涼風野外文学堂

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日本におけるリバタリアニズム?

2009年10月20日 | 政治哲学・現代思想
 個人的には、リバ=コミュ論争なんてのは「既に終わった話」だと思っています。それなのに、日本国内のブログやメディアなどでは、未だに「リバタリアニズム」という単語を見かける機会が少なくありません。
 今日も仕事の関係で、とある行政法の先生(その業界では有名な方です)の書いた文章を読んでいて、「最近の行政法制度の改正を理解するには、その背景にある哲学をも読み解かなければならない」という話から、具体的には指定管理者制度(地方自治法244条の2)を挙げて、「その背景の思想として、リバタリアニズム、ネオ・リベラリズムといった、NPM理論の基礎となる哲学を理解しなければならない」のような話が展開され、そこからリバ=コミュ論争の紹介(しかも、ところどころ間違ってる)に発展したところで、のけぞりました。あんまりびっくりしたので、70年代のリバタリアニズムも80年代の小さな政府論も90年代の新自由主義も一緒にするな、という点から、70年代アメリカ政治学の停滞とロールズ『正義論』の登場がいかにセンセーショナルであるか、ゆえにノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』でこれへの反論を試みたこと等について、つい同僚に講義してしまいました。

 ノージックが「自由至上主義(リバタリアニズム)」という語を用いたのは、アメリカ政治学の用語における「リベラル」(これの対義語は「コンサーバティブ」です)の射程を超えていることを主張したかったためと思われます。
 『アナーキー・国家・ユートピア』が世に出されたのは1974年のことです。60年代後半から70年代前半のアメリカを想像すると、例えばウッドストックであったり、ヒッピー・ムーブメントであるというようなイメージをもって、理解する必要があると思うのです。
 したがって、これをリバタリアニズムの中心的理論と位置づけるのであるならば、その背景に、体制的なものへの警戒感があることを理解しなければいけないと思うのです。だからノージックは「何故アナーキーであってはいけないのか」を議論のスタートに置き、アナーキーとの対比で最小国家の正当性を肯定する。
 ところが、今日の日本における「自称リバタリアン」たちは、こうした警戒感をまったく抱くことなく、単に「市場への信頼」を言うために「リバタリアン」を自称する傾向が、強いように思います。90年代以降のいわゆる新自由主義が新保守主義と親和的であったことが示すように、単純に国家的規制を緩和し市場の自由に委ねると、実は、官民問わず多くの組織は肥大化し、体制は堅固化し、これに対峙する個人の無力さは「それはそれで自己責任」として切り捨てられる結果になります。ノージックはこの点について警戒心を抱いていて、だからこそ最小国家の先に「ユートピア」を構想したのですが、この点の是非について論じるリバタリアンを日本でついぞ見かけないのです。

 そう考えると、昨今の日本で語られる「リバタリアニズム」は、もはやノージックがその語を用いたときとはまったく別のものを指し示すものになっているのかもしれません。日本独自のリバタリアニズム、と言えば聞こえはいいですが、もしかしたら、思想と呼べるほどの一貫性がない(どちらかといえば「信念」や「信仰」に近い)類のものに、ただ名前だけを付けて満足しているだけかもしれない、と思うと、多少やるせない気持ちになってきます。

 結論:ノージックはお前らよりもう少しちゃんと物事考えてるからしっかり読め。