連休明け、当オフィス宛ての大量の郵便物を分別していると、1通の誤配郵便物を見つけました。
毎日膨大な郵便物を受け取るオフィスなので、誤配は日常茶飯事なのですが、今日の誤配はひどかった。宛先は、隣の市。差出人も、隣の市。封筒の表に「料金不足のため返却いたします」の貼り紙。
……こういうもの誤配しちゃマズいだろ。
ちなみに、当オフィスとの共通点は、7桁の郵便番号のうち頭の1桁だけです。
統計取ってるわけではないので体感的な感想に過ぎませんが、最近、郵便物の誤配の件数が増えた気がします。それも、1年くらい前には考えられなかったような、仕様のない凡ミスが目立ちます。
同じようなことが、例えばスーパーのレジや居酒屋の注文取りでも感じられるようになってきました。値札より高い値段でレジ通されたり注文した酒が届いてないのに伝票だけ入ってたりするので、片時たりとも気が抜けません。しかも、こちらが間違いに気付いて指摘してあげても、バイト君はマニュアル外の行動に咄嗟に対応できなかったりして、数少ない社員さんを呼び出したりしてる間にレジの背後に長蛇の列が出来てたりします。かなり気が重くなります。
今日における「資本と労働の関係」ということを、ここしばらく考えていて、いまいち考えがまとまらないのですが、差し当たり今日は、基本的な前提条件として、いくつか問題提起をしておきたいと思います。
労働は以下の2つの点で、市場経済に順応しません。第1に、需要の増減があったからといって、そう簡単に供給量を調節できない点。第2に、個々の労働者が労働力の供給主体であると同時に貨幣を行使して他人の労働力の成果を享受する客体でもあり、この重層構造が、市場メカニズムからの分析に馴染まない点です。
ごく初歩的な「合成の誤謬」さえも説明できない、市場原理主義の如きは、雨乞いかまじないに等しいものであって(この辺り、金子勝の受け売り)、正面から論ずるにも当たらないと思っているのですが、苦々しくもあえて言及するなら、役所でも企業でも経営改革が持て囃され、NPMからかんばんシステムまで多種多様なコストカットの手法が導入されたこの10年ばかりの間、この国の雰囲気として蔓延していたのは、短期的なコストカットが、長期的な経済成長の端緒となるという、根拠のない信念でした。
しかし実体経済は、市場原理主義者が考えているよりも格段に複雑なメカニズムで動いているのであって、実験室での実験がそのまま自然現象の説明に使えないのと同様に、単純化された市場モデルで得た理論は、そのままでは実体経済を理解する役には立ちません。
各個別の経済主体は、市場におけるプレイヤーとして完全な情報を有しているわけではないのですから、市場原理主義者が考えるように、常に最適行動が取れるはずはありません。結果、「合成の誤謬」に代表されるように、各個人が自己の利益を最大化しようと行動することが、かえって全体のパイを小さくしてしまい、それがさらに極端な利己行動を誘引するという、悪循環を招くことになります。
不幸なことに、こうした「市場原理主義の失敗」が、特にコストカット競争として現れたことが、この国の、ひいては世界の「労働-市場」を自壊させてしまいました。自らの足を食む蛸のように、愚かしくも、経済システムを支える大前提であるべき「人間の生存権」を蝕んでしまったのです。
ここからは憶測の色合いがより強くなり、論理の精度が落ちますが、こんな考え方は成り立たないでしょうか。
本来市場経済に馴染まないはずの「労働」が、コストカット圧力に晒され、切り詰められる(非正規雇用の増大・雇用流動化についてもはや言うにも及ばず)ことは、長期的に、全体的に見れば、労働の「質を下げている」のではないか。
このような「労働の劣化」は、市場における交換の場面で需給双方にストレスをもたらし、このストレスは「想定外のコスト」となって全体のウェルフェアを目減りさせているのではないか。
……んー、携帯からはこのへんが限界です。
また後日ゆっくり考え直してみます。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。
