涼風野外文学堂

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「外来語言い換え」に見る日本語の臨界。

2006年07月27日 | 文学
 仕事中にたまたま、国立国語研究所のやってる「外来語言い換え」についての話題になりました。私はあの活動には総じて反対(理由は「センスが悪すぎるから」。大体「ユビキタス」を「時空自在」なんて訳すその感覚が分からない)なのですが、そこからふと、なぜ「今」外来語がこんなに攻撃されなければならないのだろう、という疑問を抱いたのでした。今日はそんな話題で。

 ご承知のとおり、現在日本語として流通している語彙をざっと眺めてみても、伝統的に、日本語が特段外来語への寛容度が低いということはなかったようです(「かるた」とか「いくら」とか)。
 そもそもわれわれの使っている文字からして「漢字」なのであって、これは字面どおり「漢-字」ですよね。英語で言えばChinese Characterです。大陸伝来です。われわれが日常何気なく使用している、日本語古来の伝統的な語彙だと信じているものも、漢字にして、音読みか訓読みか考えてみて、音読みだったら中国語由来じゃないか、とちょっと疑ってみた方がよいです(もちろん、和製漢字とかもあるので一概には言えません)。
 その流れからいけば、日本語の語彙が外来語を取り込んで豊富になっていくのはむしろ自然の流れであって、何を目くじら立てることがあるんだ、という疑問が浮かばないでしょうか。外来語を取り入れる、というのは、往々にして、日本語に直訳すると失われてしまう微妙なニュアンスを含めて言い表したいからであって、日本語表現をいっそう豊かにするものなのであって、歓迎されこそすれ、どうして批判されなければならないのでしょうか。

 ……という風に考えてきた中で、ひょっとしたら、日本語が外来語をカタカナとして取り込むことそれ自体が問題なのではなくて、最近、その外来語の量が多すぎるという、ただ単にそれだけの問題なのではないか、ということに、ふと思い当たったのです。
 もちろん厳密な統計を取ったわけでもないので憶測でしか語れません(そもそも統計なんて取りようがない)が、単純に量の問題だ、というのはなかなか魅力的な仮説だと思うのですが、どうでしょうか。外来語が問題なのではなくて、最近外来語が多すぎるのが問題だ、と。若い子はいいけどわしら年寄りにはついていけないヨ! といった風に。
 仮説の上に仮説を組み立てるのは本来反則ですが、仮に、近年外来語の流入量がどんどん増えているのだとするならば、その原因は何でしょうか。やはり、コミュニケーションツールやメディアの変革がその背景にあると、意識せざるをえないのではないでしょうか。(ラジオからテレビへ、新聞からウェブへ、手紙からケータイへ)

 加えて、国研の言い換え対象に挙げられている「外来語」が、やたら専門用語っぽいものばかり含んでいるように感じられるのは、私だけでしょうか。行政白書からのサンプリングが多すぎるのかな。「コンソーシアム」とか「オピニオンリーダー」なんて、ビジネスの場面でしか使わないでしょうし、「サマリー」とか「アジェンダ」なんて論文書くときしか使わないでしょう。
 逆に言えば「専門用語が日常用語化している」ということでもあるでしょうから、これはこれで注目すべき現象であると思います。ついでに言えば、もとが専門用語なのだから、無理矢理「翻訳」しちゃったら余計意味が通じなくなりますよね。

 総じて、「ついていけないくらい外来語が流入している」という現状は、「時代は新しい日本語を必要としている」という、さらに言えば「日本語の大転換期」を目前にしている、という認識を新たにさせてくれるのではないでしょうか。これは、文学を志す者にとっては実にやりがいのあるフィールドであるように感じられます。うん、なんかやる気出てきたぞ。国研批判が思わぬ発見をもたらしてくれた。

 ついでのついでですが、「ユビキタス」は固有名詞なので訳しちゃダメです。
 「クールビズ」と一緒です。


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