流行と言う境地に至った。その俳風は、「わび」「さび」「しほり」などで知られるが、延宝八年(1680)三十七歳の冬にそれまで住んでいた日本橋に近い小田原町から、俳諧の宗匠をやめて隅田川の川向こうの深川に引っ越す。江戸に出て三十二歳の頃から桃青の号で俳諧の宗匠として名声を恣にしていた最中に、突然の変身である。そのころ鹿島神宮から寺領を侵されて江戸の寺社奉行に解決してもらいに来て深川大工町の臨川庵に滞留していた鹿島の根本寺の仏頂和尚に参禅するようになった。芭蕉は、深川に引っ越す前から仏頂和尚と知り合っていて、その教えに傾倒したのかもしれない。この頃から芭蕉は漢詩や禅に関心を深めたとみられる。「おくのほそ道」には多くの漢詩が引かれている。
また、鹿島神宮との寺領の係争を解決して鹿島の根本寺に帰った仏頂和尚を貞享四年八月四十四歳の時にわざわざ訪ねて、『鹿島詣』を記している。
「根本寺のさきの和尚いまは世をのがれこの所におはしけるといふを聞きて、尋ね入りてふしぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ。しばらく清浄の心を得るに似たり。」
とあるから、芭蕉は仏頂和尚に相当に傾倒していたと思われる。