毎日膨大な郵便物を受け取るオフィスなので、誤配は日常茶飯事なのですが、今日の誤配はひどかった。宛先は、隣の市。差出人も、隣の市。封筒の表に「料金不足のため返却いたします」の貼り紙。
……こういうもの誤配しちゃマズいだろ。
ちなみに、当オフィスとの共通点は、7桁の郵便番号のうち頭の1桁だけです。
統計取ってるわけではないので体感的な感想に過ぎませんが、最近、郵便物の誤配の件数が増えた気がします。それも、1年くらい前には考えられなかったような、仕様のない凡ミスが目立ちます。
同じようなことが、例えばスーパーのレジや居酒屋の注文取りでも感じられるようになってきました。値札より高い値段でレジ通されたり注文した酒が届いてないのに伝票だけ入ってたりするので、片時たりとも気が抜けません。しかも、こちらが間違いに気付いて指摘してあげても、バイト君はマニュアル外の行動に咄嗟に対応できなかったりして、数少ない社員さんを呼び出したりしてる間にレジの背後に長蛇の列が出来てたりします。かなり気が重くなります。
今日における「資本と労働の関係」ということを、ここしばらく考えていて、いまいち考えがまとまらないのですが、差し当たり今日は、基本的な前提条件として、いくつか問題提起をしておきたいと思います。
労働は以下の2つの点で、市場経済に順応しません。第1に、需要の増減があったからといって、そう簡単に供給量を調節できない点。第2に、個々の労働者が労働力の供給主体であると同時に貨幣を行使して他人の労働力の成果を享受する客体でもあり、この重層構造が、市場メカニズムからの分析に馴染まない点です。
ごく初歩的な「合成の誤謬」さえも説明できない、市場原理主義の如きは、雨乞いかまじないに等しいものであって(この辺り、金子勝の受け売り)、正面から論ずるにも当たらないと思っているのですが、苦々しくもあえて言及するなら、役所でも企業でも経営改革が持て囃され、NPMからかんばんシステムまで多種多様なコストカットの手法が導入されたこの10年ばかりの間、この国の雰囲気として蔓延していたのは、短期的なコストカットが、長期的な経済成長の端緒となるという、根拠のない信念でした。
しかし実体経済は、市場原理主義者が考えているよりも格段に複雑なメカニズムで動いているのであって、実験室での実験がそのまま自然現象の説明に使えないのと同様に、単純化された市場モデルで得た理論は、そのままでは実体経済を理解する役には立ちません。
各個別の経済主体は、市場におけるプレイヤーとして完全な情報を有しているわけではないのですから、市場原理主義者が考えるように、常に最適行動が取れるはずはありません。結果、「合成の誤謬」に代表されるように、各個人が自己の利益を最大化しようと行動することが、かえって全体のパイを小さくしてしまい、それがさらに極端な利己行動を誘引するという、悪循環を招くことになります。
不幸なことに、こうした「市場原理主義の失敗」が、特にコストカット競争として現れたことが、この国の、ひいては世界の「労働-市場」を自壊させてしまいました。自らの足を食む蛸のように、愚かしくも、経済システムを支える大前提であるべき「人間の生存権」を蝕んでしまったのです。
ここからは憶測の色合いがより強くなり、論理の精度が落ちますが、こんな考え方は成り立たないでしょうか。
本来市場経済に馴染まないはずの「労働」が、コストカット圧力に晒され、切り詰められる(非正規雇用の増大・雇用流動化についてもはや言うにも及ばず)ことは、長期的に、全体的に見れば、労働の「質を下げている」のではないか。
このような「労働の劣化」は、市場における交換の場面で需給双方にストレスをもたらし、このストレスは「想定外のコスト」となって全体のウェルフェアを目減りさせているのではないか。
……んー、携帯からはこのへんが限界です。
また後日ゆっくり考え直してみます。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。